第十三編 監督の人格

第十三編 監督の人格

一、監督の品性

 監督(かんとく)は一(しん)衆德(しゆうとく)(あつ)められたと()ふも(あえ)過言(くわげん)ではあるまい。(その)敬虔(けいけん)(その)忠誠(ちゆうせい)(その)克己(こつき)(その)忍耐(にんたい)(その)勇敢(ゆうかん)(その)温柔(をんじう)(その)慈愛(じあい)(その)確信(かくしん)歴然(れきぜん)として印象(いんしやう)吾人(ごじん)銘刻(めいこく)し、()()(もの)をして終生(しゆうせい)(わす)れんとして、(わす)(あた)はざらしめた。(しか)れども、()(みづか)謙虚(けんきよ)卑下(ひげ)して、(かりそめ)にも稱譽讃美(しようよさんび)目標(もくへう)となるを()け、(その)善行功績(ぜんかうこうせき)()らるゝを(いと)はれた。()街頭(がいとう)(こゑ)(はつ)せず、講壇(かうだん)卓見(たくけん)吐露(とろ)せず、文筆(ぶんぴつ)蘊蓄(うんちく)披瀝(ひれき)せず、(つね)(かく)れて(ぜん)(おこな)ひ、(つね)(もく)して(ひと)(をし)へ、(その)言行(げんかう)()らるゝを(おそ)るゝは、(その)言行(げんかう)()られむを(もと)むる(ひと)よりも(はなはだ)しかつた。()(まつた)()(おのれ)基督(きりすと)(うち)(ぼつ)し、一(さい)榮譽(えゐよ)功績(こうせき)(しゆ)()せんとの、終始(しゆふし)(くわん)忠誠(ちゆうせい)(おのづか)(これ)(いた)したのである。されば五十(ねん)(なが)傳道(でんだう)生涯(しやうがい)も、一(けん)何等(なんら)異觀(いくわん)なく、何等(なんら)奇拔(きばつ)なく、何等(なんら)演劇的(えんげきてき)のものはなかった。とはいへ、()自然界(しぜんかい)(たとふ)れば、(あたか)涓々(けんけん)たる淸流(せいりう)の、急轉直下(きふてんちよくか)飛躍奔流(ひやくほんりう)壯觀(さうくわん)なく、轟々(ぐわうぐわう)大鳴(たいめい)鼕々(たうたう)鼓聲(こせい)はないが、(しづか)田園(でんゑん)灌漑(くわんがい)し、嘉禾(かくわ)(やしな)靈苗(れいべう)(そだ)て、其往(そのゆ)(ところ)花咲(はなさ)穀稔(こくみの)らしめ、(あるひ)粉挽(こなひ)老爺(らうや)(ため)(かく)れて水車(すゐしや)(てん)し、(つか)れたる道者(だうしや)(かつ)せる(のんど)(うるほ)し、(あるひ)白屋(はくをく)(かげ)賤女(しづのめ)(ころも)(きよ)め、茅門(ぼうもん)(まへ)無邪氣(むじやき)なる小兒(せうに)優遊(いういう)せしむる(ごと)(おもむき)があった。(しか)淸流(せいりう)()きざる生命(いのち)源泉(げんせん)より(しづか)に、晝夜(ちうや)わかたず(なが)()でたる高風聖德(かうふうせいとく)は、()(をし)へられ()(せつ)せし(おほ)くの心靈(しんれい)靈活(れいくわつ)聖化(せいくわ)した。()してまた()(うち)に、()へず()(つゞ)きたる(あい)犧牲(ぎせい)(ほのを)(つた)ふる聖感(せいかん)は、幾多(いくた)信仰(しんかう)子女(しぢよ)胸裡(きようり)()へて、(やう)(いん)神國建設(しんこくけんせつ)貢献(こうけん)せしめつゝある。(かく)(ごと)くして()は、永遠(えいゑん)嗣業(しげふ)公會(こうくわい)(のこ)し、其德化(そのとくくわ)また(きは)まる(ところ)がないであらう。
 「それ(おほは)れて(あらは)れさる(もの)なく、(かく)れて()れざる(もの)はなし」。(いは)んや一度(ひとたび)基督(きりすと)(よつ)點火(てんくわ)されたる(ともしび)は、よしや(ます)(した)にありとも、(なん)(ひかり)(はな)たざらんや。()()きしより春秋去來(しゆんしうきよらい)(はや)くも三たび、終生(しゆふせい)(おのれ)抹殺(まつさつ)したる()尊骸(そんがい)は、草葉(くさば)(した)(かく)るゝとも、(その)高德偉績(かうとくゐせき)(かく)れんとして、永久(えいきう)(かく)るゝことは出來(でき)ぬ。()崇高(すうかう)なる人格(じんかく)は、生前(せいぜん)にすら(はや)くも(すで)()()られ、築地(つきぢ)隱君子(いんくんし)(もつ)(しよう)せられた。()訃音(ふいん)(つた)はるや、敎界(けうかい)諸雜誌(しよざつし)(はじ)め、都市(とし)新聞紙(しんぶんし)(いた)るまで、(その)逝去(せいきよ)(いた)みて吊意(てうい)(へう)し、(あるひ)肖像(せうぞう)()(その)人格(じんかく)紹介(せうかい)した。()()最愛(さいあい)(しゆ)(ごと)く、(ひと)()られざらん(こと)(ねがひ)しが(かく)()なかつた。()(あたか)嚴冬(げんたう)霜雪(さうせつ)()たる梅花(ばいくわ)(ごと)く、其淸姿(そのせいし)暗夜(あんや)(つゝ)まれても、其芳香(そのはうかう)()ほ四(りん)(くん)したのである。さあれ吾人(ごじん)は、()淸姿芳香(せいしはうかう)永久(えいきう)に、()日本聖公會(にほんせいこうくわい)榮光(えいくわう)()無上(むじやう)生命(せいめい)となれることを感謝(かんしや)せねばならぬ。

二、監督の生活  

 監督(かんとく)は、(ほと)んど全生涯(ぜんしやうがい)禁慾(きんよく)(ちか)儉勤克己(けんきんこくき)生活(せいくわつ)をせられた。()は、常人(じやうにん)()(あた)はぬ克己(こつき)をなし、吝嗇(りんしよく)とも()へたほどに儉勤(けんきん)をせられた。(しか)し、(その)克己儉勤(こつきけんきん)生活(せいくわつ)は、()戒律(かいりつ)として(まも)り、主義(しゆぎ)として()られたのではなかつた。()且暮(あけくれ)只管(ひたすら)願望(ねがひ)は、(まくら)する(ところ)なかりし救主(すくひぬし)御跡(おんあと)()み、(その)聖意(みこゝろ)(よろこ)ばせ(たてまつ)ることであつた。()は、專心(せんしん)()全力(ぜんりよく)(これ)傾注(けいちう)し、()毀譽褒貶(きよほうへん)(ごと)きは、(がう)(かへりみ)なかつたのと、()(しゆ)(あい)する赤誠(せきせい)(しゆ)(つか)へまつる喜悅(よろこび)(うち)()()り、(そと)(にく)快樂安慰(くわいらくあんゐ)()つところ(すくな)かりし(ため)であった、(ゆゑ)に、()は、淸貧生活(せいひんせいくわつ)(やす)んじられた、()(やす)んじたと()ふよりは、(むし)(これ)(あい)(たのし)んだと()ふが適當(てきたう)であらう。 (およ)克己(こつき)といひ、儉勤(けんきん)といへば、何處(どこ)にか慘憺(さんたん)たる惡戰苦鬪(あくせんくたう)(さま)が、()()ゆるものであるが、監督(かんとく)(おい)ては、(いさゝ)かも(これ)()ることが出來(でき)なかった。(かへ)つて、我等(われら)(ため)(まづ)しくなりし(ひと)()の、胸懷(きようくわい)宿(やど)りし天上(てん)歡喜(よろこび)は、(おな)淸貧生活(せいひんせいくわつ)(おい)て、(もつと)()(あぢは)()りしものゝ(ごと)く、()(かほ)には、(つね)歡喜(よろこび)(ひかり)(かゞや)いて()つた。
 監督(かんとく)はまた、日本(にほん)傳道(でんだう)(おい)ては、全然(ぜんぜん)西洋人(せいやうじん)たる自己(じこ)沒了(ぼつれう)し、(すべ)ての(こと)日本敎役者(にほんけうえきしや)標準(へうじゆん)とし、日本敎役者(にほんけうえきしや)(ごと)生活(せいくわつ)し、(みづか)(その)模範(もはん)(しめ)して、(かみ)(まへ)(きよ)日本(にほん)()ける傳道的(でんだうてき)生涯(しやうがい)(まつた)ふせんことを()せられた。()(これ)(ため)日本敎役者(にほんけうえきしや)(とも)に、日本家屋(にほんかをく)(ぢゆう)し、一(さい)洋食(やうしよく)(はい)して日本食(にほんしよく)のみを()らるゝまでに(いた)つた。()終生(しゆふせい)粗衣粗食(そいそしよく)(あま)んじたのも、酷暑嚴冬(こくしよげんとう)(こう)も、(いま)(かつ)て一(くわい)轉地休養(てんちきうやう)()らざりしことも、外人(ぐわいじん)(とも)(おほ)()(いた)るも、(かへつ)枯魚粗菜(こぎよそさい)饗應(きやうおう)日本敎友(にほんけういう)(たく)(たのし)まれた(ごと)きも、()(この)精神(せいしん)より()でしに(ほか)ならぬのである。(かく)(ごと)くして、()くるも()ぬるも(しゆ)()めと(しん)ずる()は、基督(きりすと)榮光(えいくわう)のために、淸貧生活(せいひんせいくわつ)(あま)んぜられた、()(むし)(これ)(あい)(たのし)まれたのであつた。

三、監督の衣服  

 監督(かんとく)衣服(いふく)(きは)めて質素(しつそ)で、一年中(ねんぢゆう)(どう)一の黑羅紗(くろらしや)制服(せいふく)(まと)ひ、破帽(はほう)弊履(へいり)すこしも邊幅(へんぷく)(かざ)らないところ、宛然(さながら)古聖(こせい)遺風(ゐふう)があつた。監督(かんとく)在職中(ざいしよくちゆう)は、春夏秋冬(しゆんかしうとう)(どう)一の黑衣(こくい)()()られたが、それも裏返(うらかへ)し、繕縫(つくろい)補綴(つぎはぎ)()(かゝ)つたものであった。監督職(かんとくしよく)退(しりぞ)いてからは、縞服(しまふく)()けられたが、(とき)には上衣(うはぎ)(づぼん)とは()つかぬ(ふく)()()られた。(これ)古洋服屋(ふるやうふくや)(あさ)(まは)りて、恰好(かくかう)のものを(あがな)ひ、(あるひ)はそれを()()え、仕立直(したてなほ)して(もち)ひられたのであつた。一(じつ)某夫人(ぼうふじん)が、監督(かんとく)外套(ぐわいとう)(あま)りに(ふる)びたるを()(ひそ)かに、「監督(かんとく)さん、失禮(しつれい)ですが、外套(ぐわいとう)裏返(うらが)へされては、如何(いかゞ)です」と()ふと、監督(かんとく)微笑(びせふ)して(いは)く、「裏返(うらがへ)して以來(いらい)(ねん)()ちました」。
 或時(あるとき)神戸(かうべ)から東京(とうきやう)(かへ)らるゝ(とき)橫濱(よこはま)まで米國船(べいこくせん)()つた(こと)があつたが、其船(そのふね)船長(せんちやう)は、(むか)監督(かんとく)支那(しな)赴任(ふにん)さるゝ(とき)の、便船(びんせん)乘組員(のりくみゐん)であつたので、(おも)ひがけなき再會(さいくわい)に、(たがひ)(おどろ)かれたそうである。其時(そのとき)船長(せんちやう)は、四方山(よもやま)(はなし)(すへ)に、監督(かんとく)容姿(すがた)()て、 「監督(かんとく)よ、失敬(しつけい)ながら貴下(きか)(ふく)(ふる)びたれば、裏返(うらが)へしたら經濟(けいざい)ならん」と、さも發明(はつめい)らしく(をし)へた。監督(かんとく)(いは)く、「(しかり)り、(きみ)()はるゝ(ごと)く、()(とほ)(うら)かへしが、(さら)(また)素地(もと)裏歸(うらがへ)りしなり」と()つて、(たがひ)顏見合(かほみあは)せて(わら)はれたそうである。
 京都(きやうと)本木(ぼんぎ)に、日本敎役者(にほんけうえきしや)(とも)(ぢゆう)した(ころ)、一(じつ)下婢(かひ)が、いかにも得意(とくい)らしい(かほ)をして()雜誌(ざつし)()敎役者(けうえきしや)部屋(へや)()て、「旦那(だんな)さん(これ)(うち)先生(せんせい)でせう」と雜誌(ざつし)()せた。()ると、雜誌太陽(ざつしたいやう)監督(かんとく)とフルベツキ、ヘボン三()寫眞板(しやしんばん)()つて、監督(かんとく)小傳(せうでん)記載(かゝ)れてある。「(これ)(うち)先生(せんせい)だ、お(まへ)何處(どこ)から(これ)(もつ)つて()たか。」 下婢(かひ)愈々(いよいよ)得意顏(とくいがほ)、「旦那(だんな)さん、()うなんです()いて(くだ)さい、(わたし)がいつも(うら)洗濯(せんたく)()くと、近所(きんじよ)(おく)さんや下女(げぢよ)さんが、お(まへ)(ところ)西洋人(せいやうじん)ね、(あれ)乞食(こつじき)だらうと()ふのです。どうしまして、()のお(かた)(たい)さう(えら)(ひと)ですと(まを)せば、(なに)(えら)い?あの容姿(なり)をご(らん)な、(まる)乞食(こつじき)よ、なんて()はるゝので、(わたし)口惜(くやし)くて口惜(くやし)くて(たま)りませんでした。ですが旦那(だんな)さん、(わたし)(うれ)しかつたです。()(うら)()くと、近所(きんじよ)人等(ひとたち)()(あつま)つて、太陽(これ)()んで(うち)先生(せんせい)感心(かんしん)し、いかにも(えら)いお(かた)だ、かうとは()らずいま(まで)惡口(わるくち)ばかり()つて()まなかつたと、(わたし)(あやま)るのです。それ()(こと)か、如何(どう)です(えら)いでせうと()つて()りました。(うち)先生(せんせい)(えら)い、これで(わたし)(むね)がスーとしました」と平素(へいそ)鬱憤(うつぷん)こゝに()れて、下婢(かひ)大得意(だいとくい)であつた。
 監督(かんとく)が、(かつ)丹後(たんご)宮津(みやづ)傅道(でんだう)()かれた歸途(きと)汽船(きせん)()らうとして、待合所(まちあひしよ)()ると、事務員(じむゐん)は、破衣弊靴(はいへいくわ)(やぶ)提鞄(かばん)(たづさ)へた老監督(らうかんとく)を、乞食異人(こつじきいじん)()て、「オイオイ其處(そこ)(すわ)つてはいかん、アツチに()つて()つてろ」と(しか)つた。監督(かんとく)(しか)らるゝまゝに、ハイハイと(かしら)()げて(すみ)(はう)に、(ちい)さくなつて()られた。ところへ土地(とち)牧師(ぼくし)有志家達(いうしかたち)が、見送(みおく)りに()られ、(した)にも()かぬ待遇(もてなし)に、(さき)事務員(じむゐん)は、(あま)りの(こと)()啞然(あぜん)として()つたが、(あと)で、(こと)(よし)()いて、(いた)(おそ)()つたそうである。

