バルナバ栄一の『「信仰・希望・愛」の展開の物語』 第五部 (1)
「信仰・希望・愛」の展開の物語
第五部 パウロの福音伝道の内容の抜粋 (その3)
「御 霊のキリスト」
パウロにとってキリストは、イエスと云う人物として自分の外におられるだけの方ではありません。パウロに とってキリストは現実に御霊と云う形で、自分に対して、又自分の中で働かれる方です。キリストは復活の後、 パウロにも現れて、パウロをご自分の僕として召されました。キリストが現れたという事は、キリストがその人 に対して働きかけられたという事です。その働きは1回限りのものではなく、パウロの生涯にわたります。パウ ロはこのキリストの働きを受けて、キリストの僕として生涯、福音の為に働き続けました。パウロはその働きを 自分の働きとしてではなく、自分の中におられるキリストの働きとして自覚しています。パウロは自分の働きを 回顧して次のように言っています。
「異邦人を従順に導くために、キリ ストが私を通して働かれたこと以外は、わたしはあえて語ろうとは思いません。キリストが言葉とわざにお いて、しるしと不思議を現す力により、御霊の力によって働かれたのです」(ローマ 15;18〜19)。
このようにパウロは自分の中にいまし、自分を通して働かれるキリストを深く自覚していました。パウロはその キリストの働きを「御霊の力によって」なされた働きとしています。キリストの働きは御霊の働きです。パウロ はこのことを「主は御霊である」と明言し(Uコリント3:17)、キリストを「霊なる主、御霊の主」と呼ん でいます(Uコリント3:18)。
パウロはこの御霊として働かれるキリストを告げ知らせます。福音を信じ、キリストを受け入れる時、御霊のキ リストが私たちの内に来て、わたしたちの中で働き始めて下さいます。パウロが宣べ伝えるキリストは「主 (キュリオス)」と呼ばれますが、わたしたちを外から支配する者として、私たちに命令される方ではありませ ん。私たちの中に新しい事態を創りだして下さる方です。わたしが「新しい人となる」、それが救いの現実で す。
「あなた方は、神の御霊があなた方の 内に宿っているかぎり、肉の次元にいるのではなく、御霊の次元にいるのです。キリストの御霊を持たない 者はキリストに属する者ではありません。キリストがあなた方の内にいますならば、体は罪のゆえに死んで いても、御霊の義の働きによって(わたしの)命であるのです」(ローマ8;9〜10)。
キリスト者とはキリストに属する者のことですが、ここでパウロは重大な発言をしています。洗礼を受け、教会 に所属し、主日には礼拝に出席し、献金を献げていてもそれだけでは、つまり、もしその人がキリストの御霊を 持たないならば、キリストに属する者ではない。すなわちキリスト者ではないと云っています。「御霊が自分の 内におられる」と自覚しなければ」、と云っているのでありません。キリスト者はキリストの御霊によって生き ている者だと自分で認めているかどうかという事です。キリストの御霊が内に働いておられる時、その人の内に 「キリストがいます」と云われます。人間の内に働く霊が、「神の御霊」(キリストの御霊)として同格に語ら れ、その御霊が人間の内にあって働く時、それはキリストご自身が内にあって働いておられるのだと云われま す。御霊のキリストをこのように自分の内に迎え、その働きを受ける者が、「キリストに属する者、キリスト 者」となるのです。御霊が自分の内に来ておられると自覚できないかもしれませんが、自覚の問題ではなく、 「キリスト信仰」(前に述べました)、即ち「キリストにあって」と云う場に立つことが出来るなら、御霊は働 いて下さるのです。この「主にあって」という事は結局主キリストとの交わりのことです。交わりですから当然 応答=受け答えがあります。祈りと云うのはお願いだけではありません。答えを待ち、ある時は喜び、ある時は 失望するでしょう。でも準備として相手を知る必要があります。それが聖書を読むという事であり、礼拝の中で 父なる神さま、神の子イエスに出会う事なのです。婚約者を本当に知ることは大切だと皆様も思うでしょう。イ エス様は婚約者よりずっと大事な方です。そうと考えない方はキリストを信じているとは言えません。もう一つ 大切なのは、主キリストに会いたいと思うようになることです。幸いに私どもは復活すると約束されています。 キリストの中に死んで行って復活するのです。終末を待っているのです。「マラナ・タ」「主よ、来て下さ い」。
「聖霊の賜物」
霊的の賜物については第Tコリントの12章から14章まで詳しく書かれています。芦屋聖マルコ教会の 2013年の聖句は「あなた方はキリストの体であり、また一人一人はその部分です」と云う12章27節の、 み言葉です。13章の「愛」(有名な愛の讃歌)も、14章の「異言と予言」もすべて聖霊の賜物であると記さ れています。コリント集会の主の晩餐と祈りを共にする最初期の集まりは、御霊の多様な働きと現れに満たさ れ、霊の熱気に高揚していた様子が窺われるのですが、一方この御霊の働きと云う未知の現象と熱気に大きな喜 びと共に戸惑いもあり、一部霊的熱狂の行き過ぎもあったようです。それで、彼らが受けている霊の賜物によっ て「エクレーシア」(霊の教会)を建ち上げるという重要な目的の為に、パウロは細心の注意を払って勧告して います。(どうぞTコリント12〜14章を詳細にお読み下さい)。「エクレーシア」(やがて組織的教会と なって行くのですが、パウロの時代には、集会、共同体、せいぜい家の教会と云った将来の教会の母体でした) の成立と私たち信徒個々の関わりと云う、福音の基本的内容が示されており、「パウロによるキリストの福音」 の理解に、極めて重要な文章、「信徒の一人一人にキリストの香りが与えられている事」をUコイント、 2;14〜16に記載されております。
聖霊の働きについてまず指摘されることは、「聖 霊によらなければ、だれも≪イエスは主である≫とは言えない」(T コリント12〜3)のです。この告白から色々な聖霊の働き、務め、つまり賜物(カリスマ)が与えられるので すが、与える方はご聖霊であり、イエスであり、三位一体の神様であることが宣べられています(Tコリント 4〜11)。
バルナバ栄一の『「信仰・希望・愛」の展開の物 語』
|