信徒の義務
此は故監督の説敎にして、岸和田聖保羅敎會牧師長老菅寅吉師の筆記したるものである。仝師は左の書状を添へて本書のために寄贈せられたれば、こゝに附録として掲載することにした。
「老監督の御説敎中、小弟の適當と思考するもの、一編を淨書致し貴覽に供し申候。幸に御採用被下候はゞ幸福千萬に存申候。
此説敎は寔によく、老師の御性行を想はし、且つキリスト敎の要義を網羅致しある點に於て、御傳記に載するに適當と愚考仕候。殊に題詞中「我をらさる今は特に然すべ也」の處は、恰もパラタイスよりの音信の如く相感じ申候。
大正二年十月九日 菅寅吉」
「我が愛する所の者よ、爾曹常に服へる如く畏懼、戰慄て己が救を全うせよ、我ともに居りし時のみならず我をらざる今は特に然すべき也。そは神その善旨を行はんとて爾曹の衷はたらき爾曹をして志をたて事を行はしむればなり」腓立比書二○十二、十三、
我儕は此聖句より二の肝要なることを學ぶのである。
第一 人間の働き「畏懼、戰慄て己が救を全ふせよ」
第二 神の働き「爾曹の衷にはたらきて爾曹をして志を立て事を行はしむ」
數百年の間、キリスト信者等は人間の自由と神の絶對主權とに關して爭論をした、そして人の自由の意志を強く敎へし者は常に此方に重きを置き、知らず知らず人間は神の助を求むる必要なきが如く感ずる傾きを生じた。然るに他方には烈しく之に反對して神の絶對主權を極端に主張して、遂に人間を只神の器械の如くに考ふるに至つた。
是等見解の相違よりして敎會内に分裂を起し、敎會は之が爲に甚だしく苦められたのであるが、然し之は双方ともに打消すことの出來ない事實である、我儕が之を了解すると否とに拘らず何れも眞理である、人の自由意志も事實なれば、神の絶對主權も事實である、我儕は之を充分に調和し得ると否とに關せず之を眞理として受入れ、之を實際上の行爲にて實驗すべきである。
我儕の救は神の働きであつて、神にのみ關するものゝ如く考ふるは大なる間違である、試みに左の聖句を見よ。
路加傳十三○二十四「イエス彼等に曰けるは窄門に入ために力を盡せ、我爾曹に告ん入ん事を求て能はざる者多し」
約翰傳六○二十七「爾曹壞る糧の爲に勞かずして永生に至る糧すなはち人の子の予る糧の爲に勞くべし」
聖保羅の罹馬書二○七「耐忍て善を行ひ榮光と尊貴と不朽壞とを求むる者には永生をもて報ん」
聖彼得後書一○五「是故に爾曹勤て信仰に德を加へ德に知識を加へ知識に撙節を加へ撙節に忍耐を加へ忍耐に敬虔を加へ敬虔に兄弟の睦を加へ兄弟の睦に愛を加ふべし」
斯く主御自身も其使徒等も我儕は自ら働きて善を行ひ救に到るべきを敎へてある、されば我儕は兩腕を組合し、安樂椅子に腰を掛けたるまゝにて天に昇り得るが如く思ふべきでない。
我儕の救を全ふするは恰かも船に乘るが如きもので、船もあり船具もちやんと備ひをるも、乘手が働をなさゞれば船は浪の流るゝまゝに漂ふて、遂には岩石に衝突して破碎するに至らん、斯く我儕も救を全ふする爲に力を盡さゞれば、到底天國の港に達することは出來ないのである。
又我儕の救はるゝは坂に昇るが如きもので、己が周圍の情態に反抗すべきである。我儕は己が情慾に打勝たざるべからず、一層神に近づかざるべからず、キリストに肖る者となる爲に勞力せざるべからず、思へば中々油斷すべきでない。諸君よ諸君の救は既に始まつた、故に諸君は其救を全ふする爲に力を用ゐなければならないのである。
イエスに在る神の恩寵に己を打任し、罪の赦を受け、公會に入りし時、諸君の救の働は既に始まつたのである、然し成就せられたのでない、義とせられたが、然し未だ全く聖とせられたのでない。「是故に兄弟よ勤めて爾曹の召されし事と選れし事とを堅固せよ」(彼得後書一○十)我儕は己が救を全ふするために多くの行ふべきことがある。
(一)神の愛につきて學ぶこと、「それ義人の爲に死るもの殆んど少なり仁者の爲には死ることを厭はざる者をや有ん、然どキリストは我儕のなほ罪人たる時われらの爲に死たまへり神は之によりて其愛を彰し給ふ」(罹馬書五○七、八)
(二)子たる神につき深く學び、「愛に根し愛を基として諸の聖徒と偕に測る可らざるキリストの愛を知り、其闊さ長さ深さ高さを識る」(以弗書三○十八、十八「#十七、十八の誤りか」)ことを務め、又其榮光を棄てゝ人性を取り給ひし主の謙遜(腓立比二○五-九)と、主が地上にて顯はし給ひたる愛と信仰、及び父なる神に服從して十字架上に苦み給ひし完全なる生涯につきて研究し、今天に在して父なる神の右に座し給ふ榮光の御生涯につきて學ぶべきである。