四、監督の食事

 日常(にちじやう)食事(しよくじ)(きは)めて質素(しつそ)であつた。(おも)菜食(さいしよく)をなされ、馬齡薯(じやがいも)胡蘿蔔(にんじん)のスチウの(ごと)きは、(もつと)もよく食卓(しよくたく)(のぼ)るのであつた。一(しう)たつた一()日曜日(にちえうび)晝食(ひるしよく)は、監督(かんとく)にとつては御馳走(ごちそう)で、(それ)とてもビステキ(ぐらゐ)であつた。食事(しよくじ)には無頓着(むとんちやく)にて、料理(れうり)(つい)ては一言(ひとこと)(つぶや)きしことはなかつたそうである。一(じつ)食事(しよくじ)(とき)に、此日(このひ)(かぎ)料理(れうり)(しよく)せず、其儘(そのまゝ)()られた(こと)があつた。料理人(こつく)は、自分(じぶん)料理(れうり)がお()()さぬのであらうかと(あん)じて、お(さが)りを頂戴(ちやうだい)甞味(やつ)てみると、(これ)大失策(おほしくじり)不味(まづい)ので()へぬ。(まつた)料理(れうり)爲損(しそこなひ)であった。(かれ)早速(さつそく)監督(かんとく)にお(わび)()ると、監督(かんとく)(すこ)しも不快(ふくわい)樣子(やうす)なく、「(あやまる)ること()りません、(わたくし)あの料理(れうり)()きませんから、()べませんでした」、と温和(やさし)()はれたので、(かれ)はいよいよ恐縮(きようしゆく)したといふ(こと)である。
 庖厨(だいどころ)道具(だうぐ)といつても、それは簡單(かんたん)のものであつた。(わづ)かにイギリス(なべ)(ひと)ツ、混爐(こんろ)(ひと)ツ、(さら)十二(まい)、スープ(ざら)十二(まい)之等(これら)附屬(ふぞく)した食器(しよくき)と、日常用(にちじやうよう)(うつは)(ほか)はなかった。或日(あるひ)(こと)來客(らいかく)があつて監督(かんとく)とも十三人前(にんまへ)の、食事(しよくじ)仕度(したく)することとなつた。主客(しゆかく)とも十三(にん)では、器具(きぐ)が一人前(にんまへ)不足(ふそく)であつたから、「監督(かんとく)さん、何處(どこ)ぞから一人前(にんまへ)()りて()ませうか」と()ふと、 「他家(よそ)から(かり)るのはいけません」と()はるゝ、「それでは什麼(どう)しませうか」、監督(かんとく)(しば)(かんが)へて()られたが、一(けい)()んじた。「()(こと)あります。(わたくし)を一(ばん)最後(あと)になさい、それで()ります」。そこで十二を(もつ)て十三にあて、(わし)()(まは)(ほど)(せは)しかつたとは、當時(たうじ)()(つか)へた(ひと)懷舊談(くわいきうだん)の一(せつ)である。
 監督(かんとく)は、敎友(けういう)靑年(せいねん)など(まね)いて、(しばし)馳走(ちさう)をされた。地方(ちはう)から敎役者(けうえきしや)()()ると、屹度(きつと)()食事(しよくじ)()ばれた。()して平素(へいそ)生活(せいくわつ)(ちが)つて、相當(さうたう)馳走(ちさう)をなし、無邪氣(むじやき)なる珍談笑話(ちんだんせうわ)(もつ)て、食卓(しよくたく)(にぎ)はされた。()して食卓上(しよくたくじやう)に、たとへ眞面目(まじめ)宗敎道德(しうけうだうとく)(はなし)が、(すこ)しも()かつたにせよ、監督(かんとく)(きやく)となつた(もの)は、()()れぬ靈趣(れいしゆ)(あぢは)つて、()(とき)にない(あたら)しい(かん)(いだ)いて(かへ)つた。
 東京(とうきやう)から京都(きやうと)(てん)じ、同市(どうし)本木(ぼんぎ)(もと)井筒屋(ゐづゝや)(しよう)せし割烹店(かつぽうてん)(あと)の一()を、()(ぢゆう)してから、敎役者(けうえきしや)同居(どうきよ)し、全然(ぜんぜん)日本人(にほんじん)同樣(どうやう)なる生活(せいくわつ)をなし、一(さい)洋食(やうしよく)(はい)して、同居(どうきよ)敎役者(けうえきしや)家族(かぞく)(たく)(かこ)んで、日本食(にほんしよく)のみを(しよく)された。(これ)()めか、監督(かんとく)身體(しんたい)(はなはだ)しく衰弱(すゐじやく)し、()痼疾(こしつ)脱腸(だつちやう)(なや)まれたので、醫士(いし)(しき)りに洋食(やうしよく)回復(くわいふく)するやう(すゝ)められたるが、監督(かんとく)容易(ようい)勸告(くわんこく)(したが)はなかつた。同居(どうきよ)敎役者(けうえきしや)は、醫士(いし)勸告(くわんこく)()き、監督(かんとく)健康(けんかう)氣遣(きづか)ひ、其後(そののち)は、監督(かんとく)膳部(ぜんぶ)には洋食(やうしよく)(きよう)する(こと)にした。(しか)監督(かんとく)はそれには(はし)()れず、何時(いつ)敎役者家族(けうえきしやかぞく)のとらるゝ(しよく)のみせらるゝので、一(にち)敎役者(けうえきしや)(あらたま)つて忠告(ちゆうこく)した。監督(かんとく)(いは)く、「いま三()()てよ、三()()てば百(にち)になる。」それから三()()ぎて(やうや)洋食(やうしよく)回復(くわいふく)した。かうと(けつ)したら(ぐわん)として(うご)かぬ監督(かんとく)も、身體(しんたい)衰弱(すゐじやく)他人(たにん)(せつ)なる勸告(くわんこく)に、餘儀(よぎ)なくも百日間(にちかん)洋食斷(やうしよくだち)をした(のち)日本食(にほんしよく)(はい)された。

五、監督の住宅 

 監督(かんとく)は、晩年(ばんねん)(いた)京都(きやうと)烏丸(からすまる)に、粗造(そざう)なる住宅(ぢゆうたく)()つる(まで)は、自己(じこ)のために一(けん)(いへ)()てられなかつた。(とき)には學生(がくせい)(とも)寄宿舍(きしゆくしや)の一(ぐう)起居(ききよ)し、(とき)には神學校(しんがくかう)假居(かきよ)し、(とき)には()(ぐる)しき會堂(くわいだう)片偶(かたすみ)棲居(せいきよ)せられた。(へや)には敷物(しきもの)もなく、窓掛(まどか)けもなく、(つくひ)椅子(いす)書籍(しよせき)樂器(がくき)(ほか)には、(なん)裝飾(さうしよく)もなかつた。(ふゆ)にもストーブを()かなかつた。或人(あるひと)が、ストーブを()かれては如何(いかゞ)ですと()つたら、「イエス(さま)時代(じだい)には、さういふものはありませんでした」と(こた)へられたさうである。粗造(そざう)家屋(かをく)であるから、敷物(しきもの)のない床板(ゆかいた)空隙(すきま)から、(こほり)のやうな(つめた)(かぜ)がやつて()る、其處(そこ)にストーブも()かず、讀書(どくしよ)せらるゝ監督(かんとく)()て、()敎役者(けうえきしや)が、監督(かんとく)さん、(かみ)目張(めばり)をなさい、スルト(さむい)(かぜ)()ませんと(をし)へた。監督(かんとく)は、有難(ありがた)(こゝろ)みませうと()はれた。其後(そのご)(ふたゝ)(どう)敎役者(けうえきしや)訪問(はうもん)した(とき)は、西洋(せいやう)新聞紙(しんぶんし)()つたのが、(すで)處々(ところどころ)(やぶ)れて()つたから、監督(かんとく)さん、これは日本紙(にほんし)でなければいけません、仙花(せんくわ)()つて、よい(かみ)がありますといへば、監督(かんとく)は、「それは高價(かうか)です、これ(たい)そう(やす)い、無價(たゞ)です、(やぶ)れたら何遍(なんべん)でも()ります」と()はれた。
 烏丸(からすまる)住宅(ぢゆうたく)は、其後(そのご)(でう)(うつ)し、其處(そこ)最後(さいご)歸國(きこく)まで住居(ぢゆうきよ)せられた。監督(かんとく)歸國(きこく)せらるゝ(まへ)京都(きやうと)地方部(ちはうぶ)常置委員(じやうちゐゐん)訪問(はうもん)した(とき)()はれたるに、()歸國(きこく)(さい)()()くものは、()(あい)する敎友(けういう)寫眞(しやしん)のみ、此家(このいへ)書籍(ほん)器具(きぐ)も、一(さい)京都(きやうと)地方部(ちはうぶ)敎役者(けうえきしや)(ため)(あた)ふべし、()()りし(のち)自由(じいう)使用(しよう)せられよと。かくて數日(すうじつ)(のち)に、漂然(へうぜん)京都(きやうと)()歸國(きこく)せられたるが、一(ちやく)衣服(いふく)、一(まい)毛布(もうふ)、一(さつ)聖書(せいしよ)と二三の必要品(ひつえうひん)(ほか)は、(なに)(もつ)(たづさ)へられず、室内(しつない)(もと)のまゝにて監督(かんとく)(おは)せし(とき)と、(すこ)しも(こと)ならず、これが(ふたゝ)(かへ)らぬ(ひと)(あと)とは、何人(なんびと)にも(おも)はれなかつた。(その)無私(むし)淸蒹(せいれん)潔白(けつぱく)(おどろ)かさるものはなかつた。

六、監督の節儉  

 ()監督(かんとく)といふ聖公會(せいこうくわい)最上位(さいじやうゐ)榮職(えいしよく)にあつて、(つき)(すう)(ゑん)報酬(はうしう)がありながら監督(かんとく)の一ヶ(げつ)生活費(せいくわつひ)は、(わづ)かに拾五(ゑん)(ぐらゐ)であったといふ、(もつ)てその質素儉勤(しつそけんきん)生活(せいくわつ)のほどを(さつ)すべきである。日常(にちじやう)生活費(せいくわつひ)出來(でき)()節儉(せつけん)し、月末(げつまつ)食料(しよくれう)其他(そのた)雜費(ざっぴ)(すこ)しでも超過(てうくわ)すると、コックに(その)理由(りいう)(たづ)ねられ、以後(いご)注意(ちゆうい)(あた)へられた。雜貨(ざつくわ)日用品(にちようひん)()(とき)は、なかなか六ケ()(こと)をいはれた。(これ)高價(かうか)です、モツト安價(やす)いのとかへて()いと、毎度(まいど)(めい)ぜらるゝので、コツクは(これ)(いと)ひて、吝嗇(りんしよく)(ぢゞ)めと陰口(かげぐち)()つて()つた。(しか)り、(じつ)()生活(せいくわつ)表面(へうめん)からばかり()るものには、(ほと)んど極端(きよくたん)吝嗇家(りんしよくか)としか(おも)はれなかつた。(しかし)ながら、燕雀(えんじやく)(いづく)んぞ鴻鵠(こうこく)(こゝろざし)()らんや、()()(おのれ)()(せつ)したるは、(かみ)より(たく)せられたる此世(このよ)(たから)を、(むし)くひ(さび)くさり、(ぬすみ)穿(うがつ)(ぬすま)ざる(ところ)(てん)(たくは)へ、かくして、(うれ)ふるに()たれども(つね)(よろこ)び、(まづ)しきに()たれども(おほ)くの(ひと)(とま)さんためであつた。
 傳道旅行(でんだうりよかう)をせらるゝに、汽車(きしや)はいつも三(とう)のほかは()られなかつた。老年(らうねん)(およ)ばれても、汽車(きしや)など一、二(とう)()られたことはない、相變(あひかは)らず三(とう)切符(きつぷ)何處(いづこ)にても旅行(りよかう)せられた。(ひと)あり、()何故(なにゆえ)に三(とう)のほか()りたまはざるやと()へば、(いは)く「(やむ)()ざるなり」と、(ひと)(その)意味(いみ)(かい)せずして(あや)しみ(たづ)ぬれば、「四(とう)がないからです。」
 傳道地(でんだうち)巡回(じゆんくわい)せらるゝ(さい)には、バタをつけたパンを幾個(いくつ)となく新聞紙(しんぶんし)(つゝ)んで、携帶(けいたい)せらるゝのが(つね)であつたが、(その)新聞紙(しんぶんし)を一々叮寧(ていねい)(しわ)をのべて持返(もちかへ)り、三(たび)も四(たび)(もち)ゐるのが(れい)であつた。來翰(らいかん)餘白(よはく)不要(ふえう)刷物(すりもの)など、(いやしく)(しろ)部分(ぶぶん)のある(かみ)は、原稿紙(げんかうし)(がは)りや、説敎(せつけう)下書(したがき)(もち)ひられた。

