監督は一身に衆德を集められたと云ふも敢て過言ではあるまい。其敬虔、其忠誠、其克己、其忍耐、其勇敢、其温柔、其慈愛、其確信、歴然として印象を吾人に銘刻し、師を知る者をして終生忘れんとして、忘る能はざらしめた。然れども、師は自ら謙虚卑下して、苟にも稱譽讃美の目標となるを避け、其善行功績の知らるゝを厭はれた。師は街頭に聲を發せず、講壇に卓見を吐露せず、文筆に蘊蓄を披瀝せず、常に隱れて善を行ひ、常に默して人を敎へ、其言行の知らるゝを恐るゝは、其言行の知られむを求むる人よりも甚しかつた。是れ全く師が己を基督の裡に沒し、一切の榮譽と功績を主に歸せんとの、終始一貫の忠誠自ら之を致したのである。されば五十年の長き傳道の生涯も、一見何等の異觀なく、何等の奇拔なく、何等の演劇的のものはなかった。とはいへ、師を自然界に譬れば、恰も涓々たる淸流の、急轉直下飛躍奔流の壯觀なく、轟々の大鳴鼕々の鼓聲はないが、靜に田園に灌漑し、嘉禾を養ひ靈苗を育て、其往く處に花咲き穀稔らしめ、或は粉挽く老爺の爲に隱れて水車を轉し、疲れたる道者の渇せる咽を濕し、或は白屋の蔭に賤女の衣を淸め、茅門の前に無邪氣なる小兒を優遊せしむる如き趣があった。然り淸流盡きざる生命の源泉より靜に、晝夜わかたず流れ出でたる高風聖德は、師に敎へられ師に接せし多くの心靈を靈活し聖化した。而してまた師の裡に、絶へず炎へ續きたる愛と犧牲の焔が傳ふる聖感は、幾多信仰の子女が胸裡に炎へて、陽に陰に神國建設に貢献せしめつゝある。斯の如くして師は、永遠の嗣業を公會に遺し、其德化また窮まる所がないであらう。
「それ掩れて露れさる者なく、隱れて知れざる者はなし」。況んや一度基督に依て點火されたる燈は、よしや斗の下にありとも、何ぞ光を發たざらんや。師逝きしより春秋去來早くも三たび、終生己を抹殺したる師の尊骸は、草葉の下に隱るゝとも、其高德偉績は隱れんとして、永久に隱るゝことは出來ぬ。師の崇高なる人格は、生前にすら早くも既に世に知られ、築地の隱君子を以て稱せられた。師の訃音傳はるや、敎界の諸雜誌を初め、都市の新聞紙に至るまで、其逝去を悼みて吊意を表し、或は肖像を載せ其人格を紹介した。師は師の最愛の主の如く、人に知られざらん事を欲しが隱れ得なかつた。師は恰も嚴冬の霜雪を經たる梅花の如く、其淸姿暗夜に包まれても、其芳香や猶ほ四隣に薰したのである。さあれ吾人は、師の淸姿芳香が永久に、我が日本聖公會の榮光且つ無上の生命となれることを感謝せねばならぬ。
監督は、殆んど全生涯、禁慾に近い儉勤克己の生活をせられた。師は、常人の爲し能はぬ克己をなし、吝嗇とも見へたほどに儉勤をせられた。然し、其克己儉勤の生活は、師が戒律として守り、主義として操られたのではなかつた。師が且暮只管の願望は、枕する處なかりし救主の御跡を踏み、其聖意を悅ばせ奉ることであつた。師は、專心一意全力を之に傾注し、世の毀譽褒貶の如きは、毫も顧なかつたのと、且つ主を愛する赤誠、主に事へまつる喜悅内に充ち足り、外、肉の快樂安慰に待つところ寡かりし爲であった、故に、師は、淸貧生活に安んじられた、否な安んじたと云ふよりは、寧ろ之を愛し樂んだと云ふが適當であらう。
凡そ克己といひ、儉勤といへば、何處にか慘憺たる惡戰苦鬪の状が、仄の見ゆるものであるが、監督に於ては、聊かも之を見ることが出來なかった。反つて、我等の爲に貧しくなりし人の子の、胸懷に宿りし天上の歡喜は、同じ淸貧生活に於て、最も善く味ひ知りしものゝ如く、師の顏には、常に歡喜の光が輝いて居つた。
監督はまた、日本の傳道に於ては、全然西洋人たる自己を沒了し、凡ての事は日本敎役者を標準とし、日本敎役者の如く生活し、自ら其模範を示して、神の前に淸く日本に於ける傳道的生涯を全ふせんことを期せられた。師は之が爲に日本敎役者と共に、日本家屋に住し、一切洋食を廢して日本食のみを取らるゝまでに至つた。師が終生粗衣粗食に甘んじたのも、酷暑嚴冬の候も、未だ曾て一回も轉地休養を取らざりしことも、外人の友多き地に到るも、却て枯魚粗菜の饗應を日本敎友の宅に樂まれた如きも、皆な此精神より出でしに外ならぬのである。斯の如くして、活くるも死ぬるも主の爲めと信ずる師は、基督の榮光のために、淸貧生活に甘んぜられた、否な寧ろ之を愛し樂まれたのであつた。
監督の衣服は極めて質素で、一年中同一の黑羅紗の制服を纏ひ、破帽弊履すこしも邊幅を飾らないところ、宛然古聖の遺風があつた。監督在職中は、春夏秋冬同一の黑衣を着て居られたが、それも裏返し、繕縫、補綴の手の懸つたものであった。監督職を退いてからは、縞服を着けられたが、時には上衣と袴とは似つかぬ服を着て居られた。之は古洋服屋を漁り回りて、恰好のものを購ひ、或はそれを染め更え、仕立直して用ひられたのであつた。一日某夫人が、監督の外套が餘りに古びたるを見、窃かに、「監督さん、失禮ですが、外套を裏返へされては、如何です」と云ふと、監督は微笑して曰く、「裏返して以來八年經ちました」。
或時、神戸から東京に歸らるゝ時、橫濱まで米國船に乘つた事があつたが、其船の船長は、昔し監督が支那に赴任さるゝ時の、便船の乘組員であつたので、思ひがけなき再會に、互に驚かれたそうである。其時船長は、四方山の話の末に、監督の容姿を見て、
「監督よ、失敬ながら貴下の服は古びたれば、裏返へしたら經濟ならん」と、さも發明らしく敎へた。監督曰く、「然り、君の云はるゝ如く、此の通り裏かへしが、更に又素地に裏歸りしなり」と云つて、互に顏見合せて笑はれたそうである。
京都三本木に、日本敎役者と共に住した頃、一日下婢が、いかにも得意らしい顏をして手に雜誌を持ち敎役者の部屋に來て、「旦那さん此は家の先生でせう」と雜誌を見せた。見ると、雜誌太陽で監督とフルベツキ、ヘボン三氏の寫眞板が載つて、監督の小傳が記載れてある。「此は家の先生だ、お前は何處から之を持つて來たか。」
下婢は愈々得意顏、「旦那さん、斯うなんです聽いて下さい、私がいつも裏に洗濯に行くと、近所の奧さんや下女さんが、お前の所の西洋人ね、彼は乞食だらうと云ふのです。どうしまして、彼のお方は大さう偉い人ですと申せば、何が偉い?あの容姿をご覽な、恰で乞食よ、なんて云はるゝので、私は口惜くて口惜くて堪りませんでした。ですが旦那さん、私は嬉しかつたです。今ま裏に行くと、近所の人等が寄り集つて、太陽を讀んで家の先生に感心し、いかにも偉いお方だ、かうとは知らずいま迄、惡口ばかり云つて濟まなかつたと、私に謝るのです。それ見た事か、如何です偉いでせうと云つて遣りました。家の先生は偉い、これで私も胸がスーとしました」と平素の鬱憤こゝに晴れて、下婢は大得意であつた。
監督が、曾て丹後の宮津に傅道に行かれた歸途、汽船に乘らうとして、待合所に入ると、事務員は、破衣弊靴、破れ提鞄を携へた老監督を、乞食異人と見て、「オイオイ其處に坐つてはいかん、アツチに行つて待つてろ」と叱つた。監督は叱らるゝまゝに、ハイハイと頭を下げて隅の方に、小さくなつて居られた。ところへ土地の牧師や有志家達が、見送りに來られ、下にも置かぬ待遇に、先の事務員は、餘りの事に唯だ啞然として居つたが、後で、事の由を聞いて、甚く恐れ入つたそうである。
日常の食事も極めて質素であつた。重に菜食をなされ、馬齡薯、胡蘿蔔のスチウの如きは、尤もよく食卓に上るのであつた。一週たつた一度、日曜日の晝食は、監督にとつては御馳走で、夫とてもビステキ位であつた。食事には無頓着にて、料理に就ては一言も呟きしことはなかつたそうである。一日食事の時に、此日に限り料理を食せず、其儘で去られた事があつた。料理人は、自分の料理がお氣に召さぬのであらうかと案じて、お下りを頂戴し甞味てみると、此は大失策、不味ので食へぬ。全く料理の爲損であった。彼は早速監督にお詫に出ると、監督は少しも不快の樣子なく、「謝ること要りません、私あの料理好きませんから、食べませんでした」、と温和く言はれたので、彼はいよいよ恐縮したといふ事である。
