バルナバ栄一の「聖書談話」(マルコによる福音書 7 ) (3)
イエスが与えてくださる新しい生命に生きる者たちは、その新しい生命にふさわしい新しい形の中で生きるであろう。それは使徒パウロが[私たちは律法から解放されているので、もはや文字と言う古い次元ではなく、御霊の新しい次元で仕えているのである](ロマ書7:6)と言って、命がけで主張した事と一緒です。イエスの弟子達が断食をしないのは、その事の証しの一つです。確かに、キリストが共に居られる限り、私たちはイエスと共に食する事を重んじなければなりません。聖餐式の時、[あなた方はこのパンを食べ、この杯を飲むごとに主が来られる時まで主の死を告げ知らせる](Tコリント11:26)のです。けれども、主は死なれたのですが直ぐに復活して、現在、私たちと共におられる事も、私たちが経験している事実です。主イエス・キリストの十字架の死によって救われたと信じる私たちは、型に当てはまらない、新しい、自由な生き方を頂いているのです。イエスのような、枠にはまらない、自由な、おおらかな生き方の方が、謹厳で、厳粛で、穏健で、しかし息のつまりそうな生き方よりも本当のものだと思えませんか。がしかし、人生は一筋縄ではいきません。断食しさえしなければ、型にはまりさえしなければ、それで正しい、とどうして言えましょう。目先の新しさだけでは、必ずしも真実の新しさ、すなわち、
主に望みをおく人は新たなる力を得 鷲のように翼を張って上がる。
走っても弱ることなく、歩いても疲れない。(イザヤ書40章31節)
と言う状態にはなれないのです。このような姿勢を得るのは、イエス・キリストの愛を聖霊によって私たちの内に頂かなければならないでしょう。
さて、十字架にイエスがつけられて昇天された後、キリスト教団では、断食が行なわれていたのでしょうか。教団の一部では確かに行なわれていた(使徒言行録13:2〜3,14:23)。また、マタイによる福音書山上の説教の所(マタイ6:16〜18)で、イエスの断食の教えがありますから、弟子達の断食も行なわれていたであろうと言う推測も十分に成り立つ。それでは、私たち現在の信徒はどうでしょう。私たちは確かに目に見えるイエスと一緒にいるのではないが、霊においては復活の主キリストと一緒にいる。だから今でも花婿なるイエス様と一緒にいるのです。「神と人との永遠のいのちの交わり」が成就しているのです。この喜びの場でどうして断食が出来ましょうか。[花婿を取り去られる]と言うのは、イエスの十字架の死を指しています。そしてイエスの十字架はまた私の死です。だから私たちは断食する。私はキリストと共に十字架につけられて死んだ。この十字架における自分の死の告白がその断食なのです。キリストを信じ、その十字架に合わせられて死ぬ者こそ、真に自己を否定する者、まことに断食をする者です。断食とは本来自己否定の表現なんです。
このように、イエスの弟子という者は、既に花婿と一緒にいる喜びの故に、律法の行為としての断食をする事はないが、その内面では、十字架による徹底的な自己否定(真実の断食)を秘めている。復活の主イエスと共に生きる喜びは、十字架に合わせられて自己が死んでいる場においてのみ実現する。(その場合にでも、祈りに集中する為に断食をする事があることは言っておかねばならない)。
バルナバ栄一の「聖書談話」
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