(三)我儕は聖靈に就て學ぶべき多くの事柄がある、則ち聖靈は我儕の衷に働き給ふ事、又「我儕は祈るべき所を知らざれど聖靈みづから言がたきの慨歎を以て我儕の爲に祈り給ふこと」(罹馬書八○二十六)を充分に考ふべきである。
(四)我儕は聖く公義く、かつ善なる神の言即ち聖書を熱心に學び、其盡ざる寶庫を探求し、我儕の了解し難き生死の難問を照す光の導を得んために絶えず之を熟讀し、我儕の「靈魂の錨の如き」神の約束を記したる聖書を學び、我儕の「前に立ところの望」を強くすべきである。(希伯來書六○[#節の記載なし])。
(五)我儕は己の弱きと、惡きとに就き學ぶべきである「心は萬物よりも僞る者にして甚だ惡し誰かこれを知るを得んや」(耶利米亞記十七○九)と預言者は言つてをる、我儕は人の心に關し眞の知識を得る爲に働らかなければならない。此知識は自然に生じ來るものでなく、忠實に勉勵する者のみ此醜惡き心の眞相を知り得るのである。
右の外我儕の救を全ふする爲には多くの働きがある、即ち我儕の悔改むべき多くの罪があり、其罪より救はれん爲に神に祈求むべく、我儕には打勝つべき多くの惡き習慣があつて、我儕は之に對して大に奮鬪すべきである。若し我儕が己が罪を棄てず之を忽に附する時は、罪は時々刻々我儕の上に權威を逞しふして、遂に我儕を罪の奴隸とするものである。罪は恰かも身體に纏ふ糸の如きもので、實に些少き弱き糸も幾重も纏ひつく時は人體を縛りて動き歩む能はざるに至らしむる。故に我儕が罪の繋ぎを解かんには多年の祈禱と努力との必要がある。
然るに信者が熱心に祈りもせず、己が惡き癖に對して男らしく戰ふこともせずして、何故に神が一時に其罪に打勝つことをなさしめ給はざるや、神は我儕を顧み給はざるか抔と思ふものがある。或は少しく祈つても罪は中々逃走らざるを見て、神が祈りに答へ給ふを疑ふ者もあるやうである。
然し、それは我儕の心に起り易き、神を離るゝ恐れある高慢の罪を防ぎ我儕を謙遜ならしむる爲に一時に罪に勝たしめ給はないのである。又我儕が己れの弱きを知り、全く神の恩寵と其力とに賴ましめんとて容易に我儕の惡癖を取除き給はないのである。使徒聖パウロにさへ神は彼が傲ること無らん爲に一の刺を其肉體に與へ給ひしが、彼は三度まで熱心に之を取去り給ふやう祈りし時、神は何と彼に答へ給ひしや「我が恩なんぢに足れり蓋わが能は弱に於て全くなればなり」と云ひ給ひしにあらずや(哥林多後書十二○七-十)
神は何故に我儕の罪を容易く取去り給はざるかの理由は何であつても、左のことは疑ふべからざる眞理である。
熱心なる祈りは必らず神の耳に入ること、及び神は宜しき時機に於て我儕の祈に對し滿足なる應答をなし給ふことは、明白なる神の約束であり、亦世の始より聖き人々の實驗する處である。されば神が速かに罪を除去り給はざる理由が、明瞭ならざるを遁辭にして、己が救の爲に力を盡さゞるは大なる考へ違ひである。
以上に述べしことは毫も珍らしき説ではない、實に知れ切つたことである、それであるから眞に大切なわけである、何故なれば我儕は昔のアデンス人の如く日々唯新しき事をつげ或ひは聽事(使徒行傳十七○二十一)をのみ好むのである。然し我儕の生命に必要なる眞理は、斯く日々變化するものでなく、又萬民に缺くべからざる眞理は常に平易なものである、空氣を呼吸する、手足を動かして運動する、太陽の光に照さるゝなどのことは實に平凡であるが、然し人の生命幸福に必要缺くべからざるものである。今日諸君に話したる説敎も特に諸君を感動せしむる程のことはないが、キリストの最初の弟子等を始め、今日に到る迄の主の僕共が、己れの救を全ふして世の光となり地の鹽となりし祕訣は、只右に説きたる諸般の働を實行せしだけである。
次に「畏懼、戰慄て」己が救を全ふすることを説明し、進んで説敎題の第二部神の働きをp>
第一 神の働く方法「我儕の衷に働き給ふこと」
第二 我儕の衷に働く状態「志を立て事を行はしむ」
第三 神の働く目的「神その善旨を行はんとて」
の三部に區別して話したいのであるが、餘り長くなるから之れで止めます。
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