18:28 2018/10/15 東京聖テモテ教会 - 主日の福音

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★太田信三 司祭による主日の福音

★主日の福音(2025年3月30日)
(大斎節第4主日、C年)「失われた息子」(ルカによる福音書15:11-32)
 今日の福音は、直前の「失われた羊のたとえ」「失われた銀貨のたとえ」と合わせて「失われた三部作」の一つと言われます。ですから、日本語では「放蕩息子のたとえ」というタイトルで親しまれていますが、「失われた息子」という方が、内容を良く表しています。この「失われた」三部作には、たったひとつの小さな命を大切にされる神の姿が表されています。かつて海を割ってイスラエルの民を救い出した力を持つ神は、たった一匹の羊を探し出す神でもあるのです。
 父は、失われていた次男の姿を遠くに見つけるや否や駆け寄ります。そして、抱きしめ、「雇い人の一人にしてください」という謝罪の言葉すら最後まで言わせぬうちに、最上の服と指輪とサンダルを用意させ、宴会を開きます。なんと寛容な父でしょうか。そして、次男にとってあまりにも都合の良い話です。しかし、これが私たちの神なのです。神はたった一人の命が失われることも望まず、人間の目には不平等に思えることであったとしても、赦しと恵みをくださるのです。
 このたとえを聞くと、息子の罪が「放蕩」にあったと考えがちです。なぜなら私たちは、たとえば法律のような絶対的な規範や基準を共有して生きており、そこから外れたものを罪人と考えるからです。この視点で見ると、兄はたしかに罪人ではありません。しかし、兄は父の指示、つまり規範は守ってはいても、心はどうだったでしょうか。弟に嫉妬する姿からは、彼は我慢しながら父のもとにとどまっていたことが伝わってきます。つまり兄もまた、父との積極的な交わりに生きていなかった点では、弟と同じだったのです。聖書の罪は、神との交わり、関係から離れることです。兄は弟が帰ってきて、父から赦しと恵みを受けたことが赦せませんでした。父との本当の意味での交わり、関係に生きていなかったからです。そうであったなら、彼は父と同じように弟を赦し、共に喜ぶ事ができたことでしょう。嫉妬する兄の気持ちは痛いほど分かります。しかし、兄もまた、父との交わりに生きていなかったという点では、弟と同じように悔い改めが必要なのです。
 また、兄の姿は、嫉妬によって「今いただいている恵み」が見えなくなってしまう人間の姿を表しています。この罠はいつでも私たちの近くにあります。私たちもまた、嫉妬や他者との比較の中で、いただいている恵みを見失ってしまうことに注意しなければなりません。
 神と他者との愛の交わりに根ざしてこそ、私たちの行いは正しいものとされます。失われていた息子が戻った時に駆け寄って迎えてくださる父は、ふてくされる兄を諭す父でもあります。この父なる神との交わりにおいてこそ、真の愛、尽きぬ糧に与ります。

★主日の福音(2025年4月6日)
2025年4月6日(大斎節第5主日、C年)「ささげ物の香り」(ヨハネによる福音書12:1-8)
 大斎節も後半に入り、イエスの受難、そして復活が近づいてきました。
 イエスは十字架に向かう直前、ベタニアの大事な三兄妹のところを訪れました。食事の時、妹のマリアは高価なナルドの香油を一リトラも持ってきて、イエスの足に注ぎました。それは当時の労働者の約1年分の賃金に相当するほど高価なものであったと言われていますから、常識では考えられない大胆な行動でした。マリアはその香油を惜しみなく注ぎ、自分の髪でイエスの足を拭いました。そこには、イエスに対する深い信頼と愛がありました。そして、やがて来るイエスの埋葬を先取りするかのような信仰的直感に満ちたものでした。
 さて、それを見たユダは「これは無駄だ」と言い放ちました。さらに、「貧しい人に施せたのに」ともっともらしい言葉を続けましたが、そこに込められた思いは寂しいものでした。マリアの行動が「損得」ではなく「愛」によるものであったのに対し、ユダの言葉は計算されたもので、イエスよりも自らへと思いが向かったものでした。両者の間には、イエスに対する姿勢の根本的な違いがあったのです。
 イエスはマリアの行動を受け入れ、「私の埋葬の日のために、それを取っておいたのだ」と言われます。そして、「貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、私はいつも一緒にいるわけではない」と続けました。これは、マリアが「今しかできないこと」を見極め、心からの愛をもって応えたことを認めた言葉です。
 マリアが注いだ香油の香りは家中に広がりました。それは彼女の愛と信仰の象徴であり、目には見えずとも確かに存在する「神へのささげもの」の力を表しています。私たちのささげ物の香りはどうでしょうか。今日、この礼拝にどのような心持ちでいるでしょうか。振り返りたいと思います。そして、私たちのささげ物が、人々の心に残る「香り」となりますように。私たちもまた、マリアのように惜しみなく主にささげる者でありたいと願います。


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