バルナバ栄一の『「信仰・希望・愛」の展開の物語』 第五部(2)鳩

 「様々 な賜物」

「賜 物にはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ聖霊です。務めにはいろいろありますが、それを お与えになるのは同じ主です。働きにはいろいろありまが、すべての場合にすべてのことをなさるのは同じ 神です。一人一人に御霊の働きが現れるのは全体の益となるためです。ある人は御霊によって知恵の言葉、 ある人は同じ御霊によって知識が与えられ、ある人にはその同じ御霊によって信仰、ある人にはこの唯一の 御霊によって病気をいやす力、ある人には奇跡を行う力、ある人には預言する力、ある人には霊を見分ける 力、ある人には様々な異言を語る力、ある人には異言を解釈する力を与えられています。これらすべてのこ とは、同じ唯一の御霊の働きであって、御霊は望むままに、それを一人一人に分け与えて下さるのです。
(Tコリント12:4〜11)

 コリントの最初期の集会では様々な御霊の働きが、 日常的に会衆みんなの前で示されていましたので、当時の信徒たちには賜物が身近な経験でしたが、現在の教会 には理解しがたい現象も多いので、以下その説明を述べます。最初に「知恵(ソフィア)の言葉」と「知識(グ ノーシス)の言葉」です。この二つを厳密に区別するのは困難です。パウロは「奥義」としての神の言葉を語っ ていますが、「神の知恵」は、世の霊ではなく、神からの霊によって与えられ、その御霊によって「神からの恵 みとして与えられているもの」を理解するのです。ここに語られている「知恵」は、「隠されている神の奥義 《ミュステーリオン》」と「神から賜っている《恩恵》の事態」の両方を理解する能力です。前者はイスラエル の歴史の中に隠されていた「神の秘密の《救済計画》の理解であり、具体的には旧約聖書を解釈するという形で 現れる知恵です。後者¬=知識は、神がイエス・キリストの地上の働きと言葉によって最終的に与えて下さった 恩恵の救済の事態を的確に理解する力です。そして、このように御霊によって与えられた「知恵」の内容を語る には、「人の知恵によって」教えられた言葉によるのではなく、「御霊に教えられた言葉によって」語らなけれ ばなりません。この言葉が「知恵の言葉」(知識の言葉)であり、《エクレーシア》の信仰内容を指導する重要 な賜物です。パウロは、非常にすぐれた聖書知識だけではなく、第三の天まで引き揚げられるという霊的啓示体 験も含めて、このような「知恵の言葉」に満たされた、典型的な人物でした。
次に、「信仰」と「病気をいやす力」と「奇跡を行う力」の三つは、ほぼ同じ内容を示すカリスマ(賜物)で す。ここでいう信仰は、「イエスを復活者キリストと信じ、主と告白するという意味の信仰」、即ち「信仰に よって義とされると云う時の信仰」とは違い、「山を移す信仰」(Tコリント13;2、マルコ11;23)と 云う、力ある業を行う特別の霊的能力を指し示す信仰です。それは「奇跡を行う力」とも云われます。その奇跡 は大部分(病気をいやす力)として現れます。パウロもこの力に豊かに恵まれていました。(ローマ 15;19)。
次のグループ、「預言」と「異言」は御霊によって直接語り出される言葉であって、集会の参加者が理解できる 日常語で語られるのが預言であり、語る本人すら全く理解できない言葉で語られるのが「異言」です。更にその 本人も分からないは言葉=異言を説き明かすカリスマ(賜物)を持つ人もいると云われています。以上、色々な 霊的能力がカリスマ(賜物)と呼ばれますが、それを受ける人の能力や資格とは無関係に恩恵(カリス)によっ て、与えられている能力であるから(カリスマ)と呼ばれるのです。大切なことは、与えられている一つ一つの 能力が、自分の身についた能力だと勘違いしてはなりません。「カリスマ」として受ける能力は様々でも「同じ 御霊から与えられるのです」。
「務めは様々ですが、同じ主です」(5節直訳)。ここに挙げられている色々な霊的能力は、その人の益の為で はなく、人に仕える能力として与えられています。仕え方は様々ですが、仕える主人は同じ方、即ち、主キリス トに外なりません。
働きは様々ですが、すべてのことにおいてすべてをなされる神は同じです(6節直訳 市川師訳)。ここに記載 された様々な御霊の働きをしておられるのは同じ神です。ここで神が「す べてのことにおいてすべてをなさる方」と表現されています。神は「天地万物の創造者にし て保持者」であるだけでなく、目の前の「エクレーシア」で働いておられるのです。こうして「エクレーシア」 は、神、主キリスト、御霊が一体として具体的にその働きを現される場となっているのです。「三位一体」は議 論の問題ではなく、《エクレーシア》での具体的な体験なのです。
(一人一人に御霊の現れが与えられている)のは益となるためです(7節直訳)。誰の為の益かは、この 12〜14章全体から、「エクレーシア」形成の為の益であることは明らかです。主はみ心の欲するままに、 「エクレーシア」を構成する一人一人に御霊の現れを与えて「エクレーシア」の形成に奉仕させられます。御霊 は目には見えません。どこから来てどこへ行くのか誰も知りません。しかし、御霊の働かれる時には、「御霊の 現れ」があります。