七、献金と救恤 

 往々吝嗇(わうわうりんしよく)(あやま)られたほどに、勤儉克己(きんけんこつき)生活(せいくわつ)をした監督(かんとく)は、()くして貯蓄(たくはへ)られた(かね)を、(すべ)(かみ)(さゝ)げ、會堂(くわいどう)建設(けんせつ)學生(がくせい)扶助(ふじよ)病者(びやうしや)寡婦(くわんふ)孤兒(こじ)救濟(きうさい)(ため)に、(おしみ)なく(つひや)された。
 監督(かんとく)直接間接(ちよくせつかんせつ)(つく)された敎會(けうくわい)は、東京(とうきやう)では築地(つきぢ)三一大會堂(だいくわいだう)、これは其當時(そのだうじ)萬圓(まんゑん)(えう)したといふが、監督(かんとく)(にん)出資(しゆつし)になったものである。其他(そのた)神田(かんだ)基督敎會(きりすとけうくわい)淺草(あさくさ)聖的翰敎會(せいよはねけうくわい)深川(ふかがわ)眞光敎會(しんくわうけうくわい)麹町(かふぢまち)聖愛敎會(せいあいけうくわい)關西地方(くわんさいちほう)では大津(おほつ)基督敎會(きりすとけうくわい)岸和田(きしわだ)聖保羅敎會(せぽろけうくわい)小濱(こはま)聖路加(せるか)敎會(けうくわい)(とう)である。最後(さいご)紀念(きねん)となったのは、京都(きやうと)聖約翰(せいよはね)敎會(けうくわい)にて、これは三萬圓(まんゑん)(えう)したといふ。(しか)して是等(これら)會堂(くわいだう)()日本(にほん)人の(ため)(さゝ)げられたのであった。築地(つきぢ)の三一大會堂(だいくわいだう)新築(しんちく)された當時(たうじ)日本人(にほんじん)禮拜(れいはい)外人(ぐわいじん)禮拜(れいはい)とが、同會堂(どうくわいだう)執行(しつかう)せらるゝことゝなったが、(いづ)れの禮拜(れいはい)(しゆ)とすべきか其處置(そのしよち)(つい)て、當時(たうじ)牧師(ぼくし)監督(かんとく)意見(いけん)(たづ)ねしに、監督曰(かんとくいは)く、(わたくし)日本人(にほんじん)(ため)會堂(くわいだう)()てました、(あれ)日本人(にほんじん)敎會(けうくわい)です。日本人(にほんじん)禮拜(れいはい)(さまた)げのない(かぎ)りは外人(ぐわいじん)使用(しよう)するも差支(さしつかへ)ありません、何事(なにごと)日本人(にほんじん)(しゆ)ですと()はれたさうである。
 監督(かんとく)貧書生(ひんしよせい)(やしな)はれたのは(じつ)(おびたゞ)しい。(しか)監督(かんとく)彼等自身(かれらじしん)にも(おのれ)學資(がくし)が、(たれ)から()()るか()らせなかった。(おほ)くの書生(しよせい)自身(じしん)學費(がくひ)出資者(しゆつししや)(たしか)めやうと、監督(かんとく)(たづ)ぬると、心配(しんぱい)すな、或人(あるひと)(よろこ)んで()します、學生(がくせい)勉強(べんきやう)肝要(かんえう)ですと()はれ、其或人(そのあるひと)とは(たれ)なるかを(けつ)して(もら)されなかった。
 某高等學校(ぼうかうとうがくかう)敎授(けうじゆ)であった(ひと)が、危篤(きとく)であるとの電報(でんぱう)()(とき)に、監督(かんとく)(いた)心配(しんぱい)せられ、遠路(ゑんろ)()態々(わざわざ)某氏(ぼうし)見舞(みまひ)(つか)はされた。監督(かんとく)某氏(ぼうし)出發(しゆつぱつ)(さい)に、一(つう)書翰(しよかん)(たく)されたが、不幸(ふかう)病人(びやうにん)其書翰(そのしよかん)()(をは)らぬ(うち)に、(つま)と三(にん)()(のこ)して(ぼつ)した。某氏(ぼうし)未亡人(みぼうじん)のため監督(かんとく)書翰(しよかん)()んで()かせたが、其中(そのうち)には、靈的(れいてき)慰籍(ゐせき)(あた)へ、信仰(しんかう)忍耐(にんたい)(もつ)(をはり)まで、(しゆ)(つか)ふべきことを懇切(こんせつ)(すゝ)められ、最後(さいご)に、()貴下(きか)天父(てんぷ)御召(おめし)(かうむ)ることあらば後事(こうじ)(うれ)ふる(なか)れ、三(にん)愛兒(あいじ)敎育(けういく)我之(われこれ)引受(ひきう)くべし云々(うんうん)と、()いてあったさうである。(これ)()だ一(れい)であるが、()()ふやうな事情(じじやう)(もと)に、監督(かんとく)(たす)けられた(ひと)が、(ひと)()らぬ(ところ)幾人(いくにん)となくあつたと()(こと)である。
 監督(かんとく)敎務(けうむ)()びて淸國(しんこく)(おもむ)かれた不在中(ふざいちゆう)遙々(はるばる)長崎(ながさき)から()(ひと)があった。留守居(るすゐ)某氏(ぼうし)が、(これ)(むか)へて來意(らいい)()ふと、此人(このひと)監督(かんとく)長崎(ながさき)()つた(ころ)恩顧(をんこ)(かうむ)つたコックであった。監督(かんとく)同地(どうち)から大阪(おほさか)(てん)ずる(さい)に、(かれ)莫大(ばくだい)金圓(きんゑん)(めぐ)まれ、(その)(かげ)長崎(ながさき)牛乳業(ぎうにふげふ)開業(かいげふ)し、(いま)では()不自由(ふじいう)なき生活(せいくわつ)(えとな)むやうになったので、此度(このたび)上京(じやうきやう)(さひはい)()づ、御禮(おれい)()(うかが)つたといふ(こと)であつた。監督(かんとく)多年仕(たねんつか)へたコックに(たい)しては、()現在(げんざい)恩顧(をんこ)(あた)へて當人(たうにん)(よろこ)ばせるよりは、(かれ)將來(しやうらい)(こと)思慮(しりよ)(もち)ひられ、(ひそか)(かれ)(ため)(はか)られた。買物(かひもの)など六ケ()(こと)をいはれたが、幾分(いくぶん)でも安價(やす)いと(おも)はれた(とき)は、それを(かれ)のために貯蓄(たくはへ)()かれた。()るコックの(ごと)きは、(なが)(あひだ)奉公(ほうこう)して()つたが、(あま)買物(かひもの)にやかましいので、或日(あるひ)(わたし)(とて)貴下(あなた)のコックは(つと)まりませんから、お(ひま)(いたゞ)きますと申出(まうしい)でた。監督(かんとく)はさうですか、ソレは致方(いたしかた)ありませんと、やがて二百何圓(なんゑん)()いた貯金通帳(ちよきんかよひちやう)()つて()て、(これ)はお(まへ)()ひかへる(とき)に、お(まへ)老後(らうご)のためにと貯蓄(ちよちく)したものだから、お(まへ)のものであると、(かれ)(まへ)差出(さしだ)した。(これ)()(はじ)めて監督(かんとく)深情(しんじやう)厚意(かうい)()つた(かれ)は、驚愕(きやうがく)其極(そのきよく)(たつ)匇惶(そうくわう)暇乞(いとまごひ)撤回(てつくわい)して、益々(ますます)忠勤(ちゆうきん)(はげ)んだ。(おも)ふに長崎(ながさき)のコックも、同樣(どうやう)恩澤(をんたく)(よく)したのであらう。
 一(なつ)監督(かんとく)は、丹後宮津(たんごみやづ)澤邊(さはべ)別莊(べつさう)に、避暑(ひしよ)せられた(こと)があつた。これは監督(かんとく)衰弱(すゐじやく)(はなはだ)しかつたので、パートリツヂ監督(かんとく)心配(しんぱい)せられ、容易(ようい)()()れぬ監督(かんとく)(ともな)ふて、()いて保養(ほやう)せしめられたのであった。滯在中(たいざいちゆう)別莊(べつさう)留守番(るすばん)老婆(らうば)が、食事(しよくじ)其他(そのた)雜用(ざつよう)(べん)じたが、西洋人(せいやうじん)()へば、贅澤(ぜいたく)生活(くらし)をするものと心得(こゝろえ)へた此婆(このばあ)さんの()には、監督(かんとく)質素勤儉(しつそきんけん)生活(せいくわつ)は、吝嗇(りんしよく)としか()なかつた。
 それに監督(かんとく)他人(たにん)(わづら)はすを(この)まず、何事(なにごと)(つと)めて(みずか)()さるゝのを、金錢(きんせん)(をし)んで他人(たにん)()()りぬことゝ(おも)(ちが)ひ、()(ひと)()(ひと)に、あれは吝薔爺(りんしよくぢゞ)守錢奴(しゆせんど)よと、惡口(あくこう)をたゝいて()つた。やがて酷暑(こくしよ)候過(こうす)涼風立(れいふうた)()めたので、監督(かんとく)京都(きやうと)(かへ)らるゝ(こと)となった、いよいよ出立(しゆつたつ)といふ(さい)に、(あつ)老婆(らうば)(らう)(しや)し、無言(むごん)にて(なに)やら紙片(かみきれ)らしいものを手渡(てわた)された、(あと)(ひら)いて()ると、(きん)圓紙幣(ゑんしへい)(まい)あったので、老婆(らうば)(よろこ)(たと)ふるものなく、かヽる御方(おかた)とは()らず、罵詈讒謗(ばりざんぼう)まことに()まなかったと前非(ぜんぴ)()ひ、(なみだ)ながらに(ひと)(かた)つたさうである。
 監督(かんとく)(しん)陰德(いんとく)君子(くんし)であつた。(みぎ)()(なす)ことを(ひだり)()(しら)する(なか)れてふ聖訓(せいくん)を、(その)まゝに實行(じつかう)し、(きは)めて隱密(いんみつ)(ひと)(ほどこ)し、其當人(そのたうにん)にすら()らせぬ(やう)にした。(まづ)しき(ひと)()病者(びやうしや)見舞(みま)ふたりしては、先方(せんぱう)()れぬ(やう)にソツト(もの)(かげ)(とこ)(した)に、(かね)(かく)()かれた。人目(ひとめ)(おほ)場合(ばあひ)には、傍人(そばびと)にも()()かぬ(やう)に、握手(あくしゆ)(さい)などに、ソツト紙幣(しへい)手移(てうつし)にされた。(かつ)(ぼう)米國(べいこく)留學(りうがく)する(とき)監督(かんとく)新橋(しんばし)見送(みおく)り、最後(さいご)握手(あくしゆ)(さい)に、餞別(せんべつ)として紙幣(しへい)手渡(てわたし)された。ところがどう()間違(まちがひ)にや、(それ)新聞紙片(しんぶんかみきれ)であった。(ぼう)監督(かんとく)眞意(しんい)(しや)せんがために友人(いうじん)傳言(でんげん)した。 (とも)監督(かんとく)(めん)(ぼう)(かは)つて謝意(しやい)(へう)した。監督(かんとく)はソンナ(こと)はないと()らぬ(かほ)をせられたが、(じつ)()()くと(かた)るや、監督(かんとく)(おどろ)かれ(たゞち)にポケツトを(さぐ)りしに、(はた)して紙幣(しへい)依然(いぜん)として(のこ)つて()つたので、(まつた)(みぎ)(ひだり)とを間達(まちが)ひての失策(しつさく)なりし(こと)物語(ものがた)られ、早速(さつそく)(しよ)(おく)りて粗忽(そこつ)(しや)し、送金(そうきん)手筈(てはづ)をしたさうである。
 監督(かんとく)は、(おほやけ)寄附金(きふきん)義捐金(ぎえんきん)募集(ぼしふ)には、(あま)りに(おう)じなかった。(これ)其名(そのな)(あらは)れん(こと)(おそ)れし(ゆえ)である。かゝる場合(ばあひ)(かね)(いだ)さるゝ(とき)は、自分(じぶん)()()さぬやうと、(きび)しく(ことは)られた。(しか)監督(かんとく)は 慈善事業(じぜんじげふ)(たい)して深厚(しんかう)なる同情者(どうじやうしや)であって、(つね)(かく)れて弧兒(こじ)救濟(きうざい)などに(つく)された。明治(めいじ)二十四(ねん)立敎(りつけう)女學校(ぢよがくかう)特志者(とくししや)が、救育院(きういくゐん)命名(めいめい)して孤兒(こじ)救濟(きうさい)事業(じげふ)(おこ)した()りに、監督(かんとく)は、(たれ)にも()げずに立派(りつぱ)なる家屋(かをく)新築(しんちく)して、其用(そのよう)(きよう)せられた。其後(そのご)(この)救育院(きういくゐん)()ぢて、女子(ぢよし)(たき)(がわ)學園(がくゑん)(おく)り、男兒(だんじ)博愛社(はくあいしや)(おく)られたるが、監督(かんとく)は、(もと)救育院(きういくゐん)家屋(かおく)其儘(そのまゝ)博愛社(はくあいしや)寄附(きふ)せられた。監督(かんとく)はまた博愛社(はくあいしや)基本財産(きほんざいさん)として耕地(かうち)(そな)へんと(こゝろ)(もち)ひられたるが、同社(どうしや)數回(すうくわい)購入(かうにふ)したる地所(ぢしよ)は、監督(かんとく)助力(じよりよく)によるもの(おほ)しといふ。
 明治(めいぢ)何年(なんねん)であったか(しか)(わか)らぬが、日本橋(にほんばし)から京橋(きやうばし)にかけて大火(たいくわ)があった(とき)監督(かんとく)(きん)六百(ゑん)(ふところ)にして、(うえ)(ひん)(くるし)める幾多(いくた)罹災者(りさいしや)()ふて、人知(ひとし)れずに施與(せよ)し、また外國人(ぐわいこくじん)勸誘(くわんいう)して、金品(きんぴん)募集(ぼしふ)し、罹災者(りさいしや)貧困(ひんこん)なる(もの)に、寢具(しんぐ)其他(そのた)物品(ぶつぴん)施與(せよ)せられたといふ。其後(そのご)十二(ねん)(ふたゝ)大火(たいくわ)があった。日本橋(にほんばし)箱屋町(はこやちやう)から(おこ)つた()は、強風(きやうふう)(あふ)られて同區方面(どうくはうめん)から、京橋(きやうばし)中通(なかどほり)()き八丁堀(ちやうぼり)()めて、()()は一(ぱう)靈岸島(れいがんじま)に、一(ぱう)築地(つきぢ)(およ)んだ。當時(たうじ)監督(かんとく)築地(つきぢ)新榮町(しんさかえちやう)住居(ぢゆうきよ)されたが、其家(そのいえ)烏有(ういう)()した。此大火(このたいくわ)(いえ)なく(しよく)なく罹災者(りさいしや)窮状(きゆじやう)慘憺(さんたん)(きは)めた。此時(このとき)監督(かんとく)は、神學生(しんがくせい)其他(そのた)人々(ひとびと)()し、(もつと)貧困(ひんこん)なる罹災者(りさいしや)調査(てうさ)せしめ物品(ぶつぴん)引替(ひきか)へにする切符(きつぷ)(わた)し、()くして莫大(ばくだい)なる金錢(きんせん)物品(ぶつぴん)(ほどこ)された。
 監督(かんとく)は、慈善施與(じぜんせよ)せらるゝに、注意深(ちゆういぶか)かったことは、(つぎ)の一小事(せうじ)(もつ)()ることができる。毎週(まいしう)築地(つきぢ)から深川(ふかがは)敎會(けうくわい)(かよ)はるゝ途中(とちゆう)、いつも路傍(ろばう)伏座(すわ)つて物乞(ものごひ)するものがあつた。監督(かんとく)(とほ)(ごと)何程(なにほど)かを(めぐ)んで行過()かれた。或日(あるひ)同行(どうかう)傳道者(でんだうしや)()はるゝに、御國(おくに)乞食(こつじき)には借兒(かりご)して、(ひと)同情(どうじやう)(うつた)へんとする不屈者(ふとゞきもの)はないかと、傳道者(でんだうしや)()らずと(こた)へたが、其後(そのご)(こと)監督(かんとく)は、一人(ひとり)乞食(こつじき)(かね)(めぐ)まれたが、()嬰兒(えいじ)()いた乞食(こつじき)には、(なに)(あた)へられなかった。同行者(どうかうしや)(あやし)んで其理由(そのりいう)(たづ)ねると、監督(かんとく)は、アレは(うそ)です、あの嬰兒(えいじ)(せん)嬰兒(えいじ)(ちが)ひます、借兒(かりご)です、()(ひと)いけませんと(こた)へられたそうである。

八、傳道者たる監督 

 監督(かんとく)基督(きりすと)(だい)なる傳道者(でんだうしや)であった。血氣湧(けつきわく)(ごと)靑春(せいしゆん)(とき)から、八十()(さか)(こえ)(ほと)んど()れたる(つめ)たき老衰(らうすゐ)(たい)(もつ)て、我國(わがくに)()(まで)五十年間(ねんかん)生涯(しやうがい)を、福音宣傳(ふくゐんせんでん)(ため)(けん)じ、專心傳道(せんしんでんだう)の一()(つと)めて、(がう)()(かへりみ)ざりし眞箇(しんこ)傳道者(でんだうしや)であった。()同勞者(どうらうしや)フルべツキ、ヘボン兩氏(りやうし)(ごと)きは、(あるひ)政府(せいふ)顧問(こもん)となり、政治(せいぢ)法律(はふりつ)敎育(けういく)從事(じゆうじ)して、其功績(そのこうせき)世人(せじん)(みと)められ、(あるひ)は一(せい)國手(こくしゆ)(あふ)がれ、英和(えいわ)辭典(じてん)(とも)雷名天下(らいめいてんか)(とどろ)きしが、()(ほと)んど敎會外(けうくわいぐわい)(ひと)には其名(そのな)だに()られなかつた。()(あたか)(すき)()つけて左右(さいう)を、(かへり)みざる勤勉(きんべん)なる農夫(のうふ)(ごと)く、切支丹(きりしたん)邪宗門(じやしうもん)禁制(きんせい)表札(へうさつ)(たか)(かゝ)げられ、宣敎(せんけう)(みち)容易(ようい)(ひら)けず、單身(たんしん)絶東(ぜつとう)()りて(かた)るに(とも)なく、一(にん)改宗者(かいしうしや)をも()ざりし盤根(ばんこん)錯節(さくせつ)當時(たうじ)より、堂々(だうだう)たる日本(にほん)聖公會(せいこうくわい)建設(けんせつ)()るに(いた)(まで)全精力(ぜんせいりよく)傾盡(けいじん)し、(たゆ)まず()まず、心田(しんでん)開拓(かいたく)して眞理(しんり)(たね)()き、(しか)して(これ)培養(ばいやう)助長(じよちやう)(つと)められた。監督職(かんとくしよく)()したる(のち)は、愈々(いよいよ)專心(せんしん)基督(きりすと)(つた)へんか(ため)に、京都(きやうと)地方部(ちはうぶ)監督(かんとく)配下(はいか)(ぞく)し、(すう)(しよ)傳道地(でんだうち)主任(しゆにん)長老(ちやうらう)(つとめ)()られ、東奔(とうほん)西走(さいさう)傳道(でんだう)盡瘁(じんすゐ)し、(おひ)(まさ)(いた)るを()らざるものゝ(ごと)くであつた。晩年(ばんねん)(およ)びて、福井(ふくゐ)傳道(でんだう)開始(かいし)するに(さきだ)ち、該地(がいち)視察(しさつ)(おもむか)れたるが、歸來(きらい)(たゞち)にマキム監督(かんとく)(しよ)(おく)り、福井(ふくゐ)宣敎師(せんけうし)派遣(はけん)するの必要(ひつえう)()き、最後(さいご)(いは)く、此處(こゝ)()ひて(ほふ)るべき(うし)(ぴき)あり、(これ)(つかは)(たま)へと(しょ)し、マキム監督(かんとく)をして感極(かんきはま)つて流涕(りうてい)せしめたといふ。いかに()が、「主耶蘇(しゆいゑす)より(うけ)(つとめ)すなはち(かみ)(めぐみ)福音(ふくゐん)(あかし)する(こと)(とげ)(ため)(わが)生命(せいめい)をも(おもん)ぜざる」、忠誠(ちうせい)熱烈(ねつれつ)なる傳道者(でんだうしや)であったかを(おも)ふべきである。
 (おも)ふに傳道上(でんだうじやう)(おい)て、經綸(けいりん)(ねん)畫策(くわくさく)縱橫(じゆうわう)快刀亂麻(くわいたうらんま)()つの手腕(しゆわん)(ふる)ふが(ごと)きは、()天職(てんしよく)ではなかつた。()篤信(とくしん)高德(かうとく)(ひと)(おのづ)からにして化育(くわいく)する聖徒的(せいとてき)傳道者(でんだうしや)であった。(こゝろ)より(こゝろ)に、(むね)より(むね)福音(ふくゐん)(つた)へ、個人(こじん)靈魂(れいこん)(すく)はねば()まね(ひと)であつた。(ゆゑ)(その)傳道法(でんだうはふ)所謂(いはゆる)個人傳道(こじんでんだう)訪問主義(はうもんしゆぎ)であった。華々(はなばな)しい社會的(しやくわいてき)事業(じげふ)や、時世(じせい)投合(とうがふ)する仰々(ぎやうぎやう)しき運動(うんどう)(このま)ず、炎熱(えんねつ)(こう)嚴冬(げんとう)()孜々矻々(しゝこつこつ)として、信者(しんじや)求道者(きうだうしや)訪問(はうもん)し、諄々(じゆんじゆん)(みち)()いて()まず、聖保羅(せぽろ)提摩太(てもて)(あた)へたる訓戒(くんかい)實行(じつこう)し、「(とき)(うる)(とき)()ざるも(はげ)みて(これ)(つと)め、各樣(さまざま)忍耐(しのび)敎誨(をしへ)(もつ)て、(ひと)(たゞ)(いまし)(すゝ)められた。(しか)して()(こと)(しばし)()ひたるは、貴顯(きけん)紳縉(ししん)(あら)ずして、貧民(ひんみん)病者(びやうしや)であった。其道(そのみち)()(をしへ)()ふる(こゑ)は、朱門(しゆもん)高堂(かうだう)(あした)(あら)ずして、白屋(はくをく)茅門(ぼうもん)(ゆうべ)であった。
 某傳道師(ぼうでんだうし)が、監督(かんとく)(とも)()()傳道(でんだう)(おもむ)いた途次(とじ)路傍(ろぼう)石工(せきこう)(いし)をコツコツ(きざ)んで()つた。監督(かんとく)(かへり)みて傳道師(でんだうし)(いは)く、貴下(あなた)(あれ)(なに)(まな)びましたか。傳道師(でんだうし)其意(そのい)(かい)せず(こた)ふることができなかつた。監督(かんとく)(いは)く、傳道(でんだう)祕訣(ひけつ)(かく)(ごと)しと。
 監督(かんとく)信徒(しんと)(いへ)訪問(はうもん)すると、(かなら)(なに)敎訓(けうくん)(のこ)して(かへ)られた。細君(さいくん)などが、(ちや)菓子(くわし)よとマルタ(てき)馳走(ちさう)して(こゝろ)()()()ないのは、(はなは)迷惑(めいわく)(かん)じられて、()(わずら)はしたやうであつたが、()慈眼愛膓(じがんあいちやう)より(あふれ)()づる十數分(すうふん)言葉(ことば)は、他人(たにん)時間(じかん)饒舌(げうぜつ)(まさ)つて能力(ちから)があった。
 ()(かつ)京都(きやうと)地方部(ちはうぶ)敎役者會(けうえきしやくわい)にて、訪問傳道(はうもんでんだう)()(しも)(ごと)()べられた。「()(つね)日本(にほん)聖公會(せいこうくわい)傳道(でんだう)旺盛(わうせい)切望(せつぼう)する、(しか)して(これ)方法(はうはふ)訪問傳道(はうもんでんだう)(もつ)主要(しゆえう)(おも)ふ。(いま)一二(れい)()げると、英國(えいこく)非國敎派(ひこくけうは)の一敎師(けうし)()ふには、非國敎派(ひこくけうは)成長(せいちやう)した靑年等(せいねんら)國敎派(こくけうは)(てん)ずる(わけ)は、其敎師(そのけうし)訪問(はうもん)勉勵(べんれい)し、又好(またこの)んで(ひと)引見(いんけん)するからであると。(また)英國(えいこく)獨立敎派(どくりつけうは)の一敎師(けうし)()ふには、英國(えいこく)(いた)(ところ)(おい)非國敎派(ひこくけうは)敎會(けうくわい)衰微(すゐび)せる有樣(ありさま)は、殊更(ことさら)我敎派(わがけうは)(おい)(しか)りで、此事實(このじじつ)()ふは無益(むえき)である。(これ)(はん)して國敎派(こくけうは)()(かゝ)つて我等(われら)()()した。(その)理由(りいう)(おほ)いが(うち)に、國敎派(こくけうは)敎師(けうし)が、訪問(はうもん)熱心(ねつしん)にするからである。(しか)るに非國敎派(ひこくけうは)敎師(けうし)は一(ぱん)(これ)(いと)ふの傾向(けいかう)がある。これで()ると訪問(はうもん)傳道(でんだう)切要(せつえう)()れる」云々(うんうん)
 監督(かんとく)洗禮(せんれい)志願者(しぐわんしや)には、()使徒信經(しとしんぎやう)十誡(じつかい)主祷文(しゆたふぶん)(まな)ばしめた。一週間(しうかん)(ない)()(さだ)めて(みづか)(をし)へらるゝか(しから)ざれば(ひと)をして(をし)へしめた。以上(いじやう)のものを(をは)ると試驗(しけん)をなし、充分(じゆふぶん)敎理(けうり)心得(こゝろえ)しと(みと)めし(のち)洗禮(せんれい)(ほどこ)された。監督(かんとく)はこの規定(きてい)實行(じつかう)するに嚴正(げんせい)で、如何(いか)なる情實(じやうじつ)都合(つがふ)があっても、(けつ)して變更(へんかう)省略(しやうりやく)する(こと)はなかつた。それ(ゆゑ)志願者(しぐわんしや)洗禮(せんれい)(うけ)るまでには、(すくな)くとも五六ケ(げつ)以上(いじやう)(ねん)はかゝつた。信徒(しんと)按手式(あんしゆしき)志願者(しぐわんしや)にも同樣(どうやう)其意義(そのいぎ)(まな)ばしめ、公會(こうくわい)問答(もんだふ)(をし)へ、聖餐式文(せいさんしきぶん)心得(こゝろえ)させ、()試驗(しけん)成績(せいせき)(よつ)按手(あんしゆ)された。