庖厨の道具といつても、それは簡單のものであつた。僅かにイギリス鍋一ツ、混爐一ツ、皿十二枚、スープ皿十二枚、之等に附屬した食器と、日常用の器の外はなかった。或日の事來客があつて監督とも十三人前の、食事を仕度することとなつた。主客とも十三人では、器具が一人前不足であつたから、「監督さん、何處ぞから一人前借りて來ませうか」と問ふと、
「他家から借るのはいけません」と云はるゝ、「それでは什麼しませうか」、監督は暫し考へて居られたが、一計を案んじた。「善い事あります。私を一番最後になさい、それで足ります」。そこで十二を以て十三にあて、俺は目の回る程忙しかつたとは、當時師に仕へた人の懷舊談の一節である。
監督は、敎友や靑年など招いて、屢ば馳走をされた。地方から敎役者が出て來ると、屹度一度は食事に招ばれた。而して平素の生活と違つて、相當の馳走をなし、無邪氣なる珍談笑話を以て、食卓を賑はされた。而して食卓上に、たとへ眞面目な宗敎道德の話が、少しも無かつたにせよ、監督の客となつた者は、言ひ知れぬ靈趣を味つて、來た時にない新しい感を懷いて歸つた。
東京から京都に轉じ、同市三本木、舊井筒屋と稱せし割烹店跡の一部を、借り住してから、敎役者と同居し、全然日本人と同樣なる生活をなし、一切洋食を廢して、同居の敎役者家族と卓を圍んで、日本食のみを食された。之が爲めか、監督の身體は甚しく衰弱し、且つ痼疾の脱腸に惱まれたので、醫士は切りに洋食に回復するやう勸められたるが、監督は容易に勸告に從はなかつた。同居の敎役者は、醫士の勸告を聽き、監督の健康を氣遣ひ、其後は、監督の膳部には洋食を供する事にした。然し監督はそれには箸も觸れず、何時も敎役者家族のとらるゝ食のみせらるゝので、一日敎役者は改つて忠告した。監督曰く、「いま三日待てよ、三日經てば百日になる。」それから三日過ぎて漸く洋食に回復した。かうと決したら頑として動かぬ監督も、身體の衰弱と他人の切なる勸告に、餘儀なくも百日間洋食斷をした後、日本食を廢された。
監督は、晩年に至り京都烏丸に、粗造なる住宅を建つる迄は、自己のために一軒の家も建てられなかつた。時には學生と共に寄宿舍の一偶に起居し、時には神學校に假居し、時には狹ま苦しき會堂の片偶に棲居せられた。室には敷物もなく、窓掛けもなく、机、椅子、書籍、樂器の外には、何の裝飾もなかつた。冬にもストーブを燃かなかつた。或人が、ストーブを燃かれては如何ですと云つたら、「イエス樣の時代には、さういふものはありませんでした」と答へられたさうである。粗造の家屋であるから、敷物のない床板の空隙から、氷のやうな冷い風がやつて來る、其處にストーブも燃かず、讀書せらるゝ監督を見て、或る敎役者が、監督さん、紙で目張をなさい、スルト寒い風來ませんと敎へた。監督は、有難う試みませうと云はれた。其後再び同敎役者が訪問した時は、西洋新聞紙で張つたのが、既に處々破れて居つたから、監督さん、これは日本紙でなければいけません、仙花と云つて、よい紙がありますといへば、監督は、「それは高價です、これ大そう廉い、無價です、破れたら何遍でも張ります」と云はれた。
烏丸の住宅は、其後五條に移し、其處に最後の歸國まで住居せられた。監督は歸國せらるゝ前、京都地方部常置委員が訪問した時、云はれたるに、予が歸國に際し持ち行くものは、予が愛する敎友の寫眞のみ、此家も書籍も器具も、一切を京都地方部敎役者の爲に與ふべし、予が去りし後は自由に使用せられよと。かくて數日の後に、漂然京都を去り歸國せられたるが、一着の衣服、一枚の毛布、一册の聖書と二三の必要品の外は、何一物も携へられず、室内は舊のまゝにて監督の在せし時と、少しも異ならず、これが再び歸らぬ人の後とは、何人にも思はれなかつた。其無私、淸蒹、潔白に驚かさるものはなかつた。
身監督といふ聖公會最上位の榮職にあつて、月に數百圓の報酬がありながら監督の一ヶ月の生活費は、僅かに拾五圓位であったといふ、以てその質素儉勤の生活のほどを察すべきである。日常の生活費は出來る丈け節儉し、月末に食料其他の雜費が少しでも超過すると、コックに其理由を尋ねられ、以後の注意を與へられた。雜貨や日用品を買ふ時は、なかなか六ケ敷い事をいはれた。此は高價です、モツト安價いのとかへて來いと、毎度命ぜらるゝので、コツクは之を厭ひて、吝嗇爺めと陰口を云つて居つた。然り、實に師の生活を表面からばかり見るものには、殆んど極端な吝嗇家としか思はれなかつた。然ながら、燕雀安んぞ鴻鵠の志を知らんや、師が斯く己の身を節したるは、神より託せられたる此世の財を、蠧くひ銹くさり、盜穿て竊ざる所の天に蓄へ、かくして、憂ふるに似たれども常に喜び、貧しきに似たれども多くの人を富さんためであつた。
傳道旅行をせらるゝに、汽車はいつも三等のほかは乘られなかつた。老年に及ばれても、汽車など一、二等に乘られたことはない、相變らず三等切符で何處にても旅行せられた。人あり、師は何故に三等のほか乘りたまはざるやと問へば、曰く「已を得ざるなり」と、人其意味を解せずして怪しみ尋ぬれば、「四等がないからです。」
傳道地を巡回せらるゝ際には、バタをつけたパンを幾個となく新聞紙に包んで、携帶せらるゝのが常であつたが、其新聞紙を一々叮寧に皺をのべて持返り、三度も四度も用ゐるのが例であつた。來翰の餘白や不要の刷物など、苟も白い部分のある紙は、原稿紙代りや、説敎の下書に用ひられた。
往々吝嗇と誤られたほどに、勤儉克己の生活をした監督は、斯くして貯蓄られた金を、凡て神に捧げ、會堂の建設、學生の扶助、病者、寡婦、孤兒の救濟の爲に、惜なく費された。
監督が直接間接に盡された敎會は、東京では築地三一大會堂、これは其當時四萬圓を要したといふが、監督一人の出資になったものである。其他神田基督敎會、淺草聖的翰敎會、深川眞光敎會、麹町聖愛敎會、關西地方では大津基督敎會、岸和田聖保羅敎會、小濱聖路加敎會等である。最後の紀念となったのは、京都聖約翰敎會にて、これは三萬圓を要したといふ。而して是等の會堂は師が日本人の爲に獻げられたのであった。築地の三一大會堂が新築された當時、日本人の禮拜と外人の禮拜とが、同會堂に執行せらるゝことゝなったが、何れの禮拜を主とすべきか其處置に就て、當時の牧師が監督の意見を尋ねしに、監督曰く、私は日本人の爲に會堂を建てました、彼は日本人の敎會です。日本人の禮拜に妨げのない限りは外人が使用するも差支ありません、何事も日本人が主ですと云はれたさうである。
監督が貧書生を養はれたのは實に夥しい。然し監督は彼等自身にも己が學資が、誰から出て居るか知らせなかった。多くの書生が自身の學費の出資者を確めやうと、監督に尋ぬると、心配すな、或人喜んで出します、學生は勉強が肝要ですと云はれ、其或人とは誰なるかを決して漏されなかった。
某高等學校の敎授であった人が、危篤であるとの電報が來た時に、監督は痛く心配せられ、遠路の地に態々某氏を見舞に遣はされた。監督は某氏が出發の際に、一通の書翰を托されたが、不幸病人は其書翰を讀み終らぬ中に、妻と三人の子を殘して沒した。某氏は未亡人のため監督の書翰を讀んで聽かせたが、其中には、靈的慰籍を與へ、信仰と忍耐を以て終まで、主に事ふべきことを懇切に勸められ、最後に、若し貴下が天父の御召を蒙ることあらば後事を憂ふる勿れ、三人の愛兒の敎育は我之を引受くべし云々と、書いてあったさうである。之は唯だ一例であるが、這う云ふやうな事情の下に、監督に援けられた人が、人の知らぬ所に幾人となくあつたと云ふ事である。