「わたしたちはみな、ユダヤ人であろ うとギリシャ人であろうと、奴隷であろうと自由人であろうと、一つの御霊によって一つの体の中へバプテ スマされ(浸し入れられ)、皆一つの御霊を飲んだのです」 (Tコリント12;13   市川喜一師 私訳)

 本来「パプテイゾー」と云う動詞は、(水の中に漬すとか沈める)と云った動詞です。勿論「洗礼を受ける」 という意味を持っていますが、「一つの体の中へ」と云う言葉に添えられると、「沈む、とか、浸す」といった 意味が明らかになって来ます。だから《洗礼を受ける》と云う意味と二つの意味が微妙に組み合わさったものと 受け取る方がよいのではないか。ローマ書6章3節に「そ れともあなた方は知らないのですか。キリスト・イエスの中へとバプテスマされたものは誰でも、キリスト の死の中へとバプテスマされたのです」と云う言葉をパウロが使っています。コリント書簡 のこの箇所でも二つの意味が重なっていますが、「御霊によって」と云う句が加わることによって、「洗礼を受 ける」という儀式的な意味は背後に退き、キリストの体と云う霊的現実に組み入れられると云う、霊的出来事が 前面に出てきます。この一つの体に所属するという事実が、賜物がいかに多様であっても「エクレーシア」の統 一を保証するのです。この保証が、「一つの体に多くの賜物が混在していても、混乱は起こらず、十字架された キリストを信じる者に聖霊が与えられ、賜物によって仕えるようにされることの重要さを指摘しています」。つ まり、洗礼を授けられる意味の重要さです。だから、キリストを信じて洗礼を受けるということは、キリストの 福音を授かることです。
 
 「エクレーシア」を「キリストの 体」と理解するのは、パウロ独自のものであり、様々な「エクレーシア」理解の中で最も深 いものの中の一つです。その理解が、聖霊を語るブロックの中に出てくるのは偶然ではありません。聖霊の働き を語る時、必然的に聖霊の働きの具体相である《キリストの体》「エクレーシア」に触れないではおれないので す。パウロはコリントの集会が聖霊の賜物《カリスマ》に恵まれているために,各自が自分の霊的能力を誇り集 会の交わりが損なわれることを心配して、同じ一つの体に属することを強調しました。教会の本質を深く喝破し たパウロのこの一文を、現在の複雑な教会問題を考える時、キリストの体としてのキリスト共同体の形成は、聖 霊によると云う、パウロのこの原点に立ち帰って、そこから考えねばなりません。一人一人が、キリストの御霊 に導かれて、あらゆる人間的拘束から解放された「自由」、と(平和な精神)とを持って、パウロの言う、「尊いのは、愛によって働く信仰だけである」(ガ ラテヤ5;6 口語訳)を、キリスト者の信条として、かのアルベルト・シュバイツアーのように一歩踏み出し て生きたいものです。

 

←前へ     次へ→

 
聖書

 

バルナバ栄一の『「信仰・希望・愛」の展開の物 語』

  第五部  1 2 3 4

 

芦 屋聖マルコ教会 トップページ