九、勤勉精勵

 監督(かんとく)勤勉精勵(きんべんせいれい)には(おどろ)かぬ(もの)はなかつた。(あさ)は五六()から(よる)は十二()まで、(ほと)んど寧日(ねいじつ)なく牧會傳道(ぼくくわいでんだう)(つと)められ、在邦(ざいはう)五十年間(ねんかん)()歸國(きこく)(のぞ)いては、一()休養(きうやう)などしたことはなかつた。
 (かつ)或人(あるひと)が、監督(かんとく)さん、貴下(あなた)はナゼ結婚(けつこん)しませんかと()へば、監督(かんとく)(いは)く、(わたし)(いそが)しいので其暇(そのひま)がありませんと(こた)へられた。()牧會傳道(ぼくくわいでんだう)(もつぱ)らならんため、(あま)んじて獨身生活(どくしんせいくわつ)(おく)らたれのであるが、しかしまた()(はや)くより日本(にほん)渡來(とらい)し、結婚(けつこん)機會(きくわい)もなかつたほどに、職務(しよくむ)專心(せんしん)()精勵(せいれい)し、()(かへりみ)(ひま)がなかったのである。東京(とうきやう)()られた(とき)督監(かんとく)として内外(ないぐわい)敎務多忙(けうむたばう)()でありながら神學校(しんがくかう)敎授(けうじゆ)として常に二三の學課(がくくわ)受持(うけも)たれ、(さら)當時(たうじ)邦人(はうじん)聖職(せいしよく)(わづか)に二(にん)しかなかつたので、築地(つきぢ)三一、深川(ふかゞわ)眞光(しんくわう)神田(かんだ)基督(きりすと)の三敎會(けうくわい)と、淺草(あさくさ)講義所(かうぎしよ)牧會(ぼくくわい)傳道(でんだう)任務(にんむ)を、(みづか)()られ(あるひ)補助(ほじよ)せられた。日曜日(にちえうび)などは、全日殆(ぜんじつほと)んど寸暇(すんか)なく(はたら)かれた。早朝(さうてう)築地(つきぢ)立敎學校(りつけうがくかう)講堂(かうだう)(のち)は三一大會堂(だいくわいだう))にて禮拜説敎(らいはいせつけう)せられ、(それ)より(たゞち)徒歩(とほ)にて、深川眞光(ふかゞはしんくわう)敎會(けうくわい)(いた)り、十()より禮拜説敎(らいはいせつけう)し、二()より聖書(せいしよ)(かう)ぜられ、(よる)淺草(あさくさ)講義所(かうぎしよ)神田基督(かんだきりすと)敎會(けうくわい)にて禮拜説敎(らいはいせつけう)し、築地(つきぢ)(かへ)つて(やす)まれたるは、大抵(たいてい)十二時過(じす)ぎであつた。
 京都地方部(きやうとちはうぶ)(てん)じてからは、京都(きやうと)(でう)講義所(かうぎしよ)(のち)聖約翰(せいよはね)敎會(けうくわい))、大津(おほつ)基督數會(きりすとけうくわい)岸和田(きしわだ)聖保羅(せいぽうろ)敎會(けうくわい)(およ)舞鶴(まひづる)宮津(みやづ)傳道地(でんだうち)主任長老(しゆにんちやうらう)として(はたら)かれ、()傳道女館(でんだうぢよくわん)校長(かうちやう)(けん)敎授(けうじゆ)として、婦人(ふじん)敎役者(けうえきしや)養成(やうせい)(つと)められた。晩年(ばんねん)(いた)身體(しんたい)衰弱(すゐじやく)餘儀(よぎ)なく、大津(おほつ)岸和田(きしわだ)(でう)敎會(けうくわい)(ほか)は、長老(ちやうらう)執務(しつむ)()したるも、餘暇(よか)には()々として著述(ちよじゆつ)從事(じゆうじ)せられた。(しか)して(つひ)身體(しんたい)自由(じいう)(うしな)ひ、最早(もはや)老朽(らうきう)()すなしと(みづか)(かん)ぜらるゝや、(むな)しく椅子(ゐす)()するを(この)まず、我歸國(われきこく)せば(かは)りに()人物(じんぶつ)(おく)らるべしと、(なみだ)(ふる)つて其愛(そのあい)する(だい)二の故鄕(こきやう)()られた。
 ()職務(しよくむ)精勵(せいれい)された(こと)は、(しも)事實(じじつ)(もつ)()ることができる。(いま)坂鶴(はんかく)鐵道(てつだう)完成(くわんせい)せず、(やうや)福知山(ふくちやま)(まで)開通(かいつう)した(ころ)宮津(みやづ)巡回(じゆんくわい)定日(ていじつ)であつた或日(あるひ)此日(このひ)(あさ)から暴風雨(ぼうふうう)であつたので、老體(らうたい)()此天候(このてんこう)では巡回(じゆんくわい)はあるまいと、同地(どうち)定住(ていぢゆう)敎役者(けうえきしや)家族(かぞく)(うわさ)して()ると、薄暮(はくぼ)突然玄關(とつぜんげんくわん)御免(ごめん)なさいと監督(かんとく)(こえ)がした。それ監督(かんとく)御出(おいで)だと、家族何(かぞくいづ)れも出迎(でむか)ふれば、()はいかに、()半面(はんめん)(おそろし)くも()()つて、血潮(ちしほ)淋漓(りんり)として(なが)れて()つた。監督(かんとく)は、(わたし)一寸(ちよつと)怪俄(けが)しました、モウ(いた)(こと)ありませんといふ。 座敷(ざしき)(しやう)(おもむろ)仔細(しさい)(たづぬ)ると、此日(このひ)正午(しやうご)福知山(ふくちやま)から舞鶴(まひづる)までの途中(とちゆう)(たゞ)さへ險惡(けんあく)なる山道(やまみち)を、暴風雨(ぼうふうう)(おか)()人車(じんしや)顛覆(てんぷく)し、()眞逆(まつさか)さまに投出(なげだ)され、顏面(がんめん)(はげ)しく()たれた。
 「(わたし)()暗黑(まつくら)何事(なにごと)も、サツパリ(わか)りませんでしたが、神樣(かみさま)御惠(おめぐみ)(しばら)くで()()きました」と平氣(へいき)()はれた。(まつた)人事不省(じんじふせい)(おちゐ)つたが、車夫(しやふ)介抱(かいはう)でやうやう()()かれたのである。()()くと()氣丈(きぢやう)監督(かんとく)は、其儘(そのまゝ)舞鶴(まひづる)信徒(しんと)訪問(はうもん)せられ、休息(きうそく)もなくまた(たゞち)宮津(みやづ)(むか)ひ、平時(へいじ)よりも一時間餘(じかんよ)遲れる(おく)れて同地(どうち)(ちやく)せられた。(しか)して(れい)(ごと)く、翌日(よくじつ)聖餐式(せいさんしき)執行(しつかう)し、説敎(せつけう)もせられて京都(きやうと)(かへ)られた。
 宮津(みやづ)から京都(きやうと)(かへ)られた翌日(よくじつ)は、(れい)(ごと)傳道女館(でんだうぢよくわん)敎授(けうじゆ)()かれた。(あま)りの大負傷(だいふしやう)なれば、苦痛(くつう)(こと)(さつ)した幹事(かんじ)某女史(ぼうぢよし)は、今日(こんにち)敎授(けうじゆ)をやめ休息(きうそく)せらるゝやうと、()いて()ふと。監督(かんとく)(おごそ)かに()だ一(ごん)、「敎授(けうじゆ)(わたし)責任(せきにん)です」と()つて、平素(へいそ)(ごと)心快(こゝろよ)敎授(けうじゆ)(すま)された。
 大負傷後(だいふしやうご)巡回(じゆんくわい)(とき)(こと)であった。其日(そのひ)土曜日(どえうび)其夜(そのよ)集會(しふかい)(もよほ)豫定(よてい)であったが、()頭痛(づつう)がするとて、(おほい)(なや)()らるゝ(やう)であつたから、翌朝(よくてう)聖餐式(せいさんしき)執行(しつかう)もあれば、敎役者(けうえきしや)()()氣遺(きづか)ひ、無理(むり)()ふて休會(きうくわい)することにした。(しか)るに其夜(そのよ)宮津(みやづ)()る四()僻村(へきそん)から、二(にん)靑年(せいねん)態々(わざわざ)監督(かんとく)(をしへ)()かんとして()た。()(おほひ)(よろこ)ばれ懇切(こんせつ)に二(にん)(むか)へ、諄々(じゆんじゆん)として十(かい)説明(せつめい)せられ、(さら)苦痛(くつう)(かん)ぜざるものゝ(ごと)くであったが、(こら)(こら)へた苦痛(くつう)其極(そのきよく)(たつ)せしものか、俄然座(がぜざ)ながら(たふ)()した。居合(ゐあは)せたる人々(ひとびと)驚駭(きやうがい)一方(ひとかた)ならず、冷水(れいすゐ)(もつ)頭部(とうぶ)(ひや)すなど介抱(かいはう)(のち)(しづか)臥床(ぐわしよう)()ふたが、()聽容(きゝい)れず()ほ二(にん)靑年(せいねん)(みち)()いて、深更(しんかう)までに(およ)んだ。

十、説 敎 

 監督(かんとく)支邦(しな)赴任(ふにん)してから、()()在留(ざいりう)(わづか)に壹(ねん)有餘(いうよ)(あひだ)に、はや支那語(しなご)熟達(じゆくたつ)し、單身(たんしん)各地(かくち)巡回(じゆんくわい)傳道(でんだう)(こゝろ)むるに(いた)つた。()語學(ごがく)進歩著(しんぽいちじる)しかつたには、人々(ひとびと)驚嘆(きやうたん)したそうである。(しか)るに(ほと)んど(その)全生涯(ぜんしやうがい)我國(わがくに)(すご)された(わり)には、日本語(にほんご)(あま)りに巧妙(こうめう)とは()へなかった。國文(こくぶん)(かい)漢籍(かんせき)()まれたが、會話(くわいわ)(むし)拙劣(せつれつ)であった。それゆへ()(うつく)しい(した)(もつ)(かた)講壇(かうだん)(ひと)ではなかった。それにも(かゝ)はらず、()説敎(せつけう)(ひと)(うご)かす(ちから)があって、何人(なんびと)(ふか)(かん)()たれた。あの銀線(ぎんせん)(たば)ねた(やう)光澤(くわうたく)のある白鬚(はくぜん)をゆるがしつゝ、敬虔(けいけん)温雅(をんが)態度(たいど)で、諄々(じゆんじゆん)として(かみ)恩寵(をんちやう)眞理(しんり)()かるゝ(とき)は、何人(なんびと)(おも)はず()らず(えり)(ただ)(かうべ)()れた。基督(きりすと)膝下(しつか)()して唇頭(しんとう)より()るゝ、聖語(せいご)()心地(こゝち)して、會衆(くわいしゆう)は一(ごん)()(もら)さじと謹聽(きんちやう)した。 其時(そのとき)語句(ごく)拙劣(せつれつ)咄辯(とつべん)念頭(ねんとう)にはない、()畏敬(ゐけい)(ねん)壯嚴(さうごん)()堂内(だうない)()ちた。(ゆゑ)未信者(みしんじや)にして()の一(くわい)説敎(せつけう)()たれて求道心(きうだうしん)(おこ)したものは、(けつ)して(すくな)くなかった。
 監督(かんとく)説敎中(せつけうちゆう)に、深遠な(しんゑん)なる哲理(てつり)(かう)ずるとか、神學上(しんがくじやう)意見(いけん)披瀝(ひれき)するとか()ふやうなことは、(がう)()かった。さりとて(ひと)情感(じやうかん)激勵(げきれい)して、熱狂(ねつきやう)せしむる(やう)なこともなかった。單純(たんじゆん)に、明白(めいはく)に、()かも確信(かくしん)()ち、力強(ちからつよ)く、(かみ)恩寵(おんちよう)基督(きりすと)(すくひ)聖靈(せいれい)(たまもの)()(ほか)はなかった。説敎(せつけう)組織(そしき)も、(ほと)んど千(ぺん)律的(りつてき)に、題詞(だいじ)聖句(せいく)を三四に分解(ぶんかい)して()かるゝのみで、何等(なんら)奇拔(きばつ)なる(ところ)なく、何等(なんら)感興(かんきよう)()からしむるものはなかった。(しか)るに、()敎壇(けうだん)(もた)れかゝつて會衆(くわいしゆう)(ゆび)さし、(おもむ)ろに悔改(くひあらため)(うなが)さるゝや、(ひと)をして(みづか)(かへり)痛悔(つうくわい)せざるを()ざらしめた。鐵拳(てつけん)(ふる)敎壇(けうだん)(たた)き、(こゑ)(はげま)して、警戒(けいかい)(くは)へらるゝや、何人(なんびと)駭然(がいぜん)として覺醒(めざ)め、肅然(しゆくぜん)として(かたち)(たゞ)した。熱誠(ねつせい)()()ちた、()してやゝ(ふる)へた語調(ごてう)で、(かみ)(めぐみ)基督(きりすと)(あい)()かるゝや、會衆(くわいしゆう)感恩(かんをん)(なみだ)(むせ)んだ。()説敎(せつけう)機智妙想(きちめうさう)(もつ)(ひと)をして感嘆(かんたん)せしめなかったが、人格(じんかく)(そこ)より(なが)(いづ)る一(しゆ)魔力(まりよく)を、(ひと)肺肝(はいかん)()()ました。あゝ()何故(なにゆゑ)であらうか、()なし、(もつと)單純(たんじゆん)なる福音(ふくゐん)力強(ちからつよ)舌端(ぜつたん)より()ち、(その)(ごん)()には、不可測(ふかそく)生命(せいめい)源泉(げんせん)より()(いづ)る、聖徒(せいと)個人的(こじんてき)感化(かんくわ)力伴(ちからともな)ひたるが(ゆゑ)である。
 監督(かんとく)は、説敎(せつけう)準備(じゆんび)せらるゝ(とき)は、一(しつ)()(こも)つて内錠(うちぢやう)(おろ)し、普通(ふつう)來客(らいきやく)には面會(めんくわい)せられず、草稿(さうこう)(れい)用紙(ようし)細字(さいじ)記載(きさい)し、毎週(まいしう)(くわい)説敎(せつけう)(けつ)して()かさず準備(じゆんび)された。(しか)して(すで)今週(こんしう)説敎(せつけう)準備(じゆんび)されつゝあるに、()敎師(けうし)敎壇(けうだん)(ゆづ)つた場合(ばあひ)とか、(あるひ)巡回(じゆんくわい)其他(そのた)都合(つがふ)で、其準備(そのじゆんび)した説敎(せつけう)不用(ふよう)となりし(とき)は、それを次週(じしう)使(つか)はず、(その)まゝ筐底(きやうてい)(ほうむ)つて、(さら)次週(じしう)(あたら)しく準備(じゆんび)せられた。或年(あるとし)(なつ)、一敎師(けうし)()説敎(せつけう)草稿(さうかう)整理(せいり)した(こと)があつたが、其中(そのうち)使用(しよう)された草稿(さうかう)には年月日(ねんぐわつぴ)記入(きにふ)してあつたが、準備(じゆんび)して使用(しよう)せられなかつた草稿(さうかう)が、(すう)(ぺん)あつたそうである。
 ()は、自身司式(じしんししき)説敎(せつけう)もせぬ(とき)は、會衆席(くわいしゆうせき)(すみ)(はう)()し、いかにも敬虔(けいけん)態度(たいど)にて、何人(なんびと)説敎(せつけう)熱心(ねつしん)謹聽(きんちやう)せられた。或時(あるとき)靑年牧師(せいねんぼくし)が、監督(かんとく)さん(まこと)につまらぬ説敎(せつけう)で、御迷惑(ごめいわく)御座(ござ)いませうと()ふたら、「いや(たれ)説敎(せつけう)でも注意(ちゆうい)して()きますと、其中(そのうち)(かみ)御聲(みこゑ)()かれます」と()はれた。
 監督(かんとく)最後(さいご)説敎(せつけう)は、歸國(きこく)せらるゝ(まえ)、四(ぐわつ)二十六(にち)復活後(ふくくわつご)(だい)主日(しゆにち)京都(きやうと)聖約翰(せいよはね)敎會(けうくわい)にて、晩禱(ばんたう)説敎(せつけう)がすんだ(のち)の、一(ぢやう)奬勵(しやうれい)であつた。()牧師(ぼくし)説敎(せつけう)()むと、(わたし)(ごん)と、よろめく(こし)()てゝ敎壇(けうだん)(のぼ)つた。其夜(そのよ)生懀(あいにく)會衆(くわいしゆう)少數(せうすう)であつたが、監督(かんとく)(わたし)(ごん)()つて(たゝ)るゝや、(いづ)れも(さき)(きそ)ふて敎壇(けうだん)(まえ)(すゝ)(ちか)づき、一言(ひとこと)をも聽漏(きゝも)らさじと()(かま)へた。其時師(そのときし)()敎壇(けうだん)(らん)(もた)れかけて()られたが、兩手(りやうて)()(のば)したり、(たか)()げたり、(あるひ)鐵拳(てつけん)(もつ)敎壇(けうだん)(たた)いたりして、非常(ひじやう)(いきほひ)(もつ)(すゝ)められた。(その)奬勵(しようれい)の一(せつ)に、信者(しんじや)大變少(たいへんすく)ない、いかで敎會(けうくわい)()ません、會衆(くわいしゆう)(すく)ない。敎師失望(けうししつばう)します、説敎力(せつけうりよく)ありません。あなた(がた)一人(ひとり)びとり、信者(しんじや)()れて()ますよろしい。さすれば一人(ひとり)ふたり、三(にん)四人(よつたり)()して會堂(くわいだう)(ぱい)滿()ちませう。牧師(ぼくし)(はげ)みます、基督喜(きりすとよろこ)びます、聖約翰(せいよはね)(てん)(おい)(よろこ)びます…‥………と熱烈(ねつれつ)(かた)られた。