監督が敎務を帶びて淸國に赴かれた不在中、遙々長崎から來た人があった。留守居の某氏が、之を迎へて來意を問ふと、此人は監督が長崎に居つた頃、恩顧を蒙つたコックであった。監督が同地から大阪に轉ずる際に、彼は莫大の金圓を惠まれ、其お蔭で長崎で牛乳業を開業し、今では何に不自由なき生活を營むやうになったので、此度の上京を幸に先づ、御禮の爲め伺つたといふ事であつた。監督は多年仕へたコックに對しては、唯だ現在に恩顧を與へて當人を喜ばせるよりは、彼が將來の事に思慮を用ひられ、窃に彼が爲に圖られた。買物など六ケ敷い事をいはれたが、幾分でも安價いと思はれた時は、それを彼のために貯蓄て置かれた。或るコックの如きは、永い間奉公して居つたが、餘り買物にやかましいので、或日、私は迚も貴下のコックは勤まりませんから、お暇を頂きますと申出でた。監督はさうですか、ソレは致方ありませんと、やがて二百何圓と書いた貯金通帳を持つて來て、之はお前が買ひかへる時に、お前の老後のためにと貯蓄したものだから、お前のものであると、彼の前に差出した。之を見て初めて監督の深情厚意を知つた彼は、驚愕其極に達し匇惶お暇乞を撤回して、益々忠勤を勵んだ。思ふに長崎のコックも、同樣な恩澤に浴したのであらう。
一夏、監督は、丹後宮津の澤邊別莊に、避暑せられた事があつた。これは監督の衰弱甚しかつたので、パートリツヂ監督は心配せられ、容易に聽き容れぬ監督を伴ふて、強いて保養せしめられたのであった。滯在中は別莊の留守番の老婆が、食事其他雜用を辨じたが、西洋人と謂へば、贅澤な生活をするものと心得へた此婆さんの眼には、監督の質素勤儉の生活は、吝嗇としか見なかつた。
それに監督が他人を煩はすを好まず、何事も努めて自ら爲さるゝのを、金錢を惜んで他人の手を借りぬことゝ思ひ違ひ、會ふ人來る人に、あれは吝薔爺よ守錢奴よと、惡口をたゝいて居つた。やがて酷暑の候過ぎ涼風立ち初めたので、監督は京都に歸らるゝ事となった、いよいよ出立といふ際に、厚く老婆の勞を謝し、無言にて何やら紙片らしいものを手渡された、後で披いて見ると、金拾圓紙幣一枚あったので、老婆の喜び譬ふるものなく、かヽる御方とは知らず、罵詈讒謗まことに濟まなかったと前非を悔ひ、涙ながらに人に語つたさうである。
監督は眞に陰德の君子であつた。右の手の爲ことを左の手に知する勿れてふ聖訓を、其まゝに實行し、極めて隱密に人に施し、其當人にすら知らせぬ樣にした。貧しき人を訪ひ病者を見舞ふたりしては、先方に知れぬ樣にソツト物の陰や床の下に、金を隱し置かれた。人目の多い場合には、傍人にも氣が付かぬ樣に、握手の際などに、ソツト紙幣を手移にされた。曾て某が米國に留學する時監督は新橋に見送り、最後の握手の際に、餞別として紙幣を手渡された。ところがどう云ふ間違にや、夫は新聞紙片であった。某は監督の眞意を謝せんがために友人に傳言した。
友は監督に面し某に代つて謝意を表した。監督はソンナ事はないと知らぬ顏をせられたが、實は斯く斯くと語るや、監督は驚かれ直にポケツトを探りしに、果して紙幣は依然として殘つて居つたので、全く右と左とを間達ひての失策なりし事を物語られ、早速書を送りて粗忽を謝し、送金の手筈をしたさうである。
監督は、公の寄附金や義捐金の募集には、餘りに應じなかった。是は其名の現れん事を恐れし故である。かゝる場合に金を出さるゝ時は、自分の名を出さぬやうと、嚴しく斷られた。然し監督は 慈善事業に對して深厚なる同情者であって、常に隱れて弧兒救濟などに盡された。明治二十四年立敎女學校の特志者が、救育院と命名して孤兒救濟事業を興した折りに、監督は、誰にも告げずに立派なる家屋を新築して、其用に供せられた。其後此救育院は閉ぢて、女子は瀧の川學園に送り、男兒は博愛社に送られたるが、監督は、舊の救育院の家屋を其儘博愛社に寄附せられた。監督はまた博愛社に基本財産として耕地を備へんと心を用ひられたるが、同社が數回に購入したる地所は、監督の助力によるもの多しといふ。
明治何年であったか確と分らぬが、日本橋から京橋にかけて大火があった時、監督は金六百圓を懷にして、飢と貧に苦める幾多の罹災者を訪ふて、人知れずに施與し、また外國人を勸誘して、金品を募集し、罹災者の貧困なる者に、寢具其他の物品を施與せられたといふ。其後十二年再び大火があった。日本橋箱屋町から起つた火は、強風に飜られて同區方面から、京橋中通を燒き八丁堀を舐めて、火の手は一方靈岸島に、一方は築地に及んだ。當時監督は築地新榮町に住居されたが、其家も烏有に歸した。此大火に家なく食なく罹災者の窮状は慘憺を極めた。此時監督は、神學生其他の人々を派し、最も貧困なる罹災者を調査せしめ物品と引替へにする切符を渡し、斯くして莫大なる金錢物品を施された。
監督は、慈善施與せらるゝに、注意深かったことは、次の一小事を以て知ることができる。毎週築地から深川の敎會に通はるゝ途中、いつも路傍に伏座つて物乞するものがあつた。監督は通る毎に何程かを惠んで行過かれた。或日同行の傳道者に問はるゝに、御國の乞食には借兒して、人の同情に訴へんとする不屈者はないかと、傳道者は知らずと答へたが、其後の事、監督は、一人の乞食に金を惠まれたが、他の嬰兒を抱いた乞食には、何も與へられなかった。同行者怪んで其理由を尋ねると、監督は、アレは嘘です、あの嬰兒は先の嬰兒と違ひます、借兒です、彼の人いけませんと答へられたそうである。
監督は基督の大なる傳道者であった。血氣湧が如き靑春の時から、八十路の坂を越て殆んど枯れたる冷たき老衰の體を以て、我國を去る迄五十年間の生涯を、福音宣傳の爲に獻じ、專心傳道の一事を努めて、毫も他を顧ざりし眞箇の傳道者であった。師の同勞者フルべツキ、ヘボン兩氏の如きは、或は政府の顧問となり、政治法律敎育に從事して、其功績は世人に認められ、或は一世の國手と仰がれ、英和辭典と共に雷名天下に轟きしが、師は殆んど敎會外の人には其名だに知られなかつた。師は恰も鋤に手つけて左右を、顧みざる勤勉なる農夫の如く、切支丹邪宗門禁制の表札は高く掲げられ、宣敎の途は容易に開けず、單身絶東に在りて語るに友なく、一人の改宗者をも得ざりし盤根錯節の當時より、堂々たる日本聖公會の建設を見るに至る迄、全精力を傾盡し、弛まず倦まず、心田を開拓して眞理の種を播き、而して之が培養助長に努められた。監督職を辭したる後は、愈々專心基督を傳へんか爲に、京都地方部監督の配下に屬し、數ヶ所の傳道地の主任長老の務を執られ、東奔西走傳道に盡瘁し、老の將に至るを知らざるものゝ如くであつた。晩年に及びて、福井傳道を開始するに先ち、該地に視察に赴れたるが、歸來直にマキム監督に書を送り、福井に宣敎師を派遣するの必要を説き、最後に曰く、此處に老ひて宰るべき牛一疋あり、之を遺し給へと書し、マキム監督をして感極つて流涕せしめたといふ。いかに師が、「主耶蘇より受し職すなはち神の惠の福音を證する事を遂ん爲に我生命をも重ぜざる」、忠誠熱烈なる傳道者であったかを想ふべきである。
惟ふに傳道上に於て、經綸百年、畫策縱橫、快刀亂麻を斷つの手腕を揮ふが如きは、師の天職ではなかつた。師は篤信高德人を自からにして化育する聖徒的傳道者であった。心より心に、胸より胸に福音を傳へ、個人の靈魂を救はねば止まね人であつた。故に其傳道法は所謂個人傳道訪問主義であった。華々しい社會的事業や、時世に投合する仰々しき運動を好ず、炎熱の候も嚴冬の日も孜々矻々として、信者求道者を訪問し、諄々道を説いて倦まず、聖保羅か提摩太に與へたる訓戒を實行し、「時を得も時を得ざるも勵みて之を努め、各樣の忍耐と敎誨を以て、人を督し戒め勸められた。而して師が殊に屢ば訪ひたるは、貴顯紳縉に非ずして、貧民病者であった。其道を説き敎を宣ふる聲は、朱門高堂の朝に非ずして、白屋茅門の夕であった。
某傳道師が、監督と倶に或る地に傳道に赴いた途次、路傍に石工が石をコツコツ刻んで居つた。監督顧みて傳道師に曰く、貴下は彼に何を學びましたか。傳道師は其意を解せず答ふることができなかつた。監督曰く、傳道の祕訣も此の如しと。
