バルナバ栄一の「聖書談話」(マルコによる福音書 7 ) (5)
『このように、人の子は安息日にもまた主なのである』。
人間が安息日の為に創られたのではない。人間の為に安息日の制度が定められたのです。終わりの日に人間が本来の姿に回復される時、人間はもはや安息日律法に縛られた奴隷ではなく、安息日の定めを自分の中に成就しているものとなり、その主人となる。イエスはこのように終わりの日に出現する新しい人間を先取りし代表する者として、ご自分を『人の子』と呼ばれる。『人の子』イエスは聖霊による神との交わりの中で既に『安息日の主』になっておられる。しかしこれはイエスだけのことではない。やがてイエス・キリストにあって贖われ、同じ聖霊の現実に生きるようになる新しい人間すべてに成就する事です。今や人間はキリストにあって、創造と贖いと完成の喜びの祝祭である安息日を毎日祝っている。それをどのように表現するかは人間の自由です。人間は安息日の主です。
(市川喜一師著『マルコ福音書講解T』より)。この所を読んでいて、エリザベス・キューブラー・ロス女史が言っている、「生き切る歓喜と自由に通じるもの」を感じました。この中から福音の喜びを感じ取って頂けたら、と願っています。安息日問答は非常に大切と感じていますので、次回も続いて、イエス・キリストの福音と自由を示す、安息日の話を読みましょう。
バルナバ栄一の「聖書談話」
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