十一、祈禱の人 

 祈禱(きたう)監督(かんとく)生命(せいめい)であった。()(すべ)ての活動力(くわつどうりよく)源泉(げんせん)であった。其高潔(そのかうけつ)なる生涯(しやうがい)祕訣(ひけつ)であった。監督(かんとく)崇高(すうかう)なる人格(じんかく)其偉大(そのゐだい)なる精根氣魄(せいこんきはく)は、其内部(そのないぶ)生命(せいめい)()へず(ひそ)かに、祈禱(きたう)によりて(やしな)はれ(つよ)められ、(あふ)(みなぎ)つて外面(ぐわいめん)醗酵(はつかう)したるに(ほか)ならぬ。()こそ(しん)祈禱(きたう)(ひと)であった。()祈禱(きたう)態度(たいど)語聲(ごせい)が、いかにも敬虔(けいけん)莊重(さうちよう)眞率(しんりつ)にして、()(ひと)(うごか)したるは、()(じつ)()が、(かく)れたる(とき)(ところ)(おい)て、至誠(しせい)(もつ)()へず(いの)(ひと)であったからである。繁劇(はんげき)多忙(たばう)(しか)して勤勉(きんべん)精勵(せいれい)寸陰(すんいん)をも()しまれた()は、(しばし)ば一(しつ)()(こも)つて(しづ)かに(しば)(とき)(すご)された。其時(そのとき)こそ()()りて、(もつと)(たの)しき(とき)(もつ)嚴肅(げんしゆ)なる(とき)(もつと)大事(だいじ)()さるゝ(とき)であった。(およ)何事(なにごと)計畫(けいくわく)され、實行(じつかう)され、着手(ちやくしゆ)さるゝ(まえ)には、(かな)らす()は一(しつ)退(しりぞ)いて祈念(きねん)獸想(もくさう)(とき)(すご)された。
 監督(かんとく)()るものゝ、(おそ)らく生涯(しやうがい)(わす)るゝことの出來(でき)ぬのは、あの靈氣(れいき)(あふ)(ちから)滿()ちた祈禱(きたう)であらう。()(うやうや)しく(ひざまづ)兩手(りやうて)()(あは)せ、(てん)(あふ)いだ、いかにも、(かみ)(あし)する子供(こども)らしい態度(たいど)、一(げん)()(しづ)かに(おごそ)かに肺肝(はいかん)より()()で、()かも信任(しんにん)滿()滿()ち、(あたか)も五六(さい)子供(こども)が、(をや)(あま)へるやうな語調(ごてう)、ゆかしとは()はんか、崇高(すうかう)とは()はんか、()(かみ)(した)しく物語(ものがた)祈禱(きたう)ありとせば、(これ)(たし)かにそれであると(おも)はれた。
 監督(かんとく)祈禱書(きたうしよ)(もち)ひて(いの)らるゝときも、其態度(そのたいど)といひ其語聲(そのごせい)といひ、(とて)(これ)祈禱書(きたうしよ)によりて、(いの)らるゝとは(おも)はれなかった。()説敎(せつけう)(かん)じないものでも、其嚴肅(そのげんしゆく)莊重(さうちよう)敬虔(けいけん)な、(しか)して(ちから)滿()ちた祈禱(きたう)には(うご)かされた。奧野(おくの)昌網(まさつな)(をう)監督(かんとく)訪問(はうもん)した(とき)(だん)(たまた)祈禱書(きたうしよ)のことに(およ)んだ(こと)があつた。(をう)監督(かんとく)(むか)つて、祈禱書(きたうしよ)によりて祈禱(きたう)するは、形式的(けいしきてき)誠實(せいじつ)()ぐと批難(ひなん)した。監督(かんとく)滔々(たうたう)其然(そのしか)らざる所以(ゆゑん)答辯(たふべん)せられたが、最後(さいご)監督(かんとく)(いの)りませうと()つて、椅子(いす)(はな)(ひざまづ)いて、(れい)謙遜(けんそん)態度(たいど)敬虔(けいけん)語氣(ごき)(もつ)て、祈禱(きたう)(さゝ)げられた。(つゞ)いて(をう)祈禱(きたう)をせられたが、(あと)で、監督(かんとく)さん、只今(たゞいま)貴下(あなた)のお(いのり)には(じつ)(かん)じました。(わたし)今日(こんにち)までこんな靈的(れいてき)祈禱(きたう)()いた(こと)はありませんと()ふと、監督(かんとく)()だ一(ごん)、これが貴下(あなた)のお(きらい)祈禱書(きたうしよ)祈禱(きたう)でありますと(こた)へられた。(をう)はそれ以來(いらい)聖公會(せいこうくわい)祈禱書(きたうしよ)尊重(そんちよう)し、(つね)座右(ざいう)(そな)へて、公私新禱(こうしきたう)模範(もはん)とせられたそうである。
 神學校(しんがくかう)卒業(そつげふ)した一靑年(せいねん)が、監督(かんとく)指定(してい)した傳道地(でんだうち)(きら)つて赴任(ふにん)(かへん)ぜず、(しき)りに任地(にんち)變更(へんかう)監督(かんとく)請願(せいぐわん)した。監督(かんとく)(かれ)に.種々(しゆじゆ)説諭(せつゆ)して決心(けつしん)(うなが)されたが、(かれ)容易(ようい)(けつ)せず(むな)しく時日(じじつ)()ばして()つた。或日(あるひ)監督(かんとく)はまた(かれ)懇々(こんこん)説諭(せつゆ)(くは)へた(のち)に、(わたし)今晩(こんばん)貴下(あなた)決心(けつしん)出來(でき)るやうに(いの)ります、貴下(あなた)(いの)つて決心(けつしん)して(くだ)さいと()はれたので、ハイとは(こた)へたが、(かれ)内心(ないしん)監督(かんとく)(なん)()つても承諾(しようたく)せぬと頑張(ぐわんば)つて()つた。其夜深更(そのよしんかう)(かれ)不圖(ふと)監督(かんとく)部屋(へや)(まへ)(とほ)ると、(うち)から祈禱(きたう)(こゑ)()(きこ)へた。(おごそか)(しか)して如何(いか)にも天父(てんぷ)物語(ものがた)るやうな祈禱(きたう)(こゑ)、あゝ監督(かんとく)()(わたし)(ため)天父(てんぷ)(うつた)へて()るのではあるまいか、(かれ)はこう(おも)ふと祈禱(きたう)(こゑ)全身(ぜんしん)染々(しみじみ)(こた)へて、我意(がい)()執拗(しつあう)(くだ)けて、()だはらはらと悔悟(くわいご)(なみだ)()れた。翌朝(よくてう)(かれ)監督(かんとく)(もと)(いた)り、前非(ぜんぴ)(しや)赴任(ふにん)決心(けつしん)()げ、(いさ)んで任地(にんち)(むか)つた。
 監督(かんとく)祈禱書(きたうしよ)忠實(ちゆうじつ)なる愛用者(あいようしや)であった。祈禱書(きたうしよ)規定(きてい)嚴格(げんかく)(まも)り、如何(いか)なる情實(じやうじつ)都合(つがふ)があっても、(けつ)して(これ)變更(へんかう)省略(せいりやく)する(こと)はなかった。(しか)祈禱書(きたうしよ)何等規定(なんらきてい)のない(こと)は、(ほと)んど無用視(むようし)した。(れい)せば、期節(きせつ)(したが)つてストール(あるひ)禮拜(れいはい)()ける彩色(さいしき)()へることや、聖卓(せいたく)に十字架(じか)安置(あんち)したり、(はな)(そな)(かう)()くことなどは、一(しゆ)裝飾(さうしよく)()ぎずとして、(けつ)して()られなかつた。()所謂(いはゆる)低公會員(ローチヤーチマン)であつた。(つね)()はるゝに、「祈禱書(きたうしよ)忠實(ちうじつ)使(つか)つて()るならば、議論(ぎろん)混雜(こんざつ)もない、()自他(じた)利益(りえき)である。(しか)るに自分(じぶん)(この)みによつて加除(かぢよ)するは(よろ)しくない」と。
 監督(かんとく)は、會堂(くわいだう)嚴格(げんかく)なる意味(いみ)(おい)て、聖別(せいべつ)されたものであるとし、禮拜(れいはい)以外(いぐわい)(こと)には、例令(たとへ)ば、演説會(えんぜつくわい)祈禱會(きたうくわい)日曜學校(にちえうがくかう)などに(もち)ひる(こと)(ゆる)さなかった。禮拜堂(れいはいだう)は、(ひと)(まこと)に、「主は(しゆ)その(きよ)殿(みや)()ませり」と(かん)じ、畏敬(ゐけい)謙遜(けんそん)(もつ)祈禱讃美(きたうさんび)(さゝ)ぐる(ほか)は、()其聖前(そのせいぜん)(もく)して、(かみ)榮光(えいくわう)聖德(せいとく)(あふ)ぎ、(その)聖聲(みこゑ)()聖所(せいしよ)であるから、堂内(だうない)()つては、(つと)めて嚴肅(げんしゆく)沈默(ちんもく)(たも)ち、(かりそめ)にも輕操(けいさう)なる振舞(ふるまひ)あるペからず、雜談挨拶(ざつだんあひさつ)など(まじ)ゆる(なか)れとは、()敎訓(けうくん)であった。
 監督(かんとく)禮拜以外(れいはいいぐわい)會堂(くわいだう)(もち)ひる(こと)(ゆる)さなかつた(ため)に、靑年(せいねん)敎役者(けうえきしや)(しばし)監督(かんとく)衝突(しようとつ)した(こと)があつた。彼等(かれら)は、(いやし)くも(かみ)(ため)になす事業(じげふ)に、禮拜堂(れいはいだう)(もち)ゆるとも、(なん)不可(ふか)あらん、「われ矜恤(あはれみ)(このみ)祭祀(まつり)(このま)ず」とは如何(いか)なる意味(いみ)なるかと、聖句(せいく)までも引用(いんよう)して、勢鋭(いきほいするど)詰問(きつもん)した。(とき)監督(かんとく)(かたち)(ただ)()(おごそ)かに、「われ衿恤(あはれみ)(このみ)祭祀(まつり)(このま)ず」と聖語(せいご)(じゆ)し、(かた)(こぶし)(にぎ)()めて力強(ちからつよ)(まへ)(ふり)(おろ)すと同時(どうじ)に、(これ)(わが)主義(しゆぎ)なりと一(かつ)し、(さら)(いは)く、會堂(くわいだう)以外(いぐわい)建物(たてもの)がなければ(いた)(かた)ありません、(しか)(べつ)會館(くわいくわん)といふものがあるに、ナゼ禮拜堂(れいはいだう)以外(いぐわい)(ところ)ではいけませんかと、(さかさ)まに詰問(きつもん)された。
 一牧師(ぼくし)(はなし)に、或時(あるとき)信徒(しんと)按手式(あんしゆしき)(ぜん)式服(しきぶく)(ちやく)して(のち)規定(きてい)(したが)受領者(じゆりやうしや)姓名(せいめい)受洗(じゆせん)(および)年齡(ねんれい)提出(ていしゆつ)したが、其中(そのうち)に一(にん)年齡(ねんれい)不明(ふめい)()記入(きにふ)して()かつたら、()嚴然(げんぜん)として規定(きてい)(しめ)して(これ)(かへ)し、式場(しきぢやう)()られない。(そこ)(にわか)式服(しきふく)(だつ)奔走(ほんさう)(やうや)記入(きにふ)して、(しき)(すま)したことがあるが、()此時(このとき)隨分(ずゐぶん)(くる)しく(かん)じたが、其後(そのご)此事(このこと)(つい)嚴正(げんせい)にやつたばかりでなく、此精神(このせいしん)()執務上(しつむじやう)(だい)なる影響(えいきやう)()けたことを滲々(しみじみ)(かん)じたと。(これ)は一(れい)()ぎぬが、(もつ)監督(かんとく)如何(いか)に一小事(せうじ)たりとも、公會(こうくわい)規定(きてい)忠實(ちゆうじつ)嚴守(げんしゆ)せられた(こと)()ることができる。
 監督(かんとく)歸國(きこく)せらるゝと()いて、或人(あるひと)(しきり)我國(わがくに)(とゞま)るやう嘆願(たんぐわん)せしに、監督(かんとく)(いは)く、()此地(このち)にありて(むな)しく椅子(いす)()するを(この)まず。(むし)歸國(きこく)して日本(にほん)(ため)(つく)()し。何處(いづこ)にありても(かみ)()祈禱(きたう)()(たな)ふ。日本(にほん)()りて(いの)るも、米國(べいこく)()りて(いの)るも(おな)じ、(てん)(たか)さは何處(いづこ)にても(ことな)ることなしと。また或人(あるひと)惜別(せきべつ)(じやう)(もら)したるに、監督(かんとく)は、(いの)(こゝろ)(こゝろ)には距離(きより)はない、何處(いづこ)()るも、(かみ)吾々(われわれ)(あひだ)(おな)じであると()はれた。
 監督(かんとく)は、(ふたた)(かへ)らぬ歸國(きこく)に、(まさ)橫濱(よこはま)()らんとする(さい)見送(みおく)れる數人(すにん)兄弟(けいてい)が、ランチに(うつ)つた(とき)(はる)かに本船甲板上(ほんせんかんぱんじやう)から、(かみ)祝福(しゆくふく)(いの)られたが、(これ)()日本(にほん)()ける最終(さいしゆふ)祈禱(きたう)であった。
 歸國後(きこくご)は、愛甥(あいせい)ハリソン氏邸(してい)靜養(せいやう)せられたるが、()()として日本(にほん)(わす)(たま)はず、其通信(そのつうしん)(いは)()毎日(まいにち)日課(につくわ)日本(にほん)聖公會(せいこうくわい)(ため)(いの)ることなりと。病床(びやうしよう)(よこた)はりて(かみ)(めし)(いま)(いま)かと()ちつゝある(とき)も、()日本(にほん)()(こゝろ)せしと()へ、英語(えいご)(もちひ)日本語(にほんご)(かたり)り、日本語(にほんご)にて祈禱(きたう)(さゝ)げられたといふ。