監督は信徒の家を訪問すると、必ず何か敎訓を遺して歸られた。細君などが、茶よ菓子よとマルタ的に馳走して心を落ち付け得ないのは、甚だ迷惑に感じられて、師を煩はしたやうであつたが、師が慈眼愛膓より溢れ出づる十數分の言葉は、他人一時間の饒舌に優つて能力があった。
師は曾て京都地方部の敎役者會にて、訪問傳道に就き下の如く陳べられた。「余は常に日本聖公會の傳道の旺盛を切望する、而して之が方法は訪問傳道を以て主要と思ふ。今一二例を擧げると、英國非國敎派の一敎師の云ふには、非國敎派に成長した靑年等が國敎派に轉ずる譯は、其敎師が訪問を勉勵し、又好んで人を引見するからであると。又英國獨立敎派の一敎師の云ふには、英國至る所に於て非國敎派の敎會の衰微せる有樣は、殊更我敎派に於て然りで、此事實を掩ふは無益である。之に反して國敎派は飛び驅つて我等を追ひ越した。其理由は多いが中に、國敎派の敎師が、訪問を熱心にするからである。然るに非國敎派の敎師は一般に之を厭ふの傾向がある。これで見ると訪問傳道の切要が知れる」云々。
監督は洗禮志願者には、先づ使徒信經、十誡、主祷文を學ばしめた。一週間内に日を定めて自ら敎へらるゝか然ざれば人をして敎へしめた。以上のものを終ると試驗をなし、充分敎理を心得しと認めし後、洗禮を施された。監督はこの規定を實行するに嚴正で、如何なる情實や都合があっても、決して變更し省略する事はなかつた。それ故に志願者が洗禮を受るまでには、少くとも五六ケ月以上一年はかゝつた。信徒按手式志願者にも同樣、其意義を學ばしめ、公會問答を敎へ、聖餐式文を心得させ、後ち試驗の成績に由て按手された。
監督の勤勉精勵には驚かぬ者はなかつた。朝は五六時から夜は十二時まで、殆んど寧日なく牧會傳道を努められ、在邦五十年間二度の歸國を除いては、一度も休養などしたことはなかつた。
會て或人が、監督さん、貴下はナゼ結婚しませんかと問へば、監督曰く、私忙しいので其暇がありませんと答へられた。師は牧會傳道に專らならんため、甘んじて獨身生活を送らたれのであるが、しかしまた師は早くより日本に渡來し、結婚の機會もなかつたほどに、職務に專心一意精勵し、他を顧る暇がなかったのである。東京に居られた時、督監として内外の敎務多忙の身でありながら神學校敎授として常に二三の學課を受持たれ、更に當時邦人の聖職は僅に二人しかなかつたので、築地三一、深川眞光、神田基督の三敎會と、淺草講義所の牧會傳道の任務を、自ら執られ或は補助せられた。日曜日などは、全日殆んど寸暇なく働かれた。早朝築地立敎學校講堂(後は三一大會堂)にて禮拜説敎せられ、夫より直に徒歩にて、深川眞光敎會に至り、十時より禮拜説敎し、二時より聖書を講ぜられ、夜は淺草講義所か神田基督敎會にて禮拜説敎し、築地に歸つて休まれたるは、大抵十二時過ぎであつた。
京都地方部に轉じてからは、京都五條講義所(後は聖約翰敎會)、大津基督數會岸和田聖保羅敎會、及び舞鶴宮津傳道地の主任長老として働かれ、又た傳道女館の校長兼敎授として、婦人敎役者の養成に努められた。晩年に至り身體の衰弱に餘儀なく、大津岸和田五條の敎會の外は、長老の執務を辭したるも、餘暇には孜々として著述に從事せられた。而して終に身體自由を失ひ、最早や老朽爲すなしと自ら感ぜらるゝや、空しく椅子に座するを好まず、我歸國せば代りに好き人物を送らるべしと、涙を揮つて其愛する第二の故鄕を去られた。
師が職務に精勵された事は、下の事實を以て知ることができる。未だ坂鶴鐵道完成せず、漸く福知山迄開通した頃、宮津巡回の定日であつた或日、此日は朝から暴風雨であつたので、老體の師此天候では巡回はあるまいと、同地定住の敎役者家族が噂して居ると、薄暮、突然玄關に御免なさいと監督の聲がした。それ監督が御出だと、家族何れも出迎ふれば、這はいかに、師の半面は怖くも腫れ上つて、血潮は淋漓として流れて居つた。監督は、私一寸怪俄しました、モウ痛い事ありませんといふ。
座敷に請じ徐に仔細を尋ると、此日正午福知山から舞鶴までの途中、只さへ險惡なる山道を、暴風雨を冒し來た人車が顛覆し、師は眞逆さまに投出され、顏面を酷しく打たれた。
「私一時は暗黑で何事も、サツパリ解りませんでしたが、神樣の御惠で暫くで氣が付きました」と平氣で云はれた。全く人事不省に陷つたが、車夫の介抱でやうやう氣が付かれたのである。氣が付くと直ぐ氣丈な監督は、其儘で舞鶴の信徒を訪問せられ、休息もなくまた直に宮津に向ひ、平時よりも一時間餘遲れるれて同地に着せられた。而して例の如く、翌日は聖餐式を執行し、説敎もせられて京都に歸られた。
宮津から京都に歸られた翌日は、例の如く傳道女館に敎授に行かれた。餘りの大負傷なれば、苦痛の事と察した幹事某女史は、今日は敎授をやめ休息せらるゝやうと、強いて云ふと。監督は嚴かに唯だ一言、「敎授は私の責任です」と云つて、平素の如く心快く敎授を濟された。
大負傷後の巡回の時の事であった。其日は土曜日で其夜は集會を催す豫定であったが、師は頭痛がするとて、大に惱み居らるゝ樣であつたから、翌朝の聖餐式執行もあれば、敎役者は師の身を氣遺ひ、無理に請ふて休會することにした。然るに其夜宮津を去る四里の僻村から、二人の靑年が態々監督の敎を聽かんとして來た。師は大に悅ばれ懇切に二人を迎へ、諄々として十誡を説明せられ、更に苦痛を感ぜざるものゝ如くであったが、堪へ堪へた苦痛は其極に達せしものか、俄然座ながら倒れ伏した。居合せたる人々は驚駭一方ならず、冷水を似て頭部を冷すなど介抱の後、靜に臥床を請ふたが、師は聽容れず尚ほ二人の靑年に道を説いて、深更までに及んだ。
監督は支邦に赴任してから、彼の地に在留僅に壹年有餘の間に、はや支那語に熟達し、單身各地に巡回傳道を試むるに至つた。其の語學の進歩著しかつたには、人々驚嘆したそうである。然るに殆んど其全生涯を我國に過された割には、日本語は餘りに巧妙とは云へなかった。國文を解し漢籍を讀まれたが、會話は寧ろ拙劣であった。それゆへ師は美しい舌を以て語る講壇の人ではなかった。それにも拘はらず、師の説敎は人を動かす力があって、何人も深い感に打たれた。あの銀線を束ねた樣な光澤のある白鬚をゆるがしつゝ、敬虔温雅な態度で、諄々として神の恩寵と眞理を説かるゝ時は、何人も思はず知らず襟を正し首を垂れた。基督の膝下に坐して唇頭より洩るゝ、聖語を聽く心地して、會衆は一言一句も漏さじと謹聽した。
其時は語句の拙劣も咄辯も念頭にはない、唯だ畏敬の念壯嚴の氣が堂内に充ちた。故に未信者にして師の一回の説敎に打たれて求道心を起したものは、決して少くなかった。
監督は説敎中に、深遠ななる哲理を講ずるとか、神學上の意見を披瀝するとか云ふやうなことは、毫も無かった。さりとて人の情感を激勵して、熱狂せしむる樣なこともなかった。單純に、明白に、而かも確信に充ち、力強く、神の恩寵、基督の救、聖靈の賜を説く外はなかった。説敎の組織も、殆んど千變一律的に、題詞の聖句を三四に分解して説かるゝのみで、何等の奇拔なる所なく、何等の感興を深からしむるものはなかった。然るに、師が敎壇に凭れかゝつて會衆を指さし、徐ろに悔改を促さるゝや、人をして自ら省み痛悔せざるを得ざらしめた。鐵拳を振ひ敎壇を叩き、聲を勵して、警戒を加へらるゝや、何人も駭然として覺醒め、肅然として容を正した。熱誠に充ち充ちた、而してやゝ顫へた語調で、神の惠、基督の愛を説かるゝや、會衆は感恩の涙に咽んだ。師の説敎は機智妙想を以て人をして感嘆せしめなかったが、人格の底より流れ出る一種の魔力を、人の肺肝に浸み込ました。あゝ是れ何故であらうか、他なし、尤も單純なる福音が力強く舌端より落ち、其一言一句には、不可測の生命の源泉より湧き出る、聖徒の個人的感化の力伴ひたるが故である。
