バルナバ栄一の『「信仰・希望・愛」の展開の物語』 第五部(3)鳩

第 五部 パウロの福音伝道の内容の抜粋(その4)

「御 霊によって生きる」  

「すべて神の御霊に導かれている者は すなわち神の子である。あなた方は再び恐れを抱かせる奴隷の霊を受けたのではなく、子たる身分を授ける 霊を受けたのである。その霊によってわたしたちは《アバ、父よ》と呼ぶのである」(ロー マ書 8;14〜15)

 私たち一人一人が自分の人生を一つの物語としながら生きています。私も紆余曲折を経ながら、ふり返ってみ ると可なり面白く楽しく(苦しかったことも悲しかったことも、振り返ると、後悔だらけですがよく生きて来ら れたと聖霊の導きに感謝して、興味深く感じられるようになり)生きてきた喜びを感じます。そしてそれは28 歳に洗礼を受けて、次第に成熟させられて自分も「神の子のひとりだ」と云う感じ方を不思議だと思わなくなっ た頃から人生が苦しくても、面白く楽しくなってきた。神の子と感じるようになって(勿論言うも恥ずかしい、 神の子の劣等生ですが)、いや、そのような言い方は間違いで、神の子と云う状態は神様・イエス様に全く自分 を任せたのですから、神様に評価も任せて、自分はそれを気にしない。神にすべてを任せていますから、人の言 うことが気にならない。自由が来ました。そこでその「キリスト者の自由」に移ります。

「自由という喜び」

「兄弟たち、あなた方は自由を得るた めに召し出されたのです。ただ、この自由を肉への機会とせずに、愛によって互いに奴隷となりなさい」(ガ ラテヤ5:13 市川師私訳)。

 私は昭和29年に広島から尼崎に来ました。生きて行く上でも信仰的にも失意の時でしたが、マルコ教会(そ の時は芦屋基督教会と云う名前でした)で小池俊男師父に出会って回心(と自分では思っていますが)した時、 「貴いのは、愛によって働く信仰だけである」(口語訳)を愛唱聖句として挙げたのですが、市川師のこの「奴 隷となる」と云う言葉に打たれました。これこそ《アガペー》(神の愛)を顕す根底的な言葉であると思いまし た。
 パウロが自由と云う時、何よりもまず律法からの自由でした。律法とは私たちの行為と生活を外から規制する 規則です。現在風に言うと、大は社会の秩序を守る法律や規則、倫理道徳と云った所でしょう。小は社会のもろ もろの秩序を守る規制や規則と云ったものでしょう。でも、いかに大切な規則でも、その遵守だけが救いの条件 であると外から規制するものなら、それは人間を拘束する「奴隷のくびき」なのです。神はキリストの十字架の 贖いとキリストの復活によって、私たちが信仰によって聖霊を受ける道を開き、その聖霊のいのちによって、倫 理・道徳・法律。諸規則以上の、神の善に導き入れられたのです。だからそれらの人間的な規則によって生きる 事を縛られるのではなく、キリストは私たちを自由にして下さいました。しかし、この自由は内なる聖霊から発 する「わたしの現実・主の真実」すなわち「神の善」が私を支配していることを心から信じていないと、自分の 肉が欲するままに放縦に走ったり、何を基準にして生きればよいか不安になったりすることがあるでしょう。パ ウロが「自由に生きる」とはどういう事かを、具体的に教えたのが先のガラテヤの聖句ですが、その前に置かれ た次の聖句
「この自由を得させるために、キリス トはわたしたちを自由の身にして下さったのです。しっかりしなさい。奴隷の軛に二度とつながれてはなり ません」
(ガラテヤ5;1) を忘れないで。 

 まず、キリストにあって自由を得ていることを確認した後、直ちにその自由が愛によって生きる為であること が示されます。愛は自由の場の外では成立し得ないからです。自由であるという事から、自分がしたいことは何 をしてもよいのだという誤解をする事を厳重に戒めねばなりません。キリスト者の自由は自由放従ではないと 云っています。だからパウロは「この自由を肉への機会としないで」と念を押しました。肉とは何でしょうか? パウロは「身体(ソーマ―)が霊魂を含む、生まれながらの人間全体の在り方を肉と呼び」、霊は生まれながら の人間に属するものではなく、神に属するもの、神から来るものだとします。だから神から来る霊がわたしたち 人間の内に宿る時、私たち人間存在にも霊の次元が生まれるのです。その霊の次元が生まれながらの人間本性で ある「肉」と対立するという事になります。「霊」が神に属するものであることを表明する為に、「神の霊」と か「聖霊」と云う言葉で表されます。霊はこのように、神に属することが当然ですから、単に「霊」と云う言葉 だけを用いることもあります」。また御霊の実を顕している重要な聖句の最初に、書かれている言葉は「愛」で す。(ガラテヤ5;22〜23)。この聖句が私を成熟させてきました。どうぞ各自で熟読玩味してくださいま すように願います。という事で、第6部「永遠のいのち」の次の、第7部で「愛」を考えるようになります。

 

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