十二、温和厚情 

 監督(かんとく)柔和(にんわ)謙遜(けんそん)寬容(くわんよう)(とく)()ねて、嚴正(げんせい)潔白(けつぱく)勇敢(ゆうかん)剛毅(がうき)武士的(ぶしてき)性格(せいかく)(いう)せられた。()温厚(をんかう)君子(くんし)にして(しか)(また)()血性(けつせい)男兒(だんじ)であつた。一(めん)處女(しよぢよ)(ごと)(やさ)しき(じやう)(ひと)にして、一(めん)剛健(がうけん)なる意志(いし)(ひと)であった。(その)厚情(かうじやう)藹然(あいぜん)として(きく)すべく、(その)寬宏(くわんこう)にして(やぶさか)なき(あい)は、(しん)崇高(すうかう)(ゐき)(たつ)したるが、(その)所信(しよしん)(つらぬ)くためには()亦辭(またじ)せず、(その)主義(しゆぎ)(かた)()つて(うご)かざること、(むし)頑固(ぐわんこ)()ふも(あえ)失當(しつたう)ではなかつた。
 日本(にほん)聖公會(せいこうくわい)錚々(さうさう)たる牧師(ぼくし)が、(いま)神學校(しんがくかう)在學中(ざいがくちゆう)(ころ)であつた、當時(たうじ)監督(かんとく)は三一神學校(しんがくかう)(すま)はれ、二(かい)の三(しつ)の一を書齋(しよさい)(けん)客間(きやくま)とし、一を寢室(しんしつ)とし、一を食堂(しよくだう)として(もち)ひられたが、未來(みらい)大牧師(だいぼくし)たる(かれ)部屋(へや)は、三(がい)北側(きたがは)にある丸窓(まるまど)小暗(をぐら)(へや)であるのが、(すこぶ)不滿足(ふまんぞく)で、()()監督(かんとく)(へや)()ふて、我儕(われら)(かみ)(ため)身命(しんめい)(さゝ)げた前途(ぜんと)有望(いうばう)靑年(せいねん)である。(しか)るにあんな不衞生(ふえいせい)(へや)()つては、健康(けんかう)(がい)するから、(すみやか)完全(くわんぜん)なる寄宿舍(きしゆくしや)(まう)けるか、(しか)らざれば(そと)下宿(げしゆく)せしむるか、二(しや)(その)一を(ゆる)されたしと談判(だんぱん)した。監督(かんとく)はさうですか(かんが)へてをきませうと()つて其場(そのば)()んだ。翌日(よくじつ)(かれ)外出(ぐわいしゆつ)して(かへ)つて()ると、小使(こづかひ)(すで)(かれ)部屋(へや)掃除(さうぢよ)し、監督(かんとく)荷物(にもつ)大半(たいはん)(はこん)()んでをつたので、(かれ)驚愕(おどろい)何事(なにごと)ぞと(たづ)ぬれば、監督(かんとく)さんが、寢室(しんしつ)を三(がい)(うつ)し、三(がい)の二(しつ)(にん)(もの)自己(じこ)寢室(しんしつ)食堂(しよくだう)(うつ)らしめんとするなりといふ。(かれ)尚更(なほさら)(おどろ)早速(さつそく)監督(かんとく)(もと)()き、(まへ)失言(しつげん)(しや)し、許容(ゆるし)()ひ、現状(げんじやう)(あまん)ずべし(けつ)して監督(かんとく)(くるし)むる(こゝろ)(あら)ずと、低頭(ていとう)平身(へいしん)謝罪(しやざい)せしに、監督(かんとく)(かれ)(かた)(たゝ)いて莞爾(くわんじ)として薇笑(ほゝえ)み、心配(しんぱい)いりません、(わたし)自分(じぶん)便宜(べんぎ)(ため)にいたしました。(わたし)は六七時間(じかん)夜寢(よるね)るだけです、()むる(とき)光線(くわうせん)()りません。貴下方(あなたがた)學生(がくせい)勉強(べんきやう)自修(じしう)()め、(おほ)くの時間(じかん)部屋(へや)()りますから、光線(くわうせん)空氣(くうき)のよい(ところ)(のぞ)みます當然(たうぜん)であります、と()つて聽容(きゝい)れなかつた。(つひ)學生(がくせい)抽鬮(ちうせん)せしに、(かれ)監督(かんとく)寢室(しんしつ)であつた(しつ)(あた)り、其處(そこ)(うつ)(こと)となつた。
 三一神學校(しんがくかう)生徒(せいと)に、腦病(なうびやう)(なや)んだ(もの)があった。(かれ)(これ)がために日々(ひゞ)學課(がくくわ)(おも)はしく勉強(べんきやう)ができぬので、(ひとり)(みづか)らの()(かなし)んで()つた。監督(かんとく)非常(ひじやう)(この)生徒(せいと)同情(どうじやう)し、種々(いろいろ)親切(しんせつ)(こゝろ)()へられた。(こと)(かれ)安眠(あんみん)()ぬのを氣遣(きづか)ふて、毎夜(まいよ)十一時頃(じころ)には(かなら)(かれ)(しつ)見舞(みま)はれ、お(やすみ)ですかと()(こゝろ)み、()(かれ)()()ると、()(ねむ)らぬといけませんと注意(ちゆうい)(あた)へられた。かくして(ほと)んど一年間(ねんかん)(ばかり)は一()(かゝ)さず(かれ)見舞(みま)はれたさうである。
 監督(かんとく)築地(つきぢ)小田原町(をだはらちやう)(ぢゆう)した(ころ)當時(たうじ)來朝(らいてう)して()()(あさ)かつたガァデナー()が、(その)居所(きよしよ)日本家屋(にほんかをく)()()宣敎師(せんけうし)家族(かぞく)(ため)には、間數(まかず)(すくな)(こと)寢室(しんしつ)不便(ふべん)であるから、()適當(てきたう)(ところ)(うつ)(たい)申出(まをしいで)た。すると監督(かんとく)はそれならば(わたし)(いへ)貴下(あなた)寢室(しんしつ)になるやうな、()部屋(へや)があるから()ては什麼(どう)かと()はれた。そこで早速(さつそく)ガァデナー()は、監督(かんとく)住家(ぢゆうか)の一(しつ)自分(じぶん)寢部屋(ねべや)とする(こと)にした。四五日經(にちた)つて日曜日(にちえうび)監督(かんとく)深川(ふかがは)敎會(けうくわい)()かれた留守(るす)、ガァデナー()(いえ)樣子(やうす)能々見(よくよくみ)ると書齋(しよさい)晝間(ひるま)敎室(けうしつ)(もち)ひらるゝ食堂(しよくだう)書生部屋(しよせいべや)、コツク部屋(べや)寢室(しんしつ)一ツであつて、(その)一の寢室(しんしつ)自分(じぶん)占領(せんりやう)したから、監督(かんとく)何處(どこ)()るのであらう、と()()いたガァデナー()家内(かない)(さが)して()たが、(ほか)寢室(しんしつ)となるやうな(ところ)がない。コツクに(たづ)ぬると、(はじめ)()らぬと()つたが、(きびし)(たつ)ねたところが、コツクの()ふに、「監督(かんとく)さんから(かた)口外(こうぐわい)(きん)じられたから、極内密(ごくないみつ)のお(はなし)ですが、(じつ)貴下(あなた)がお(いで)になつてからは、監督(かんとく)さんは食堂(しよくだう)(テーブル)(うへ)にお(やす)みです」。(おどろ)いたガァデナー()は、自分(じぶん)(ため)不自由(ふじいう)(しの)監督(かんとく)厚意(かうい)(しや)し、()いて辭退(じたい)して()(うつ)つた。
 神學校(しんがくかう)樓上(ろうじやう)學生(がくせい)(とも)起臥(きぐわ)した(ころ)も、來客(らいきやく)があれば、(きやく)自分(じぶん)寢室(しんしつ)()させ、自分(じぶん)食卓(しよくたく)(うへ)か、(ゆか)()(こと)度々(たびたび)であつた。或時(あるとき)米國(べいこく)學校(がくかう)卒業(そつげふ)して歸國(きこく)(つひで)に、日本(にほん)(おとづ)れた支那人(しなじん)が、監督(かんとく)(きやく)となつた(こと)があつた。監督(かんとく)(きやく)を一()しかない寢臺(ねだい)(やす)ませ、自分(じぶん)書齋(しよさい)(つくへ)(うへ)損料(そんれう)貸蒲圍(かしぶとん)(まい)()りて()られた。翌朝(よくてう)(きやく)なる支邦人(しなじん)は、部屋(へや)入口(いりくち)間違(まちが)ひ、書齋(しよさい)()(ひら)き、(はから)ずも監督(かんとく)此樣(このさま)發見(はつけん)して、恐縮(きやうしゆく)したさうである。
 某々(ぼうぼう)兩長老(りやうちやうらう)同伴(どうはん)し.上武地方(じやうぶちはう)傳道地(でんだうち)巡回(じゆんくわい)した(とき)雨後(うご)田舍道路(ゐなかみち)人車(じんしや)(とほ)らぬ泥濘(でいねい)に、(くつ)もヅボンも泥汚(どろ)だらけ、やうやう前橋(まへばし)の一旅館(りよくわん)()いた。翌日(よくじつ)早朝(さうてう)兩長老(りやうちやうらう)目醒(めさ)めると、監督(かんとく)()()()で、何處(いづこ)()かれたか姿(すがた)()へぬ。一長老(ちやうらう)(たづ)ねに玄關(げんくわん)まで()()ると、監督(かんとく)(わき)(はう)(しき)りに(くつ)(みが)いてをられた。監督(かんとく)さん貴下(あなた)(くつ)(わたし)(みが)きますと()ふと、(これ)は〇〇さんの(くつ)です。(わたし)のはあれです。御自分(ごじぶん)(くつ)(みが)くまへに、長老(ちやうらう)(くつ)(みが)いて()られたのであつた。
 (ひと)(ため)親切(しんせつ)であつた監督(かんとく)は、自分(じぶん)(ため)(ひと)(わづらは)すことを非常(ひじやう)(おそ)れられた。地方(ちはう)巡回(じゆんくわい)せらるゝ(とき)に、敎役者(けうえきしや)信者(しんじや)停車場(ていしやぢやう)出迎(でむか)へて、其靴(そのかばん)()ちませうと何程云(なにほどい)つても、(けつ)して()たせなかつた。他人(たにん)世話(せわ)になるのを辭退(じたい)し、敎會(けうくわい)講義所(かうぎしよ)片隅(かたすみ)宿泊(しゆくはく)し、()()信徒(しんと)(いへ)には()まられなかつた。(たまた)敎役者(けうえきしや)信徒(しんと)(たく)(とま)つても、家人(かじん)(なに)かと待遇(たいぐう)せんとするのに、遠慮(ゑんりよ)せられて家人(かじん)邪魔(じやま)にならぬやう(つと)められた。饗應(きやうおう)(けつ)して()けられず、白湯(さゆ)(もら)つて持參(じさん)のパン辨當(べんたう)(しよく)せられた。
 自分(じぶん)のため送迎會(そうげいくわい)(ひら)(こと)などは(かた)()せられ、見送(みおく)りとか出迎(でむかひ)とかいふために、貴重(きちよう)時間(じかん)他人(たにん)(つひや)させ、また(これ)()迷惑(めいわく)()けるを(おそ)れて、出發(しゆつぱつ)歸宅(きたく)時間(じかん)(けつ)して(ひと)()らせなかつた。監督職(かんとくしよく)退(しりぞ)いてから、(ひさ)()りで歸國(きこく)し、一年間斗(ねんかんばかり)在米(ざいべい)せられたが、(その)往復(わうふく)(さい)も、其後(そのご)京都(きやうと)(てん)じてから、一()歸國(きこく)した其際(そのさい)も、(だれ)にも出發(しゆつぱつ)歸宅(きたく)時日(じじつ)()げず、瓢然(へうぜん)として()瓢然(へうぜん)として(かへ)(きた)られた。

十三、忍耐寬容  

 監督(かんとく)(みづか)()(しん)じた(こと)は、直情(ちよくじやう)徑行(けいかう)し、一(たん)意見(いけん)(さだ)むるや、(かた)(とつ)溶易(ようい)(うご)かず、(ぐわん)として()くまでも、(その)所信(しよしん)(つらぬ)かれた。()(とも)(はたら)いた幾多(いくた)敎役者(けうえきしや)は、幾度(いくたび)監督(かんとく)頑固(ぐわんこ)には(こま)るとの歎聲(たんせい)(もら)した。(しか)しこの頑固(ぐわんこ)()神前(しんぜん)幾度(いくたび)專念(せんねん)默想(もくさう)し、聖旨(せいし)(しん)じた(こと)決行(けつかう)せんとせしものにて、()()りては、讓渉(じようほ)良心(りやうしん)問題(もんだい)であつた。 (これ)(ため)()激論(げきろん)せしものは(すくな)くなかつた、(とき)には侮辱(ぶじゆく)言動(げんどう)(あえ)てしたるものさへあつた。(しかし)ながら、監督(かんとく)(はなはだ)侮辱(ぶじゆく)(くは)へられし(とき)は、猛然(まうぜん)たる意志(いし)(もつ)(みづか)(おのれ)(せい)し、默然(もくぜん)として(くちびる)()ちて一()をも(はつ)せす、(のゝし)られて(のゝし)らね(ぬし)(なら)ひ、(その)瞬間(しゆんかん)(すで)其人(そのひと)(ゆる)された。(かつ)()敎會(けうくわい)(なに)かの相談會(さうだんくわい)(ひら)かれた(とき)監督(かんとく)意見(いけん)()人達(ひとたち)意見(いけん)衝突(しようとつ)して、(いた)激論(げきろん)(およ)んだ(こと)があつた。或人(あるひと)(つひ)監督(かんとく)(むか)つて貴下(あなた)日本(にほん)傳道(でんだう)邪魔者(じやまもの)です御歸國(ごきこく)なさい、とまで暴言(ぼむげん)した。(しか)監督(かんとく)始終(しじゆふ)ニコニコして()られたが、侮辱(ぶじゆく)(はなはだ)しきに(いた)つた(とき)は、默然(もくぜん)として(くちびる)()ぢ、(さら)に一(ごん)をも(はつ)せず、()ふがまゝに(まか)された。()くの(ごと)監督(かんとく)忍耐(にんたい)寬容(くわんよう)には、()かる侮辱(ぶじゆく)言動(げんどう)(あえ)てしたる(もの)も、一(たん)(その)()()るや、憤怒(ふんど)(じやう)何時(いつ)しか()えて、(いた)自己(じこ)失言(しつげん)妄動(もうどう)後悔(こうくわい)し、景慕(けいぼ)尊敬(そんけい)(ねん)(ふたゝ)(しき)りに()くを(きん)ずる(あた)はざらしめた。
 立敎學校(りつけうがくかう)の一生徒(せいと)が、幾度(いくたび)監督(かんとく)注意(ちゆうい)せられたるに(かゝは)らず、二(かい)(まど)から(おもて)(たん)()いた。(ところ)()(わる)いことには、其時(そのとき)(した)監督(かんとく)(とほ)りかゝられたので、(その)(きたな)(たん)監督(かんとく)帽子(ぼうし)(うへ)()ちた。監督(かんとく)()れを(ぬぐ)ひながら、見上(みあ)げやうともせず其儘(そのまゝ)部屋(へや)這入(はい)られた。(この)生徒(せいと)校中(かうちゆう)評判(へうばん)腕白者(わんぱくもの)で、平素(へいそ)基督敎(きりすとけう)反對(はんたい)し、(その)辯論(べんろん)(たくみ)にして校中(かうちゆう)のものゝ()におへぬ人物(じんぶつ)であつたが、この(あま)りの失態(しつたい)には(たま)りかねて、監督(かんとく)(へや)(いた)(おそ)(おそ)(その)粗忽(そこつ)陳謝(ちんしや)した。 (とき)監督(かんとく)(まつた)(あづか)()らざる(もの)(ごと)く、「(ひと)(とほ)りますから()()けなさい」と、()だ一(ごん)温乎(おんこ)たる(その)(よう)屬乎(どくこ)たる(その)(げん)(さすが)腕白者(わんぱくもの)崇高(すうかう)(かん)()たれた。此事(このこと)以來(いらい)(かれ)(まつた)其人物(そのじんぶつ)が一(ぺん)し、熱心(ねつしん)忠實(ちゆうじつ)なる基督者(きりすとしや)となつた。

