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★太田信三 司祭による主日の福音 ★主日の福音(2025年2月16日) (顕現後第6主日、C年)「幸いなあなたがた、不幸なあなたがた」(ルカによる福音書6:17-26) 「今日の福音は、マタイによる福音書では「山上の説教」で語られる箇所です。しかし、マタイ福音書とルカ福音書では、内容も場面設定も異なります。たとえば、マタイ福音書では山上で一部の弟子だけに語られていますが、ルカ福音書では平地で沢山の人に向かって語られています。 イエスが山で十二人の使徒を選び下山しました。すると、12人以外の沢山の弟子たちや、ユダヤのみならず広範囲からの人々がイエスの話しを聴くために集まってきました。イエスは「目を上げ」て、「貧しい人々は、幸いである…」と語り出しました。この「目を上げる」という表現は、「目が向けられた対象への深い関心」を表します。その目に写っていたのは、12人の弟子たちだけではありません。下山後にイエスのもとに集まった大勢の弟子や、おびただしい人々がいました。イエスの話を聴きたい、病をいやしていただきたいと願う人々です。そして、そこにいたのは、貧しい人、飢えている人、泣いている人、憎まれている人でした。イエスは、深い関心を持ってこの人々を見つめ、「あなたがたこそ幸いだ」と言われたのです。 イエスは私たちのことを見つめ、心から思ってくださる方です。イエスの憐れみとは、人間としての同情というだけではありません。その憐れみは、神の人間への思いそのものです。神はわたしたちの苦しみを苦しみのままに終わらせない方です。おびただしい数の人を見つめ、語りかけるイエスを通して、その神の憐れみが私たちにも示されています。 イエスは「幸い」と語るときにも、「不幸だ」と語るときにも、「あなたがた」と語りかけます。私たちのなかに「幸い」と「不幸」のそれぞれの道を望む思いがあるからです。神を頼って生きるのか、それとも、富やこの世の権力に頼って生きるのか、私たちは選択することができます。後者を選ぶなら、「あなたがたは不幸だ。」と言われるように、これから先の喜びはありません。なぜなら、「もう慰めを受けている」からです。「受けている」と訳された言葉は、商業用語とされ、借金の返済を受け終わり、負債者に何も要求できない、「十分に受け取った」ことを表します。このことは、逆の視点から見ると、誰にも何も分け与えていない状態を表しています。持っているものを分けず、自らの慰め、満腹、笑いのためだけに利用しているのです。しかし、自分の富だけを守ろうとするのではなく、他者と分かち合うなら、「受ける」喜びがあります。そこにこそ、神からの報い、喜び踊るほどの幸いがあります。 ★主日の福音(2025年2月23日) (顕現後第7主日、C年)「いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深い」(ルカによる福音書6: 27−38) 「敵を愛しなさい」というイエスの示された愛とは、神の愛であり、すべての人々を救おうとする神の意志そのものです。憎らしい人がいるとしても、その人をも神は救いたい、愛しておられます。その神の愛を肯定し、たとえ憎しみを抱く相手であっても、その相手のことを、神に愛されている存在として認めることが、私たちに求められています。 「敵を愛せ」と聞いた弟子たちはきっと、「そんなこと出来っこない」と思ったことでしょう。彼らがそのように生きられるようになるのは、イエスを裏切ってしまい、しかし、ご復活のイエスに出会い、赦されてからです。敵を愛する愛とは、私たち自身の内から出てくるものではありません。イエスの赦しに与り、その愛をいただくことで、私たちは敵をも愛することにチャレンジする力が与えられます。ですから、愛するのは私たちであるようで、それは神からのものなのです。 人は愛されたいと望んでいます。しかし、それを得るために、裏切り、欺き合い、いつの間にか愛から離れてしまいます。愛を求めて歩んでいるつもりが、気がついてみれば愛から離れている。これが人間の罪と言われるものです。イエスは十字架の上で、「父よ、彼らをお赦しください。自分のしていることを知らないのです。」と神に願い、ご自分を十字架につけた人間のために祈りました。私たちは、主イエスを十字架に付けた人々と同じように、知らぬ間に愛から離れ、神に背く存在です。それゆえ、私たちはイエスを十字架につけた人々と同じ「敵」であり、罪人です。しかし、十字架のイエスの祈りが示すように、イエスはその敵を愛し抜いてくださるのです。私たちは、私たち自身が罪人であり、イエスの敵であることを知るなら、同時にその敵のために祈ってくださるイエスの愛を知り、それどころか赦されて家族とされる、愛と赦しの命をいただきます。「いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深い」のです。 ★主日の福音(履歴) A年(2022~2023年) → 2022年11月27日 → 2022年12月4日 → 2022年12月11日 → 2022年12月18日 → 2022年12月25日 → 2023年1月1日 → 2023年1月8日 → 2023年1月15日 → 2023年1月22日 → 2023年1月29日 → 2023年2月5日 → 2023年2月12日 → 2023年2月19日 → 2023年2月26日 → 2023年3月5日 → 2023年3月12日 → 2023年3月19日 → 2023年3月26日 → 2023年4月2日 → 2023年4月9日 → 2023年4月16日 → 2023年4月23日 → 2023年4月30日 → 2023年5月7日 → 2023年5月14日 → 2023年5月21日 → 2023年5月28日 → 2023年6月4日 → 2023年6月11日 → 2023年6月18日 → 2023年6月25日 → 2023年7月2日 → 2023年7月9日 → 2023年7月16日 → 2023年7月23日 → 2023年7月30日 → 2023年8月6日 → 2023年8月13日 → 2023年8月20日 → 2023年8月27日 → 2023年9月3日 → 2023年9月10日 → 2023年9月17日 → 2023年9月24日 → 2023年10月1日 → 2023年10月8日 → 2023年10月15日 → 2023年10月22日 → 2023年10月29日 → 2023年11月5日 → 2023年11月12日 → 2023年11月19日 → 2023年11月26日 B年(2023~2024年) → 2023年12月3日 → 2023年12月10日 → 2023年12月17日 → 2023年12月24日 → 2023年12月31日 → 2024年1月7日 → 2024年1月14日 → 2024年1月21日 → 2024年1月28日 → 2024年2月4日 → 2024年2月11日 → 2024年2月18日 → 2024年2月25日 → 2024年3月3日 → 2024年3月10日 → 2024年3月17日 → 2024年3月24日 → 2024年3月31日 → 2024年4月7日 → 2024年4月14日 → 2024年4月21日 → 2024年4月28日 → 2024年5月5日 → 2024年5月12日 → 2024年5月19日 → 2024年5月26日 → 2024年6月2日 → 2024年6月9日 → 2024年6月16日 → 2024年6月23日 → 2024年6月30日 → 2024年7月7日 → 2024年7月14日 → 2024年7月21日 → 2024年7月28日 → 2024年8月4日 → 2024年8月11日 → 2024年8月18日 → 2024年8月25日 → 2024年9月1日 → 2024年9月8日 → 2024年9月15日 → 2024年9月22日 → 2024年9月29日 → 2024年10月6日 → 2024年10月13日 → 2024年10月20日 → 2024年10月27日 → 2024年11月3日 → 2024年11月10日 → 2024年11月17日 → 2024年11月24日 C年(2024~2025年) → 2024年12月1日 → 2024年12月8日 → 2024年12月15日 → 2024年12月22日 → 2024年12月25日 → 2024年12月29日 → 2025年1月5日 → 2025年1月12日 → 2025年1月19日 → 2025年1月26日 → 2025年2月2日 → 2025年2月9日 → 2025年2月16日 → 2025年2月23日
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