監督は、説敎を準備せらるゝ時は、一室に閉ぢ籠つて内錠を下し、普通の來客には面會せられず、草稿は例の用紙に細字に記載し、毎週二回の説敎を決して缺かさず準備された。而して既に今週の説敎が準備されつゝあるに、他の敎師に敎壇を讓つた場合とか、或は巡回其他の都合で、其準備した説敎が不用となりし時は、それを次週に使はず、其まゝ筐底に葬つて、更に次週は新しく準備せられた。或年の夏、一敎師が師の説敎草稿を整理した事があつたが、其中に使用された草稿には年月日が記入してあつたが、準備して使用せられなかつた草稿が、數十篇あつたそうである。
師は、自身司式も説敎もせぬ時は、會衆席の隅の方に坐し、いかにも敬虔の態度にて、何人の説敎も熱心に謹聽せられた。或時、靑年牧師が、監督さん誠につまらぬ説敎で、御迷惑で御座いませうと云ふたら、「いや誰の説敎でも注意して聽きますと、其中に神の御聲が聽かれます」と云はれた。
監督の最後の説敎は、歸國せらるゝ前、四月二十六日復活後第壹主日、京都聖約翰敎會にて、晩禱説敎がすんだ後の、一場の奬勵であつた。師は牧師の説敎が濟むと、私一言と、よろめく腰を起てゝ敎壇に上つた。其夜は生懀會衆は少數であつたが、監督が私一言と云つて起るゝや、何れも先を競ふて敎壇の前に進み近づき、一言をも聽漏らさじと待ち構へた。其時師は身を敎壇の欄に凭れかけて居られたが、兩手を張り伸したり、高く揚げたり、或は鐵拳を以て敎壇を叩いたりして、非常な勢を以て勸められた。其奬勵の一節に、信者大變少ない、いかで敎會に來ません、會衆少ない。敎師失望します、説敎力ありません。あなた方一人びとり、信者連れて來ますよろしい。さすれば一人ふたり、三人四人、而して會堂一杯滿ちませう。牧師勵みます、基督喜びます、聖約翰天に於て喜びます…‥………と熱烈に語られた。
祈禱は監督の生命であった。師が凡ての活動力の源泉であった。其高潔なる生涯の祕訣であった。監督の崇高なる人格、其偉大なる精根氣魄は、其内部の生命が絶へず密かに、祈禱によりて養はれ強められ、溢れ漲つて外面に醗酵したるに外ならぬ。師こそ眞に祈禱の人であった。師の祈禱の態度、語聲が、いかにも敬虔に莊重に眞率にして、能く人を動したるは、是れ實に師が、隱れたる時と所に於て、至誠以て絶へず祈る人であったからである。繁劇多忙而して勤勉精勵寸陰をも惜しまれた師は、屡ば一室に閉ぢ籠つて靜かに暫し時を過された。其時こそ師に取りて、最も樂しき時、最も嚴肅なる時、最も大事が爲さるゝ時であった。凡そ何事か計畫され、實行され、着手さるゝ前には、必らす師は一室に退いて祈念獸想に時を過された。
監督を知るものゝ、恐らく生涯忘るゝことの出來ぬのは、あの靈氣に溢れ力に滿ちた祈禱であらう。師が恭しく跪き兩手を組み合せ、天を仰いだ、いかにも、神を愛する子供らしい態度、一言一句靜かに嚴かに肺肝より湧き出で、而かも信任に滿ち滿ち、恰も五六歳の子供が、親に甘へるやうな語調、ゆかしとは云はんか、崇高とは云はんか、若し神と親しく物語る祈禱ありとせば、是ぞ碓かにそれであると思はれた。
監督が祈禱書を用ひて祈らるゝときも、其態度といひ其語聲といひ、迚も之を祈禱書によりて、祈らるゝとは思はれなかった。師の説敎に感じないものでも、其嚴肅な莊重な敬虔な、而して力に滿ちた祈禱には動かされた。奧野昌網翁、監督を訪問した時、談偶ま祈禱書のことに及んだ事があつた。翁は監督に向つて、祈禱書によりて祈禱するは、形式的で誠實を缺ぐと批難した。監督は滔々其然らざる所以を答辯せられたが、最後に監督は祈りませうと云つて、椅子を離れ跪いて、例の謙遜な態度、敬虔の語氣を以て、祈禱を捧げられた。續いて翁も祈禱をせられたが、後で、監督さん、只今貴下のお祈には實に感じました。私は今日までこんな靈的の祈禱を聽いた事はありませんと云ふと、監督は只だ一言、これが貴下のお嫌な祈禱書の祈禱でありますと答へられた。翁はそれ以來聖公會祈禱書を尊重し、常に座右に備へて、公私新禱の模範とせられたそうである。
神學校を卒業した一靑年が、監督が指定した傳道地を嫌つて赴任を肯ぜず、切りに任地の變更を監督に請願した。監督は彼に.種々説諭して決心を促されたが、彼は容易に決せず空しく時日を延ばして居つた。或日、監督はまた彼に懇々説諭を加へた後に、私は今晩貴下が決心の出來るやうに祈ります、貴下も祈つて決心して下さいと云はれたので、ハイとは答へたが、彼は内心監督が何と云つても承諾せぬと頑張つて居つた。其夜深更に彼は不圖監督の部屋の前を通ると、内から祈禱の聲が洩れ聽へた。嚴な而して如何にも天父と物語るやうな祈禱の聲、あゝ監督は今ま私の爲に天父に訴へて居るのではあるまいか、彼はこう思ふと祈禱の聲は全身に染々と應へて、我意は折れ執拗は碎けて、唯だはらはらと悔悟の涙に呉れた。翌朝彼は監督の許に至り、前非を謝し赴任の決心を告げ、勇んで任地に向つた。
監督は祈禱書の忠實なる愛用者であった。祈禱書の規定は嚴格に守り、如何なる情實や都合があっても、決して之を變更省略する事はなかった。然し祈禱書に何等規定のない事は、殆んど無用視した。例せば、期節に從つてストール或は禮拜に於ける彩色を變へることや、聖卓に十字架を安置したり、花を供へ香を焚くことなどは、一種の裝飾に過ぎずとして、決して爲られなかつた。師は所謂低公會員であつた。常に云はるゝに、「祈禱書を忠實に使つて居るならば、議論も混雜もない、又た自他の利益である。然るに自分の好みによつて加除するは宜しくない」と。
監督は、會堂は嚴格なる意味に於て、聖別されたものであるとし、禮拜以外の事には、例令ば、演説會、祈禱會、日曜學校などに用ひる事を許さなかった。禮拜堂は、人か誠に、「主はその聖き殿に在ませり」と感じ、畏敬と謙遜を以て祈禱讃美を捧ぐる外は、唯だ其聖前に默して、神の榮光と聖德を仰ぎ、其聖聲を聽く聖所であるから、堂内に入つては、努めて嚴肅に沈默を保ち、苟にも輕操なる振舞あるペからず、雜談挨拶など交ゆる勿れとは、師の敎訓であった。
監督が禮拜以外に會堂を用ひる事を許さなかつた爲に、靑年敎役者は屢ば監督と衝突した事があつた。彼等は、苟くも神の爲になす事業に、禮拜堂を用ゆるとも、何の不可あらん、「われ矜恤を欲て祭祀を欲ず」とは如何なる意味なるかと、聖句までも引用して、勢鋭く詰問した。時に監督は容を正し最と嚴かに、「われ衿恤を欲て祭祀を欲ず」と聖語を誦し、固く拳を握り占めて力強く前に振り下すと同時に、此は我が主義なりと一喝し、更に曰く、會堂以外に建物がなければ致し方ありません、然し別に會館といふものがあるに、ナゼ禮拜堂以外の所ではいけませんかと、逆まに詰問された。
一牧師の話に、或時信徒按手式前、式服を着して後、規定に從ひ受領者の姓名受洗及年齡を提出したが、其中に一人の年齡不明の爲め記入して無かつたら、師は嚴然として規定を示して之を返し、式場に出られない。乃で俄に式服を脱し奔走稍く記入して、式を濟したことがあるが、余は此時隨分苦しく感じたが、其後此事に就て嚴正にやつたばかりでなく、此精神が余の執務上に大なる影響を受けたことを滲々と感じたと。此は一例に過ぎぬが、以て監督が如何に一小事たりとも、公會の規定を忠實に嚴守せられた事を知ることができる。
監督が歸國せらるゝと聞いて、或人が切に我國に止るやう嘆願せしに、監督曰く、余は此地にありて空しく椅子に坐するを好まず。寧ろ歸國して日本の爲に盡す可し。何處にありても神は余の祈禱を聽き給ふ。日本に在りて祈るも、米國に在りて祈るも同じ、天の高さは何處にても異ることなしと。また或人、惜別の情を洩したるに、監督は、祈る心と心には距離はない、何處に居るも、神と吾々の間は同じであると云はれた。
監督は、復び歸らぬ歸國に、將に橫濱を去らんとする際、見送れる數人の兄弟が、ランチに移つた時、遙かに本船甲板上から、神の祝福を祈られたが、之ぞ師が日本に於ける最終の祈禱であった。
歸國後は、愛甥ハリソン氏邸に靜養せられたるが、師は日として日本を忘れ給はず、其通信に曰く我が毎日の日課は日本聖公會の爲に祈ることなりと。病床に橫はりて神の召を今か今かと待ちつゝある時も、身は日本に在る心せしと見へ、英語を用ず日本語を語り、日本語にて祈禱を捧げられたといふ。