十四、勇敢剛毅  

 萬延(まんえん)から文久(ぶんきう)年間(ねんかん)は、()國内(こくない)攘夷(じようい)(ねつ)(もつと)激烈(げきれつ)なる(とき)であつた。頑迷(ぐわんめい)無謀(むぼう)なる攘夷派(じよういは)武士(ぶし)橫行(わうかう)し、外國人(ぐわいこくじん)敵視(てきし)して往々(わうわう)殺害(さつがい)(くは)へ、襲撃(しふげき)(はか)ること(しきり)にして、(じつ)殺伐(さつばつ)()天下(てんか)()ちみちた。當時(たうじ)長崎(ながさき)()つて、米國(べいこく)間諜(かんてふ)とまで(うたが)はれた監督(かんとく)危險(きけん)困難(こんなん)は、到底(たうてい)(いま)より想像(さうざう)するだに(およ)ばぬことであつた。文久(ぶんきう)年間(ねんかん)(おい)ては、監督(かんとく)より一(くわい)本國(ほんごく)通信(つうしん)がなかつたので、本國(ほんごく)(おい)ては、危險(きけん)()けて支那(しな)退却(たいきやく)せしものと想像(さうざう)したが、(じつ)は、(この)(ころ)()は、通信(つうしん)もできぬ(ほど)危險(きけん)困難(こんなん)(かこ)まれながら、(ひと)長崎(ながさき)()(とま)り、泰然(たいぜん)として(うご)かず、(しづか)翻譯(ほんやく)從事(じゆうじ)して、(とき)()たるを()つて()られた。當時(たうじ)長崎(ながさき)奉行(ぶぎやう)在留(ざいりう)外人(ぐわいじん)出島(でじま)移居(いきよ)せしめた。外人(ぐわいじん)(みな)(その)厚意(かうい)(しや)して轉居(てんきよ)したが、監督(かんとく)は、自分(じぶん)福音(ふくゐん)大命(たいめい)(ほう)じて()たものなれば、()安危(あんき)のため任地(にんち)を一()()(こと)(ほつ)しないと()つて、移轉(いてん)せられなかつた。奉行(ぶぎやう)監督(かんとく)風丯(ふうぼう)と、(しよく)(ちゆう)なる決心(けつしん)(せつ)しては、(また)(げん)()です、默許(もくきよ)したと()ふことである。
 監督(かんとく)或人(あるひと)(かた)つて()はるゝに、(わたし)長崎(ながさき)()つた(ころ)には、攘夷論(じよういろん)(もつと)(はげ)しい(とき)であつたから、外人(ぐわいじん)外出(ぐわいしゆつ)するには命懸(いのちがけ)であつた。()(ゆえ)()なピストルを(たづさ)へて()つたと。其時(そのとき)或人(あるひと)貴下(あなた)もピストルを携帶(けいたい)になりましたかと()ふと、監督(かんとく)(かたち)(たゞ)嚴然(げんぜん)として、(わたし)(かみ)(おそ)れますが、(ひと)(おそ)れませんと()はれた。

十五、嚴正謹直  

 條約(でうやく)改正前(かいせいぜん)までは、外國人(ぐわいこくじん)居留地(きよりうち)以外(いぐわい)()()ることは出來(でき)なかつた。(しか)(これ)表面(へうめん)規則(きそく)(じつ)病氣(びやうき)保養(ほやう)とか、學術(がくじゆつ)研究(けんきう)とかいふ(こと)で、族行(りよかう)免状(めんじやう)下附(かふ)(ねが)ひ、(みな)それそれ(ほつ)する(ところ)出掛(でか)けたものである。宣敎師(せんけうし)地方(ちはう)傅道(でんだう)出張(しゆつちやう)する(とき)も、病氣(びやうき)保養(ほやう)學術(がくじゆつ)研究(けんきう)名目(めいもく)であつた。(しか)監督(かんとく)は、(この)規定(きてい)()けて、公然(こうぜん)何處(いづこ)へも傳道(でんだう)旅行(りよかう)ができる(まで)は、()だの一(くわい)(いへど)も、所定(しよてい)地域(ちゐき)以外(いぐわい)()られたことはなかつた。()宣敎師(せんけうし)學術(がくじゆつ)研究(けんきう)病氣(びやうき)保養(ほやう)名目(めいもく)(もつ)地方(ちはう)出張(しゆつちやう)しても、監督(かんとく)のみは、政府(せいふ)默許(もくきよ)した(こと)とはいへ、この僞名目(ぎめいもく)(もち)ゆるを(こゝろよし)とせず、區域外(くゐきぐわい)には、(ぐわん)として()られなかつた。
 條約(でうやく)改正前(かいせいぜん)に、監督(かんとく)傅道(でんだう)以外(いぐわい)(こと)地方(ちはう)()かれたのは、明治(めいぢ)二十年頃(ねんころ)中仙道(なかせんだう)某地(ぼうち)()かれた一()であつた。(これ)稀有(けう)日蝕(につしよく)觀察(くわんさつ)すべく、同地(どうち)觀測上(くわんそくじやう)最好點(さいかうてん)であつたから()かれたのであつた。監督(かんとく)自然科學(しぜんくわがく)には(ふか)興味(きやうみ)()つてをられたので、純然(じゆんぜん)たる學術(がくじゆつ)研究(けんきう)のためであつた。此時(このとき)監督(かんとく)出張(しゆつちやう)(つひて)に、同地(どうち)敎會(けうくわい)()はれたるが、(めづら)しき監督(かんとく)來訪(らいはう)とて、信徒(しんと)歡喜(よろこび)一方(ひとかた)でなかつた。定住(ていぢゆう)傅道師(でんだうし)監督(かんとく)()ふて、貴下(あなた)御出張(ごしゆつちやう)になれば、地方(ちはう)信徒(しんと)(この)(とほ)(よろこ)びます、何卒(なにとぞ)以來(いらい)度々(たびたび)御出張(ごしゆつちやう)(くだ)さいと()へば、監督(かんとく)微笑(ほゝゑ)みながら(いは)く、さうですか、どうか日蝕(につしよく)をこしらへて(くだ)さい、(わたし)また(まゐ)ります。
 一牧師(ぼくし)(いは)く、「明治(めいぢ)廿九(ねん)(なつ)であつたと(おも)ふ。(ぼく)所用(しよよう)があつて江州(かうしゆう)大津(おほつ)()つた。當時(たうじ)老監督(らうかんとく)には京都(きやうと)在住(ざいぢゆう)せられ、大津(おほつ)(その)受持(うけもち)傅道地(でんだうち)であつた。(たまたま)老監督(らうかんとく)には敎務上(けうむじやう)東京(とうきやう)(おもむ)かれ、その歸途(きと)此處(こゝ)立寄(たちよ)られ聖餐式(せいさんしき)執行(しつかう)せらるゝとの(こと)で、(ぼく)久振(ひさしぶ)りにて老監督(らうかんとく)より聖奠(せいてん)()くることを(うれ)しぐ(かん)じた。監督(かんとく)東京(とうきやう)より直行列車(ちよくかうれつしや)午後(ごご)到着(たうちやく)せられたが、翌日(よくじつ)日曜日(にちえうび)琵琶湖(びはこ)全國(ぜんこく)學生(がくせい)端艇(ボート)競爭(きやうさう)があると()ふので、市中(しちゆう)旅館(りよくわん)(いづ)れも空室(くうしつ)かないと()有樣(ありさま)であつた。老監督(らうかんとく)宿(やど)主婦(しゆふ)にドンナ(ところ)でも(かま)はぬ、()(こと)さへできれば(よろ)しいと()つて、(れい)(ちい)竹行李(たけがうり)一つを(あづ)けて一晝夜(ちゆうや)汽車(きしや)旅行(りよかう)して()た七十()老人(らうじん)が、一休(ひとやす)みもせずに其儘(そのまゝ)傳道師(でんだうし)(もと)(たづ)ねられた。すると信者(しんじや)其前(そのまへ)に、明日(あす)端艇(ボート)競爭(きやうさう)見物(けんぶつ)のため、大抵(たいてい)(いへ)には來客(らいかく)もあり、自分等(じぶんら)見物(けんぶつ)したいから、聖餐(せいさん)早朝(さうてう)執行(しつかう)して頂戴(いたゞ)きたいと、相談(さうだん)(けつ)しておつたので、傅道師(でんだうし)早速(さつそく)その(こと)()べて許可(きよか)()ふた。 監督(かんとく)は、(かみ)敎會(けうくわい)(おい)(さだ)めた大切(たいせつ)なる聖典(せいてん)執行(しつかう)時間(じかん)を、遊戲事(いうぎごと)のために變更(へんかう)する(こと)はできぬから、矢張(やはり)いつもの時刻通(じこくどほ)りに皆々(みなみな)準備(じゆんび)して出席(しゆつせき)する(やう)(すゝ)めなさいと()はれて、自分(じぶん)(また)其足(そのあし)受聖餐者(じゆせいさんしや)人々(ひとびと)を一々訪問(はうもん)して、其旨(そのむね)諄々(じゆんじゆん)(さと)され、日暮(ひぐれ)(おそ)旅館(りよくわん)(かへ)られ、(へや)がないとて下女部屋(げぢよべや)のやうな(ちい)さな(きた)ない(へや)をあてがはれて、(がう)不足(ふそく)らしい(かほ)もせずに、いそいそと明朝(みやうてう)聖用(せいよう)のパンを()づから調製(てうせい)して()られた」。
 一(しう)()づゝ洗禮(せんれい)準備(じゆんび)のために、監督(かんとく)居室(ゐま)(きた)りし或人(あるひと)が、一(にち)()められた時間(じかん)よりは(やく)(ぷん)ほど(おく)れしに、監督(かんとく)不機嫌(ふきげん)にて、今日(こんにち)出來(でき)ませんと(ことは)られた。それでは來週(らいしう)時頃(じころ)(まゐ)ります、といふて室外(しつぐわい)()でしに、監督(かんとく)()()めて(いは)く、貴下(あなた)(ごろ)はいけません、丁度(ちやうど)()よろしいです。
 神學校(しんがくかう)生徒(せいと)にして、()敎會(けうくわい)役員(やくゐん)(つと)めた某氏(ぼうし)が、一()敎會(けうくわい)役員會(やくゐんくわい)(れつ)して、門限(もんげん)時刻(じこく)(おく)れて歸校(きかう)した。翌朝(よくてう)監督(かんとく)某氏(ぼうし)()詰問(きつもん)されたので、(かれ)充分(じゆうぶん)なる辯解(べんかい)として、敎會(けうくわい)役員會(やくゐんくわい)(れつ)し、要務(えうむ)のために遲刻(ちこく)しましたと臆面(おくめん)なく(こた)へた。すると監督(かんとく)(おごそか)に、學生(がくせい)校則(かうそく)(まも)ることが大事(だいじ)である。()(これ)(さまたげ)とならば役員(やくゐん)()すべしど()はれた。
 監督(かんとく)は、一(にん)にて(けつ)して婦人(ふじん)訪問(はうもん)されなかつた。(かなら)同伴者(どうはんしや)()れるか、()同伴者(どうはんしや)()いときは門前(もんぜん)にて立談(たちばなし)して(わか)れた。大阪(おほさか)()つた(ころ)、ブール女史(ぢよし)折々(をりをり)要事(えうじ)(ため)()はれたが、(つね)にラニング()(とも)(きた)り、(また)(にん)(とき)(いへ)()らす、玄關(げんくわん)立談(りつだん)せられた。或人(あるひと)(その)理由(りいう)()ひしに、ブールさんは御孃(おじよう)さん(老孃(らうじよう)(わたし)はムスコであるからと(こた)へられた。()嚴正(げんせい)なりしことは、此事(このこと)でも察知(さつち)せらるゝのである。

十六、威風温容  

 ()學者(がくしや)品性(ひんせい)を二(だい)種類(しゆるゐ)區分(くぶん)し、一は畏敬(ゐけい)(もよほ)すもの、()(あい)(うなが)すものとし、前者(ぜんしや)偉大(ゐだい)崇高(すうかう)(もつ)()特色(とくしよく)とし、後者(こうしや)優美(いうび)(もつ)(その)長所(ちやうしよ)となすと()つたが、監督(かんとく)品性(ひんせい)()の二(しゆ)(もつと)(うるは)しく調和(てうわ)したものであつた。()容貌(ようぼう)には何處(どこ)となく、(をか)()からざる威嚴(ゐげん)があつて、(その)(まへ)()づれぱ何人(なんびと)肅然(しゆくぜん)(えり)(たゞ)した。とはいへ窮屈(きゆうくつ)にして(したし)(にく)(かん)(あた)へるやうなことはなかつた。()には子供(こども)(おく)せず()(したし)み、(たれ)遠慮(えんりよ)なく胸中(きようちゆう)祕密(ひみつ)打明(うちあ)けることができた。()藹然(あいぜん)たる厚情(かうじやう)(わたくし)なき(あい)温容(をんよう)表現(あらは)れて、(ひと)をして愛着(あいちやく)(じやう)(おこ)さしめたからである。
 有名(いうめい)なる漢學者(かんがくしや)が、()學校(がくかう)生徒(せいと)に、史記(しき)列傅(れつでん)君子(くんし)盛德(せいとく)容貌(ようぼう)如愚(ぐなるがごとし)()()講義(かうぎ)するに(さい)()(ごと)(かた)つた。「(われ)(かつ)築地(つきぢ)耶蘇(やそ)學校(がくかう)()りしウイリアムスと()宣敎師(せんけうし)(たづ)ねた。當時(たうじ)自分(じぶん)(しばし)西洋人(せいやうじん)(くわい)し、孔孟(こうもう)(みち)()き、耶蘇敎(やそけう)攻撃(こうげき)し、(おほい)破邪(はじや)顯正(けんせい)議論(ぎろん)をやつたものである。()れで今日(けふ)こそは(おほい)(かれ)説破(せつば)してやらんと(おも)ふて、傲然(がうぜん)としてやつて()つた。(しか)るに一度(ひとたび)()西洋人(せいやうじん)對座(たいざ)するや、(かれ)の一(けん)()なるが(ごと)く、(しか)神々(かうがう)しき溶姿(ようし)(せつ)し、(その)敬虔(けいけん)敦厚(とんかう)言辭(げんじ)(もつ)て、貴下(あなた)神樣(かみさま)(しん)じなさい、(なに)もかも()了解(わかつ)(まゐ)りますと()はれたには、(れい)(ごと)滔々(とうとう)議論(ぎろん)する(こと)もできず、おめおめと引退(ひきさが)つた(こと)があつた。これ畢竟(ひつきやう)其人物(そのじんぶつ)(ちから)にして、高德(かうとく)優雅(いうが)態度(たいど)は、(われ)威壓(ゐあつ)して()はんとしても()(あた)はざらしめたのであらう。君子(くんし)(とく)には(やう)東西(とうざい)はない、司馬遷(しばせん)(しん)(ひと)(あざむ)かすと()ふべきである」と。
 聖公會(せいこうくわい)古老(ころう)の一長老(ちやうらう)は、監督(かんとく)秀姿(しうし)淸容(せいよう)(つい)(かた)つて(いは)く、「(かつ)築地(つきぢ)新榮敎會(しんさかえけうくわい)(おい)て、聖書(せいしよ)全部(ぜんぶ)日本譯(にほんやく)完成(くわんせい)した感謝(かんしや)(くわい)(ひら)かれた(とき)()(いつ)()たが、會衆中(くわいしゆうちゆう)(ひと)()風貌(ふうぼう)異彩(いさい)(はな)つと()(へう)(おこ)ると、()(そば)()た一致敎會(ちけうくわい)(ぼう)老實業家(らうじつげふか)が、アー群雀(ぐんじやく)(ちゆう)白鶴(はくかく)だ、偉品性(ゐひんせい)だアノ品性(ひんせい)があれば(くち)(ひら)かれずとも雄辯(いうべん)だ、基督敎(きりすとけう)説敎(せつけう)()(ひとり)一で()()られると、()(しか)りと默頭(うなづ)いた。其後(そのご)比企郡(ひきごほり)寄居(よりゐ)(まち)巡回(じゆんくわい)せられた(とき)()先發(せんぱつ)寄居(よりゐ)にて待合(まちあは)(こと)となつて同所(どうしよ)(ちやく)し二三の信徒(しんと)(つど)(きた)りたれば()(むか)へがてら、近郊(きんかう)散策(さんさく)荒川(あらかは)渡船場(とせんば)()ると、渡守(わたしもり)老爺(らうや)は、(いま)此處(こゝ)神樣(かみさま)のやうな御方(おかた)(とほ)りました、と()つたので一(どう)はそら監督(かんとく)さんが御着(おつき)だと(かい)して、族舍(りよしや)(むかつ)()(はや)めた」。
 現今(げんこん)築地(つきぢ)聖路加(せるか)病院(びやうゐん)のある()に、(むかし)(せい)三一神學校(しんがくかう)立敎(りつけう)學校(がくかう)の三(がい)煉瓦石(れんぐわせき)建築物(けんちくぶつ)があつた。築地(つきぢ)(せい)三一敎會(けうくわい)は、大會堂(だいくわいだう)建設(けんせつ)せらるゝまでは、()立敎(りつけう)學校(がくかう)敎室(けうしつ)の一()使用(しよう)し、主日(しゆにち)其他(そのた)禮拜(れいはい)執行(しつかう)した。監督(かんとく)(がい)敎會(けうくわい)牧師(ぼくし)として、(つね)長老(ちやうらう)禮服(れいふく)(ちやく)して、禮拜(れいはい)(つかさど)られた。 粗造(そぞう)聖卓(せいたく)敎壇(けうだん)(ほか)は、(なん)設備(せつび)裝飾(さうしよく)もない(この)敎室(けうしつ)代用(だいよう)敎會(けうくわい)も、其處(そこ)監督(かんとく)が、崇高(すうかう)なる容姿(ようし)敬虔(けいけん)態度(たいど)(もつ)て、禮拜(れいはい)説敎(せつけう)せらるゝ(とき)は、莊嚴(そうごん)なる堂宇(だうう)(うち)にある(ごと)(かん)(あた)へたることは、當時(たうじ)()(もの)(ふか)(こゝろ)(めい)ずる(ところ)である。其頃(そのころ)(こと)()主日(しゆにち)に一老媼(らうをう)(きた)りしが、敎壇(けうだん)()たれた()の、温容(おんよう)如何(いか)にも威嚴(ゐげん)(そな)へたる神々(かうかう)しき風姿(ふうし)()て、(しき)合掌(がつしよう)禮拜(れいはい)したさうである。
 千八百六十一(ねん)文久元年(ぶんきうぐわんねん))七(ぐわつ)()日記(につき)(やうや)保存(ほぞん)するを()たる()日記(につき)斷片(だんぺん)(ちゆう)に、()(しる)して(いは)く、一向宗(かうしう)(ぞく)する一僧侶(そうりよ)來訪(らいはう)()く、()(かれ)肉慾(にくよく)(ふけ)りて、(さら)良心(りやうしん)制裁(せいさい)(かへり)みざる人々(ひとびと)行爲(かうゐ)(くわん)して(ろん)じ、()圍繞(ゐねう)する人々(ひとびと)(ごと)生涯(しやうがい)(ほつ)せざる()理由(りいう)()べたるに、(かれ)(なんぢ)(たゞし)(ひと)なりと()ひつゝ、(あだか)(かみ)(はい)する(ごと)く、合掌(がつしよう)して()禮拜(れいはい)せり。()(もと)より(かみ)禮拜(れいはい)すべしと(こた)へたりきと。これ()()人格(じんかく)(ちから)にして、(その)崇高(すうかう)温雅(をんが)態度(たいど)は、(ひと)威壓(ゐあつ)したものである。
 監督(かんとく)(しよく)()した(のち)()歸國(きこく)せられた(ころ)、三一大會堂(だいくわいだう)牧師(ぼくし)が、療養(れうやう)のため伊豆(いづ)某地(ぼうち)()つたが、監督(かんとく)のコツクであつた(ぼう)も、同時(どうじ)同所(どうしよ)滯在(たいざい)した。(ある)早朝(さうてう)(ぼう)牧師(ぼくし)(もと)()て、いかにも心配(しんぱい)(たま)らぬといふ樣子(やうす)で、どうか(わたし)(ため)(いの)つて(くだ)さいといふ。仔細(しさい)()へば、(ぼう)()ふに、(わたし)多年(たねん)監督(かんとく)さんの恩顧(おんこ)(かうむ)りながら、いつも不平(ふへい)不足(ふそく)ばかり()つて、あのキリスト(さま)のやうな(きよ)いお(かた)の、思召(おぼしめし)(そむ)いた(こと)(しばしば)でありました。昨夜(さくや)監督(かんとく)さんの人格(じんかく)(たか)(きよ)(こと)染々(しみじみ)(おも)ふと、あの神々(かうがう)しい御姿(おすがた)眼前(がんぜん)(うか)(きた)り、良心(りやうしん)()めて終夜(しゆふや)(ねむ)(こと)ができませんでした。それ(ゆゑ)に、(わたし)罪過(ざいくわ)(ゆる)さるゝやう、(いの)つて(いたゞ)きたいと(おも)ひまして、かく早朝(さうてう)(まゐ)りました次第(しだい)ですと、懺悔(ざんげ)感恩(かんをん)(なみだ)(むせ)んださうである。
 監督(かんとく)非常(ひじやう)子供(こども)(あい)せられた。また子供(こども)愛慕(あいぼ)せられた。(みち)()(とき)子供(こども)(あそ)んで()ると、(ちか)よつて金米糖(こんぺいとう)の二三(りふ)(あた)へ、(その)(かうべ)()笑顏(わらひがほ)()せて()かれた。訪問(はうもん)せらるゝ(とき)は、監督(かんとく)さんがお(いで)よと、()子供(こども)歡迎(くわんげい)せられた。監督(かんとく)子供(こども)(ひざ)()()げ、接吻(せつぷん)せんばかりに撫愛(ぶあい)し、時計(とけい)(いだ)して()せたり、覺束(おぼつか)ない日本語(にほんご)交換(かうくわん)したりして、此上(このうへ)なき(なぐさ)めとせられた。時々(ときどき)(まち)(ある)いて()ると、ツト菓子屋(くわしや)這入(はい)つて金米糖(こんぺいとう)仕入(しい)れられた。店員(てんゐん)美髯(びせん)西洋人(せいやうじん)(かな)らず多額(たがく)買物(かいもの)をなすならんと(むか)ふれば、(なん)(はか)らん、大枚(だいまへ)(せん)銅貨(どうくわ)()(いだ)されんとは。
 (ぼう)聖職(せいしよく)英國(えいこく)滯在(たいざい)(ちゆう)、一(にち)倫敦(ロンドン)某公園(ぼうこうゑん)にて、(はか)らず一(にん)英國(えいこく)婦人(ふじん)()()められ、ウィリアムス監督(かんとく)安否(あんぴ)()はれた。(この)婦人(ふじん)(かつ)良人(をつと)(とも)東京(とうきやう)(ぢゆう)したりといふ。其頃(そのころ)監督(かんとく)(しばし)同家(どうけ)()はれたるが、二人(ふたり)(あひだ)()きた當時(たうじ)まだ(おさ)なき小兒(せうに)を、監督(かんとく)寵愛(てうあい)訪問(はうもん)(たび)に、(その)()(かうべ)()して、()()將來(しやうらい)聖職(せいしよく)になれよと(かた)(きか)したさうである。()婦人(ふじん)(かた)つて(いは)く、監督(かんとく)高風(かうふう)淸姿(せいし)(その)()とは、()()(おさ)(ごゝろ)(ふか)印刻(いんこく)せられて、成長(せいちやう)(のち)(わす)れざりしが、(さひはい)(いま)聖職(せいしよく)(つらな)りて、()聖業(せいげふ)(ゆだ)ねつゝありと。

