2003.12.25 第181号

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クリスマスを前にして

管区事務所総主事  司祭  ローレンス 三鍋 裕

クリスマスを前に各教会はお忙しいことでしょう。教会ではない管区事務所は少々寂しい気もしますが、この時期は皆さんそれぞれの場でお忙しく、会議もなくなり、ほんのしばらくは静かなときです。それぞれの教区、教会で静かに力強い信仰生活を守っておられるのですから、基本的に管区事務所には日本聖公会全体で取り組む仕事が集まります。財政の問題、裕福であれば楽でしょうが、教会が裕福というのは健全でないかもしれません。必要なものは与えられるでしょうし、数字は共通理解を得やすいので悲観的ではありません。むしろ正義とか平和とかの美しい言葉で語られるテーマの方が問題です。「慈しみとまことはともに会い  正義と平和は抱き合う」ことは残念ながらまだ実現していないからこそ話題になるのです。夏が過ぎると季節はずれのようになる平和について、平和の主をお迎えするクリスマスにこそこだわりたい気がいたします。

教区会とどちらが大切なのかと一部からヒンシュクを買いながら、11月末には長崎での会議に参加しました。原爆は戦争終結を早めるためだったとも言われますが、有色人種の頭上だからこそ投下できた人体実験とも言われます。日本の戦争責任は当然問われますが、犠牲になった多くの子供たち、あるいは親を失った子供たちにはどう説明するのでしょうか。彼らの小さな声を発信し続けたからこそ、長崎を最後に58年間一度も核兵器が使われなかったのも事実でしょう。地雷や劣化ウラン弾も大人たちは子供たちにどう説明できるのでしょうか。

先日フセイン元大統領が拘束されました。新しい展開となるのでしょうが、一方で多くの子供たちが犠牲になっています。人質の子ども10人とフセインを交換せよなんて大人の身勝手が出てこないように願います。ニュースを見ながら少々思考力と記憶力が衰えてきた義母がポツンと聞きました。「アメリカはなんでフセインを捕まえはるのん」。この単純素朴な問いに答えられませんでした。理屈があるようなないような訳の分からない戦争みたいですし、自衛隊派遣も人道支援のはずが、石油の9割を依存するアラブ圏での国益という本音が出てきました。それなら原油が高くなってもよい、不足しても多少の不便は我慢するという選択肢を与えて欲しいと思います。一体何が中心なのでしょう。大人同士は理屈を言い合っていてもよいでしょう。しかし子供たちにはちゃんと説明しなければならないでしょう。今回のイラク戦争の「反省」として、もっと使い勝手のよい小型核兵器の開発も論議されています。これも真っ先に被害を受ける子供たちの許可を得ないで、大人だけで決めてよいのでしょうか。

 あまり平和ではない中にクリスマスを迎えようとしています。世界平和と言ったって、小さな平和の積み重ねでありましょう。地域社会で、職場で、家庭で、そして教会で見過ごしてしまった一番小さな平和を回復してクリスマスをお迎えしましょうよ。そしてクリスマス・クリブの聖母、聖ヨセフ、羊飼い、博士たち以外に、飾られてはいないけれども幼子イエス様を見つめている戦乱の中にいる子供たち、寂しい人、貧しい人、聖夜に息を引き取ろうとしている人々のことをも思いながら一緒に平和の主をお迎えしたいものです。クリスマスという主との出会いによって、私たちの務めと希望が新たにされますようにと願います。良いクリスマスと新しいお年をお迎えくださいますように。

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