監督は柔和謙遜寬容の德に兼ねて、嚴正潔白勇敢剛毅の武士的性格を有せられた。師は温厚の君子にして而も又一個血性の男兒であつた。一面處女の如く柔しき情の人にして、一面剛健なる意志の人であった。其厚情は藹然として掬すべく、其寬宏にして吝なき愛は、眞に崇高の域に達したるが、其所信を貫くためには死も亦辭せず、其主義を固く執つて動かざること、寧ろ頑固と云ふも敢て失當ではなかつた。
日本聖公會の錚々たる牧師が、未だ神學校に在學中の頃であつた、當時監督は三一神學校に佳はれ、二階の三室の一を書齋兼客間とし、一を寢室とし、一を食堂として用ひられたが、未來の大牧師たる彼の部屋は、三階の北側にある丸窓の小暗き室であるのが、頗る不滿足で、或る日監督の室を訪ふて、我儕は神の爲に身命を捧げた前途有望の靑年である。然るにあんな不衞生な室に居つては、健康を害するから、速に完全なる寄宿舍を設けるか、然らざれば外に下宿せしむるか、二者其一を許されたしと談判した。監督はさうですか考へてをきませうと云つて其場は濟んだ。翌日彼が外出して歸つて見ると、小使は既に彼の部屋を掃除し、監督の荷物を大半運び込んでをつたので、彼は驚愕て何事ぞと訊ぬれば、監督さんが、寢室を三階に移し、三階の二室四人の者を自己の寢室と食堂に移らしめんとするなりといふ。彼は尚更に驚き早速監督の許に行き、前の失言を謝し、許容を請ひ、現状に甘ずべし決して監督を苦むる心に非ずと、低頭平身謝罪せしに、監督は彼の肩を叩いて莞爾として薇笑み、心配いりません、私自分の便宜の爲にいたしました。私は六七時間夜寢るだけです、寢むる時は光線入りません。貴下方學生は勉強自修の爲め、多くの時間部屋に居りますから、光線空氣のよい處を望みます當然であります、と云つて聽容れなかつた。遂に學生抽鬮せしに、彼は監督の寢室であつた室が當り、其處に移る事となつた。
三一神學校の生徒に、腦病を惱んだ者があった。彼は之がために日々の學課も思はしく勉強ができぬので、獨り自らの身を悲んで居つた。監督は非常に此生徒に同情し、種々と親切に心を添へられた。殊に彼が安眠を得ぬのを氣遣ふて、毎夜十一時頃には必ず彼の室を見舞はれ、お寢ですかと問ひ試み、若し彼が起き居ると、能く眠らぬといけませんと注意を與へられた。かくして殆んど一年間斗は一夜も缺さず彼を見舞はれたさうである。
監督が築地の小田原町に佳した頃、當時來朝して日尚だ淺かつたガァデナー氏が、其居所の日本家屋が氏と他の宣敎師の家族の爲には、間數少く殊に寢室が不便であるから、他の適當の所に移り度と申出た。すると監督はそれならば私の家に貴下の寢室になるやうな、良い部屋があるから來ては什麼かと云はれた。そこで早速ガァデナー氏は、監督の住家の一室を自分の寢部屋とする事にした。四五日經つて日曜日、監督が深川の敎會に行かれた留守、ガァデナー氏は家の樣子を能々見ると書齋、晝間は敎室に用ひらるゝ食堂、書生部屋、コツク部屋、寢室一ツであつて、其一の寢室を自分が占領したから、監督は何處に寢るのであらう、と氣が付いたガァデナー氏は家内を探して見たが、他に寢室となるやうな所がない。コツクに尋ぬると、初は知らぬと云つたが、嚴く訊ねたところが、コツクの云ふに、「監督さんから堅く口外を禁じられたから、極内密のお話ですが、實は貴下がお出になつてからは、監督さんは食堂の卓の上にお寢みです」。驚いたガァデナー氏は、自分の爲に不自由を忍ぶ監督の厚意を謝し、強いて辭退して他に移つた。
神學校の樓上に學生と共に起臥した頃も、來客があれば、客を自分の寢室に臥させ、自分は食卓の上か、床に寢た事は度々であつた。或時、米國の學校を卒業して歸國の序に、日本を訪れた支那人が、監督の客となつた事があつた。監督は客を一個しかない寢臺に休ませ、自分は書齋の机の上に損料貸蒲圍二枚を借りて寢られた。翌朝客なる支邦人は、部屋の入口を間違ひ、書齋の戸を開き、圖ずも監督の此樣を發見して、恐縮したさうである。
某々の兩長老を同伴し.上武地方の傳道地を巡回した時、雨後の田舍道路、人車も通らぬ泥濘に、靴もヅボンも泥汚だらけ、やうやう前橋の一旅館に着いた。翌日早朝兩長老が目醒めると、監督は早や起き出で、何處に行かれたか姿が見へぬ。一長老は尋ねに玄關まで出て見ると、監督は傍の方で切りに靴を磨いてをられた。監督さん貴下の靴は私が磨きますと云ふと、此は〇〇さんの靴です。私のはあれです。御自分の靴を磨くまへに、長老の靴を磨いて居られたのであつた。
人の爲に親切であつた監督は、自分の爲に人を煩すことを非常に恐れられた。地方を巡回せらるゝ時に、敎役者や信者が停車場に出迎へて、其靴を持ちませうと何程云つても、決して持たせなかつた。他人の世話になるのを辭退し、敎會や講義所の片隅に宿泊し、成る可く信徒の家には泊まられなかつた。偶ま敎役者や信徒の宅に泊つても、家人が何かと待遇せんとするのに、遠慮せられて家人の邪魔にならぬやう力められた。饗應は決して受けられず、白湯を貰つて持參のパン辨當を食せられた。
自分のため送迎會を開く事などは固く辭せられ、見送りとか出迎とかいふために、貴重の時間を他人に費させ、また之が爲め迷惑を懸けるを恐れて、出發や歸宅の時間は決して人に知らせなかつた。監督職を退いてから、久し振りで歸國し、一年間斗在米せられたが、其往復の際も、其後京都に轉じてから、一度歸國した其際も、誰にも出發歸宅の時日を告げず、瓢然として去り瓢然として歸り來られた。
監督は自ら是ど信じた事は、直情徑行し、一旦意見を定むるや、固く執て溶易に動かず、頑として飽くまでも、其所信は貫かれた。師と共に働いた幾多の敎役者は、幾度か監督の頑固には困るとの歎聲を洩した。併しこの頑固は師が神前に幾度か專念默想し、聖旨と信じた事を決行せんとせしものにて、師に取りては、讓渉は良心問題であつた。
之が爲に師と激論せしものは寡くなかつた、時には侮辱の言動を敢てしたるものさへあつた。然ながら、監督は甚侮辱を加へられし時は、猛然たる意志を以て自ら己を制し、默然として唇を緘ちて一語をも發せす、詈られて詈らね主に倣ひ、其瞬間既に其人を赦された。曾て或る敎會で何かの相談會が開かれた時、監督の意見と他の人達の意見が衝突して、痛く激論に及んだ事があつた。或人は遂に監督に向つて貴下は日本傳道の邪魔者です御歸國なさい、とまで暴言した。然し監督は始終ニコニコして居られたが、侮辱も甚しきに至つた時は、默然として唇を緘ぢ、更に一言をも發せず、云ふがまゝに任された。斯くの如き監督の忍耐と寬容には、此かる侮辱の言動を敢てしたる者も、一旦其座を去るや、憤怒の情何時しか消えて、痛く自己の失言妄動を後悔し、景慕尊敬の念再び切りに湧くを禁ずる能はざらしめた。
立敎學校の一生徒が、幾度か監督に注意せられたるに拘らず、二階の窓から表に啖を吐いた。所が間の惡いことには、其時下を監督が通りかゝられたので、其穢い啖は監督の帽子の上に落ちた。監督は夫れを拭ひながら、見上げやうともせず其儘部屋に這入られた。此生徒は校中評判の腕白者で、平素基督敎に反對し、其辯論巧にして校中のものゝ手におへぬ人物であつたが、この餘りの失態には耐りかねて、監督の室に至り恐る恐る其粗忽を陳謝した。
時に監督は全ぐ與り知らざる者の如く、「人が通りますから氣を付けなさい」と、唯だ一言。温乎たる其容、屬乎たる其言、遉の腕白者も崇高の感に打たれた。此事以來彼は全く其人物が一變し、熱心忠實なる基督者となつた。