十七、諧謔滑稽  

 監督(かんとく)何時(いつ)何處(いづこ)にても、(つね)眞面目(まじめ)(くさ)つて、宗敎(しうけう)道德(だうとく)(はなし)ばかりして、()(ひと)をして窮屈(きゆうくつ)(かん)(おこ)させるやうな、世事(せじ)(うと)人情(にんじやう)(かい)せぬ偏屈人(へんくつじん)ではなかつた。(とき)には意外(いぐわい)諧謔(かいぎやく)無邪氣(むじやき)なる滑稽(こつけい)(ろう)して、破顏(はがん)哄笑(こせふ)(きん)ずる(あた)はざらしめた。
 現今(げんこん)日本(にほん)聖公會(せいこうくわい)先輩(せんぱい)(あふ)がるゝ諸氏(しよし)が、まだ神學生(しんがくせい)時代(じだい)(こと)であつた。寄宿舍内(きしゆくしやない)に、鼠群(そぐん)(おほい)跋扈(ばつこ)して橫暴(わうぼう)(きは)め、未來(みらい)牧師(ぼくし)諸氏(しよし)本城(ほんじやう)(おか)し、侵害(しんがい)掠奪(りやくだつ)(くは)ふること(しきり)なりければ、諸氏(しよし)攻守(こうしゆ)同盟(どうめい)して、(おほい)征討(せいたう)(さく)(かう)せざるを()ざるに(いた)つた。(こゝ)(おい)て一(にち)參謀(さんぼう)會議(くわいぎ)(ひら)かれ、作戰(さくせん)計畫(けいくわく)(こら)されたるが、(とき)某氏(ぼうし)(さく)(あん)じて(いは)く、(われ)()白鼠(しろねづみ)(はな)たば群鼠(ぐんそ)退去(たいきよ)すと、()(これ)(こゝろ)みたまへと、監督(かんとく)上申(じやうしん)した。監督(かんとく)微笑(びせふ)しつゝ、(しか)るか、さらば(こゝろ)みんと()はれたれば、衆議(しゆうぎ)こに一(けつ)して(さん)した。翌日(よくじつ)監督(かんとく)(ひそか)にコツクに、(ねずみ)(ぴき)生捕(いけど)るべく(めい)ぜられた。コツクは(あやし)みながら()々として(めい)(ほう)じ、(にはか)庖厨(くりや)探索(たんさく)して一()()(これ)持參(じさん)せしに、監督(かんとく)(さら)(めい)じて、全身(ぜんしん)胡粉(ごふん)()らしめ(これ)寄宿舍(きしゆくしや)(ない)(はな)たしめた。()(くる)ひたる(ねづみ)は、四(はう)(ぱう)をかけ(まは)り、(つひ)白鼠(はくそ)(さく)提出者(ていしゆつしや)室内(しつない)亂入(らんにふ)書籍(しよせき)器具(きぐ)(およ)衣服(いふく)(いた)るまで、(およ)(かれ)()るゝものに(ことごと)胡粉(ごふん)擦附(すりつ)け、()へば盆々(ますます)(くる)ひ、(くる)へば愈々(いよいよ)その亂暴(らんぼう)狼藉(らうぜき)(たくまし)くするに、流石(さすが)白鼠(はくそ)(さく)提出者(ていしゆつしや)も、()新案(しんあん)白鼠(しろねづみ)には僻易(へきいき)して、味方(みかた)援軍(えんぐん)(しき)りに(さけ)びければ、(こゑ)()()()(さん)じたる同士(どうし)面々(めんめん)も、この爲體(ていたらく)()抱腹(はうふく)絶倒(ぜつたう)したといふ。
 また此頃(このころ)(こと)()五六(めい)學生(がくせい)、一(しつ)集合(しふがふ)し、各々(おのおの)得意(とくい)(べん)(ふる)つて、神學(しんがく)(かう)時事(じじ)(ろん)じ、古今(ここん)人物(じんぶつ)(へう)する(とう)(さな)んに談論(だんろん)(はな)()かせ、深更(しんかう)(いた)るも()()景色(けしき)はなかつた。隣室(りんしつ)()されたる監督(かんとく)は、(さだ)めて安眠(あんみん)(さまた)げられたであらう。いつか()()でゝスリツパの(おと)靜々(しづしづ)と、學生(がくせい)(へや)にやつて()られた。ソレ監督(かんとく)()たぞと、學生(がくせい)は一()(しづ)まりかへつて、各々(おのおの)室隅(しつぐう)蹲踞(うづくま)呼吸(いき)(こら)して()つた。監督(かんとく)()(たゝ)御免(ごめん)なさいといふ。(たれ)沈默(ちんもく)して(こた)ふる(もの)がない。此時(このとき)某氏(ぼうし)生憎(あいにく)感冒(かぜ)にて(しき)りに咳嗽(せき)をせられたので、監督(かんとく)某氏(ぼうし)()()んで、御免(ごめん)なさいといふ。名指(なざし)された某氏(ぼうし)は、ハイと(よんどころ)なき返事(へんじ)をした。監督(かんとく)は、貴下(あなた)(たい)そう咳嗽(せき)()ます、これを(あが)つて(はや)くお(やす)みなさいと、(なに)やら()れた(うつは)()いて()られた。學生(がくせい)(すみ)(はう)から、()()つて(おな)じやうに、甚麼(どんな)御馳走(ごちさう)だらうと、(うつは)()ると、バタに砂糖(さたう)がふりかけてあつた。一(どう)(かほ)見合(みあは)せて唖然(あぜん)、これで談論(だんろん)中止(ちゆうし)となつて、一(どう)ソコソコ各自(かくじ)(へや)(さん)(かへ)つた。
 監督(かんとく)司式(ししき)結婚(けつこん)した新夫婦(しんふうふ)が、歸省(きせい)するので(いとま)(ごひ)()つた。其時(そのとき)(ぼう)妙齡(めうれい)(いもをと)同伴(どうはん)したるが、餘談(よだん)()つてから監督(かんとく)は、やがて(また)結婚式(けつこんしき)がありますと眞面目(まじめ)くさつて(はな)()した。(ぼう)(それ)結構(けつかう)です何誰(どなた)ですかと(たづ)ぬれば監督(かんとく)(そば)()した(いもをと)(ゆびさ)して、此方(このかた)ですと()つて哄笑(こせふ)せられた。

十八、雀を養ふ  

 (むかし)(せい)フランシスが、歡喜(くわんき)()ちて(みち)(すゝ)(とき)行手(ゆくて)(とり)(むれ)()たので、(みち)(てん)じて()れを()けしに彼等(かれら)()()らざるのみならず、(あだか)(かれ)歡迎(くわんげい)するが(ごと)く、(かれ)周圍(しゆうゐ)(むら)がり()たので、フランシスは彼等(かれら)(むか)つて、兄弟(けうだい)(どり)よと()び、(ひと)()ふごとく(かみ)(めぐみ)愛護(あいご)(かた)りたるに、(とり)()(くび)()(その)(つばさ)(ひろ)げ、(その)(くちばし)(ひら)き、(あだか)(かれ)(しや)するが(ごと)(かれ)見詰(みつ)めしが、()()げて祝福(しゆくふく)(あた)ふるに(いた)つて()()れりと()ひ、()駒鳥(こまどり)の一眷族(けんぞく)賓客(ひんかく)(ごと)(ぐう)せられ、 雛鳥(ひなどり)食卓(しよくたく)往來(わうらい)して卓上(たくじやう)食物(しよくもつ)(つひば)みたりと()ひ、一小兎(こうさぎ)(とら)へてフランシスに(たづさ)(きた)るものあるや、(かれ)(きた)兄弟(けうだい)小兎(こうさぎ)()び、さも(いと)しげに(これ)()で、(やが)地上(ちじやう)()きて()らしめんとすれば、(うさぎ)幾度(いくたび)(かれ)(かへ)(きた)りたれば、(つひ)(みづか)(これ)近隣(きんりん)(もり)(たづさ)()きて(はな)()れりと()ふ。 是等(これら)(こと)(はなは)()なる(ごと)くであるが、(また)(かなら)ずしも其事(そのこと)()しと()ふべからず。(その)(あい)禽獸(きんじゆう)(およ)べる(もの)は、(また)禽獸(きんじゆう)愛慕(いぼ)せらるゝは(むし)當然(たうぜん)なりと()ふべきである。動物(どうぶつ)(たい)する同情(どうじやう)(はなは)(ふか)かつた監督(かんとく)(つい)ても、(これ)酷似()たる事實(じじつ)があつた。京都(きやうと)烏丸(からすまる)(ぢゆう)した(ころ)毎朝(まいあさ)澤山(たくさん)(すゞめ)()書齋(しよさい)(まど)ガラスを()つて()きさゞめき、監督(かんとく)()合圖(あひづ)をした。(まど)(あか)つてをると(すゞめ)は、(おく)せず室内(しつない)()り、遠慮(えんりよ)なく卓上(たくじやう)往來(わうらい)した。(のち)には監督(かんとく)掌上(しようじやう)のものを(あらそ)(つひば)むやうになつた。 (これ)監督(かんとく)平素(へいそ)毎朝(まいあさ)、パン(くづ)(めし)殘物(ざんぶつ)(すゞめ)(あた)へ、彼等(かれら)(ふか)(あい)彼等(かれら)(やしな)ふを(たのしみ)とせられたからであつた。監督(かんとく)歸國(きこく)された翌日(よくじつ)(あさ)(すゞめ)(あま)騷々(さうざう)しいので何事(なにごと)ならんとコツクが()つて()れば、(おほ)くの(すゞめ)(まど)ガラスを()がけて、()びついては()()いては()びついてをつたそうである。(せい)フランシスの(うるは)しき物語(ものがたり)(おも)(しの)ばるゝ、(まこと)詩趣(ししゆ)ある事實(じじつ)である。

十九、寫眞と肖像畫  

 監督(かんとく)明治(めいぢ)二十(ねん)日本(にほん)聖公會(せいこうくわい)(だい)總會(そうくわい)(さい)大勢(おほぜい)(ひと)(とも)紀念(きねん)撮影(さつえい)せられた(ほか)には、我國(わがくに)在留(ざいりう)(あひだ)()もレンズの(まへ)()たれた(こと)はなかつた。自分(じぶん)吹聽(ふいちやう)することが大嫌(だいきらひ)であつた監督(かんとく)は、何時(いつ)でも寫眞(しやしん)()るやうな場合(ばあひ)になると、屹度(きつと)姿(すがた)(かく)撮影(さつえい)()けられた。監督(かんとく)敬慕(けいぼ)する人士(じんし)は、幾度(いくたび)紀念(きねん)として寫眞(しやしん)懇請(こんせい)したが、一(かう)聽許(きゝいれ)なかつた。()(とき)京都(きやうと)監督(かんとく)某氏(ぼうし)立談(たちばなし)して()(ところ)を、パットンといふ宣敎師(せんけうし)がコツソリ寫眞(うつ)したことが、(あと)露顯(ろけん)し、監督(かんとく)(おほい)(いかり)(たゞち)(その)種板(たねいた)破毀(はき)すべしと(めい)じたさうである。
 監督(かんとく)寫眞(しやしん)到底(たうてい)()(こと)ができぬので、洋畫(やうぐわ)素養(そやう)ある(ぼう)長老(ちやうらう)は、(ひそ)かに監督(かんとく)肖像畫(せうぞうぐわ)(こゝろ)みんと(けつ)し、朝夕(てうせき)監督(かんとく)面接(めんせつ)し、仔細(しさい)容貌(ようぼう)研究(けんきう)し、容美(ようび)發現(はつげん)苦心(くしん)し、多數(たすう)日子(につし)精力(せいりよく)傾盡(けいじん)して、一の肖像畫(せうぞうぐわ)作製(さくせい)した。()(すなは)()(いま)祕藏(ひざう)せらるゝ油繪(あぶらゑ)にて、監督(かんとく)面影(おもかげ)(つた)ふる(うへ)(おい)て、總會(そうくわい)紀念(きねん)撮影(さつえい)のものにまさるとの(へう)あるものである。


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