萬延から文久年間は、我が國内は攘夷熱の最も激烈なる時であつた。頑迷無謀なる攘夷派の武士橫行し、外國人を敵視して往々殺害を加へ、襲撃を謀ること頻にして、實に殺伐の氣は天下に充ちみちた。當時長崎に在つて、米國の間諜とまで疑はれた監督の危險と困難は、到底今より想像するだに及ばぬことであつた。文久三年間に於ては、監督より一回も本國に通信がなかつたので、本國に於ては、危險を避けて支那に退却せしものと想像したが、實は、此頃も師は、通信もできぬ程の危險と困難に圍まれながら、獨り長崎に踏み止り、泰然として動かず、靜に翻譯に從事して、時の來たるを待つて居られた。當時の長崎奉行は在留の外人を出島に移居せしめた。外人は皆其厚意を謝して轉居したが、監督は、自分は福音の大命を奉じて來たものなれば、身の安危のため任地を一歩も去る事を欲しないと云つて、移轉せられなかつた。奉行は監督の風丯と、職に忠なる決心に接しては、又一言も出です、默許したと云ふことである。
監督或人に語つて云はるゝに、私が長崎に居つた頃には、攘夷論の最も烈しい時であつたから、外人は外出するには命懸であつた。夫れ故皆なピストルを携へて居つたと。其時或人が貴下もピストルを携帶になりましたかと問ふと、監督は容を正し嚴然として、私は神を畏れますが、人を懼れませんと云はれた。
條約改正前までは、外國人は居留地以外十里を出ることは出來なかつた。併し之は表面の規則で實は病氣保養とか、學術研究とかいふ事で、族行免状の下附を願ひ、皆それそれ欲する所に出掛けたものである。宣敎師が地方に傅道に出張する時も、病氣保養か學術研究の名目であつた。然し監督は、此規定が解けて、公然何處へも傳道旅行ができる迄は、唯だの一回と雖も、所定の地域以外に出られたことはなかつた。他の宣敎師が學術研究、病氣保養の名目を以て地方に出張しても、監督のみは、政府が默許した事とはいへ、この僞名目を用ゆるを快とせず、區域外には、頑として出られなかつた。
條約改正前に、監督が傅道以外の事で地方に行かれたのは、明治二十年頃中仙道の某地に行かれた一事であつた。之は稀有の日蝕を觀察すべく、同地が觀測上の最好點であつたから行かれたのであつた。監督は自然科學には深い興味を有つてをられたので、純然たる學術研究のためであつた。此時監督は出張の序に、同地の敎會を訪はれたるが、珍しき監督の來訪とて、信徒の歡喜は一方でなかつた。定住傅道師は監督に請ふて、貴下が御出張になれば、地方の信徒は此の通り喜びます、何卒以來度々御出張下さいと云へば、監督は微笑みながら曰く、さうですか、どうか日蝕をこしらへて下さい、私また參ります。
一牧師曰く、「明治廿九年の夏であつたと思ふ。僕は所用があつて江州の大津へ往つた。當時老監督には京都に在住せられ、大津は其受持傅道地であつた。偶老監督には敎務上東京へ赴かれ、その歸途此處へ立寄られ聖餐式を執行せらるゝとの事で、僕は久振りにて老監督より聖奠を受くることを嬉しぐ感じた。監督は東京より直行列車で午後到着せられたが、翌日は日曜日で琵琶湖で全國學生の端艇競爭があると云ふので、市中の旅館は何れも空室かないと云ふ有樣であつた。老監督は宿の主婦にドンナ處でも構はぬ、寢る事さへできれば宜しいと云つて、例の小な竹行李一つを預けて一晝夜汽車で旅行して來た七十餘の老人が、一休みもせずに其儘傳道師の許を訪ねられた。すると信者は其前に、明日は端艇競爭見物のため、大抵の家には來客もあり、自分等も見物したいから、聖餐を早朝に執行して頂戴きたいと、相談が決しておつたので、傅道師が早速その事を述べて許可を請ふた。
監督は、神の敎會に於て定めた大切なる聖典の執行時間を、遊戲事のために變更する事はできぬから、矢張いつもの時刻通りに皆々準備して出席する樣、勸めなさいと云はれて、自分も又其足で受聖餐者の人々を一々訪問して、其旨を諄々と諭され、日暮て遲く旅館に歸られ、室がないとて下女部屋のやうな小さな汚ない室をあてがはれて、毫も不足らしい顏もせずに、いそいそと明朝の聖用のパンを手づから調製して居られた」。
一週二度づゝ洗禮の準備のために、監督の居室に來りし或人が、一日定められた時間よりは約卅分ほど後れしに、監督は不機嫌にて、今日は出來ませんと斷られた。それでは來週三時頃參ります、といふて室外に出でしに、監督は呼び止めて曰く、貴下頃はいけません、丁度三時よろしいです。
神學校の生徒にして、或る敎會の役員を勤めた某氏が、一夜敎會の役員會に列して、門限時刻を遲れて歸校した。翌朝監督は某氏を呼び詰問されたので、彼は充分なる辯解として、敎會の役員會に列し、要務のために遲刻しましたと臆面なく答へた。すると監督は嚴に、學生は校則を守ることが大事である。若し之が妨とならば役員を辭すべしど云はれた。
監督は、一人にて決して婦人を訪問されなかつた。必ず同伴者を連れるか、若し同伴者が無いときは門前にて立談して別れた。大阪に居つた頃、ブール女史を折々要事の爲に訪はれたが、常にラニング氏と倶に來り、亦一人の時は家に入らす、玄關で立談せられた。或人其理由を問ひしに、ブールさんは御孃さん(老孃)私はムスコであるからと答へられた。師の嚴正なりしことは、此事でも察知せらるゝのである。
或る學者は品性を二大種類に區分し、一は畏敬を催すもの、他は愛を促すものとし、前者は偉大崇高を以て其の特色とし、後者は優美を以て其の長所となすと云つたが、監督の品性は此の二種を最も美しく調和したものであつた。師の容貌には何處となく、犯す可からざる威嚴があつて、其前に出づれぱ何人も肅然襟を正した。とはいへ窮屈にして親み難い感を與へるやうなことはなかつた。師には子供も臆せず馴れ親み、誰も遠慮なく胸中の祕密を打明けることができた。之れ藹然たる厚情、私なき愛は温容に表現れて、人をして愛着の情を起さしめたからである。
有名なる漢學者が、或る學校の生徒に、史記列傅の君子盛德容貌如愚ど云ふ語を講義するに際し左の如く語つた。「我曾て築地の耶蘇學校に居りしウイリアムスと云ふ宣敎師を訪ねた。當時自分は屢ば西洋人に會し、孔孟の道を説き、耶蘇敎を攻撃し、大に破邪顯正の議論をやつたものである。夫れで今日こそは大に彼を説破してやらんと思ふて、傲然としてやつて行つた。然るに一度其の西洋人と對座するや、彼の一見愚なるが如く、然も神々しき溶姿に接し、其敬虔敦厚な言辭を以て、貴下神樣を信じなさい、何もかも皆な了解て參りますと云はれたには、例の如く滔々と議論する事もできず、おめおめと引退つた事があつた。これ畢竟其人物の力にして、高德優雅の態度は、我を威壓して云はんとしても云ふ能はざらしめたのであらう。君子の德には洋の東西はない、司馬遷眞に人を欺かすと云ふべきである」と。
聖公會古老の一長老は、監督の秀姿淸容に就て語つて曰く、「曾て築地の新榮敎會に於て、聖書全部の日本譯が完成した感謝會が開かれた時、余も行て見たが、會衆中に獨り師の風貌が異彩を放つと云ふ評が起ると、余の側に居た一致敎會の某老實業家が、アー群雀中の白鶴だ、偉品性だアノ品性があれば口は開かれずとも雄辯だ、基督敎の説敎は師獨一で爲し居られると、余は然りと默頭いた。其後比企郡寄居町へ巡回せられた時、余は先發し寄居にて待合す事となつて同所に着し二三の信徒集ひ來りたれば師を迎へがてら、近郊を散策し荒川の渡船場に來ると、渡守の老爺は、今此處を神樣のやうな御方が通りました、と云つたので一同はそら監督さんが御着だと解して、族舍に向て歩を速めた」。
現今築地聖路加病院のある地に、昔は聖三一神學校と立敎學校の三階煉瓦石の建築物があつた。築地聖三一敎會は、大會堂が建設せらるゝまでは、此の立敎學校の敎室の一部を使用し、主日其他の禮拜を執行した。監督は該敎會の牧師として、常に長老の禮服を着して、禮拜を司られた。
粗造の聖卓と敎壇の外は、何の設備も裝飾もない此の敎室代用の敎會も、其處に監督が、崇高なる容姿、敬虔の態度を以て、禮拜説敎せらるゝ時は、莊嚴なる堂宇の中にある如き感を與へたることは、當時を知る者の深く心に銘ずる所である。其頃の事、或る主日に一老媼來りしが、敎壇に立たれた師の、温容に如何にも威嚴を備へたる神々しき風姿を見て、頻に合掌禮拜したさうである。
千八百六十一年(文久元年)七月十日の日記(漸く保存するを得たる師の日記の斷片)中に、師は記して曰く、一向宗に屬する一僧侶の來訪を受く、予は彼と肉慾に耽りて、更に良心の制裁を顧みざる人々の行爲に關して論じ、予を圍繞する人々の如き生涯を欲せざる予が理由を述べたるに、彼は汝は正き人なりと云ひつゝ、恰も神を拜する如く、合掌して予を禮拜せり。予は固より神を禮拜すべしと答へたりきと。これ皆な師の人格の力にして、其崇高温雅の態度は、人を威壓したものである。
監督職を辭した後、師が歸國せられた頃、三一大會堂の牧師が、療養のため伊豆の某地に在つたが、監督のコツクであつた某も、同時に同所に滯在した。或早朝某は牧師の許に來て、いかにも心配で堪らぬといふ樣子で、どうか私の爲に祈つて下さいといふ。仔細を問へば、某は云ふに、私は多年監督さんの恩顧を蒙りながら、いつも不平不足ばかり云つて、あのキリスト樣のやうな聖いお方の、思召に背いた事が屢でありました。昨夜監督さんの人格の高く淸い事を染々と思ふと、あの神々しい御姿が眼前に浮び來り、良心が責めて終夜眠る事ができませんでした。それ故に、私の罪過の赦さるゝやう、祈つて戴きたいと思ひまして、かく早朝に參りました次第ですと、懺悔と感恩の涙に咽んださうである。
監督は非常に子供を愛せられた。また子供に愛慕せられた。道を行く時も子供が遊んで居ると、近よつて金米糖の二三粒を與へ、其頭を撫し笑顏を見せて行かれた。訪問せらるゝ時は、監督さんがお出よと、先つ子供に歡迎せられた。監督は子供を膝に抱き上げ、接吻せんばかりに撫愛し、時計を出して見せたり、覺束ない日本語を交換したりして、此上なき慰めとせられた。時々町を歩いて居ると、ツト菓子屋に這入つて金米糖を仕入れられた。店員は美髯の西洋人、必らず多額の買物をなすならんと迎ふれば、何ぞ圖らん、大枚貳錢銅貨一個を出されんとは。
某聖職が英國に滯在中、一日倫敦の某公園にて、圖らず一人の英國婦人に呼び止められ、ウィリアムス監督の安否を問はれた。此婦人は曾て良人と倶に東京に住したりといふ。其頃、監督は屢ば同家を訪はれたるが、二人の間に生きた當時まだ幼なき小兒を、監督は寵愛し訪問の度に、其兒の頭を撫して、善き子よ將來聖職になれよと語り聽したさうである。彼の婦人は語つて曰く、監督の高風淸姿と其語とは、我が子の幼な心に深く印刻せられて、成長の後も忘れざりしが、幸に今は聖職に列りて、身を聖業に委ねつゝありと。
監督は何時何處にても、常に眞面目腐つて、宗敎や道德の話ばかりして、唯だ人をして窮屈の感を起させるやうな、世事に疎く人情を解せぬ偏屈人ではなかつた。時には意外の諧謔、無邪氣なる滑稽を弄して、破顏哄笑を禁ずる能はざらしめた。
現今は日本聖公會の先輩と仰がるゝ諸氏が、まだ神學生時代の事であつた。寄宿舍内に、鼠群大に跋扈して橫暴を極め、未來の牧師諸氏の本城を犯し、侵害掠奪を加ふること頻なりければ、諸氏は攻守同盟して、大に征討の策を講せざるを得ざるに至つた。茲に於て一日、參謀會議は開かれ、作戰計畫は凝されたるが、時に某氏一策を案じて曰く、吾聞く白鼠を放たば群鼠退去すと、請ふ之を試みたまへと、監督に上申した。監督は微笑しつゝ、然るか、さらば試みんと云はれたれば、衆議こに一決して散した。翌日監督は密にコツクに、鼠一疋生捕るべく命ぜられた。コツクは怪みながら唯々として命を奉じ、俄に庖厨を探索して一鼠を得、之を持參せしに、監督は更に命じて、全身に胡粉を塗らしめ之を寄宿舍内に放たしめた。荒れ狂ひたる鼠は、四方八方をかけ廻り、終に白鼠策提出者の室内に亂入し書籍器具及び衣服に至るまで、凡そ彼が觸るゝものに悉く胡粉を擦附け、追へば盆々狂ひ、狂へば愈々その亂暴狼藉を逞くするに、流石の白鼠策提出者も、此の新案の白鼠には僻易して、味方の援軍を切りに叫びければ、聲聽き付け馳せ參じたる同士の面々も、この爲體を見て抱腹絶倒したといふ。
また此頃の事一夜五六名の學生、一室に集合し、各々得意の辯を振つて、神學を講じ時事を論じ、古今の人物を評する等、盛んに談論に花を咲かせ、深更に至るも猶ほ止む景色はなかつた。隣室に臥されたる監督は、定めて安眠を妨げられたであらう。いつか起き出でゝスリツパの音靜々と、學生の室にやつて來られた。ソレ監督が來たぞと、學生は一時に靜まりかへつて、各々室隅に蹲踞り呼吸を凝して居つた。監督は戸を叩き御免なさいといふ。誰も沈默して應ふる者がない。此時某氏は生憎感冒にて頻りに咳嗽をせられたので、監督は某氏の名を呼んで、御免なさいといふ。名指された某氏は、ハイと據なき返事をした。監督は、貴下大そう咳嗽が出ます、これを食つて早くお寢みなさいと、何やら入れた器を置いて去られた。學生は隅の方から、這ひ寄つて同じやうに、甚麼御馳走だらうと、器を見ると、バタに砂糖がふりかけてあつた。一同顏見合せて唖然、これで談論中止となつて、一同ソコソコ各自の室に散じ歸つた。
監督の司式で結婚した新夫婦が、歸省するので暇乞に行つた。其時某は妙齡の妹を同伴したるが、餘談に入つてから監督は、やがて又結婚式がありますと眞面目くさつて話し出した。某は夫は結構です何誰ですかと尋ぬれば監督は側に坐した妹を指して、此方ですと云つて哄笑せられた。
昔、聖フランシスが、歡喜に充ちて道を進む時、行手に鳥の群が居たので、道を轉じて之れを避けしに彼等は飛び去らざるのみならず、恰も彼を歡迎するが如く、彼の周圍に群がり來たので、フランシスは彼等に向つて、兄弟鳥よと呼び、人に言ふごとく神の惠と愛護を語りたるに、鳥は其の頸を昂げ其翼を擴げ、其嘴を開き、恰も彼に謝するが如く彼を見詰めしが、手を擧げて祝福を與ふるに至つて飛び去れりと云ひ、又た駒鳥の一眷族は賓客の如く遇せられ、
雛鳥は食卓を往來して卓上の食物を啄みたりと云ひ、一小兎を捕へてフランシスに携へ來るものあるや、彼は來れ兄弟小兎と呼び、さも愛しげに之を撫で、軈て地上に置きて去らしめんとすれば、兎は幾度も彼に歸り來りたれば、遂に自ら之を近隣の森に携へ行きて放ち遣れりと云ふ。
是等の事は甚だ奇なる如くであるが、亦必ずしも其事無しと言ふべからず。其愛禽獸に及べる者は、亦禽獸に愛慕せらるゝは寧ろ當然なりと謂ふべきである。動物に對する同情甚だ深かつた監督に就ても、之に酷似たる事實があつた。京都烏丸に住した頃、毎朝澤山の雀が師の書齋の窓ガラスを打つて鳴きさゞめき、監督を呼ぶ合圖をした。窓が明つてをると雀は、臆せず室内に入り、遠慮なく卓上を往來した。後には監督の掌上のものを爭ひ啄むやうになつた。
是は監督が平素毎朝、パン屑や飯の殘物を雀に與へ、彼等を深く愛し彼等を養ふを樂とせられたからであつた。監督が歸國された翌日の朝、雀が餘り騷々しいので何事ならんとコツクが行つて見れば、多くの雀が窓ガラスを目がけて、飛びついては鳴き鳴いては飛びついてをつたそうである。聖フランシスの美しき物語も思ひ忍ばるゝ、寔に詩趣ある事實である。
監督は明治二十年日本聖公會第一總會の際、大勢の人と共に紀念撮影せられた外には、我國在留の間一度もレンズの前に立たれた事はなかつた。自分を吹聽することが大嫌であつた監督は、何時でも寫眞を撮るやうな場合になると、屹度姿を隱し撮影を避けられた。監督を敬慕する人士は、幾度か紀念として寫眞を懇請したが、一向に聽許なかつた。或る時、京都で監督が某氏と立談して居る處を、パットンといふ宣敎師がコツソリ寫眞したことが、後で露顯し、監督は大に怒り直に其種板を破毀すべしと命じたさうである。
監督の寫眞は到底得る事ができぬので、洋畫の素養ある某長老は、密かに監督の肖像畫を試みんと決し、朝夕監督に面接し、仔細に容貌を研究し、容美の發現に苦心し、多數の日子ご精力を傾盡して、一の肖像畫を作製した。之れ即ち氏の今も祕藏せらるゝ油繪にて、監督の面影を傅ふる上に於て、總會紀念撮影のものにまさるとの評あるものである。