明治二十八年二月、監督は京都地方に於て、長老の職務を執らるゝ事となり、同年二月中旬東京より京都に轉じ、同市三本木に日本家屋を借受け、敎役者家族と同棲し、京都聖三一敎會、五條講義所(後ち聖約翰敎會)大津基督敎會、堺聖提摩手敎會の主任長老となり、孜々として敎務に鞅掌せられた。同年八月居を大阪に移し、三十一年四月に至るまで、西區川口町に住された。前期諸敎會主任長老の職を執らるゝと與に、當時大阪にありし傳道女館の校長兼敎授として、祈禱書及び敎會歴史の二科を擔任し、婦人敎役者の養成に努められた。又た此頃師は、新傳道地開始の目的にて、越前、丹波、丹後地方の視察に赴かれたるが、歸來直に福井、舞鶴、宮津の傳道に着手し、自ら舞鶴、宮津新傳道地の任務を負はれた。三十一年四月、再び京都に居を移し、時には聖三一敎會附屬室に假居し、時には京都地方部監督事務所内の一室に起居せしが後ち烏丸に粗造の住宅を建てられた。此家は三十三年二月に落成したるが、師が我國在留五十年間に於て、自己のために建てられた最初の家にして、また最後の家であった。
其後之を五條なる聖約翰敎會の傍に移し、最後まで其處に住はれた。三十三年三月、長老パツトン氏聖三一敎會主任長老に任ぜられ、師が同敎會の任務は解かれたるも、更に同年七月岸和田に傳道を開始し、定住傳道師を遣し、師自ら日を定めて出張する事にせられた。斯くして師は、前記諸敎會及び新傳道地の主任長老として、出でゝは東奔西走、各地の牧會傳道に全力を盡し、京都に在つては、聖約翰敎會の敎務に盡瘁し、又た傳道女館(當時京都に移りし)に熱心敎鞭を執られた。明治三十年より同三十八年までは、師が京都地方に於て牧會に傳道に敎育に、全力を傾注し最も忙しく活動された時期であつて、是ぞ老後の思出の一合戰、最後の一大奮鬪であつた。
然ながら、師の内なる人は日々に新にして、剛健なりしとはいへ、八十路の坂に近き老體の事とて、痛くも窶れたまひ、衰弱は著しく人々の憂慮する所となつたのも、此頃からであつた。
三十二年中に、師は福知山から舞鶴に至る途中にて、人車轉覆し大負傷せられたことがあつたが、其後屡ば卒倒することがあるので、舞鶴、宮津の如き、當時阪鶴線は漸く福知山迄開通したばかりであつたから、かゝる遠隔の地に老體の師を、獨り赴かしむるは危險なりと、パートリツチ監督及び其他の人々は、師の身を氣遣ひて、他の長老をして代つて巡回せしむるやうと、頻に師に勸めたれど、氣丈の師は頑として聽き容れず、自己の任務のために他人を煩はすは快からずと、僅に冬季中出張を見合せたるのみにて、相變らず老軀を提げて巡回せられ、三十四年十月先に歸國されし長老グリンク氏が、再び來朝し新に舞鶴に赴任を命ぜられ、茲に代つて該地方の主任長老の職を執らるゝ人を得し迄は、一回も巡回の定日を缺さず、其職責を盡された。
明治三十六年十月三十日、師は瓢然として京都を去り、同三十一日橫濱を出帆し歸米の途に就かれた。此は、パートリツチ監督が、師の衰弱益々甚しきを憂ひ、容易に承諾がなかつた師に強ひて勸め、一年間休養すべく歸米せしめたのであつた。航海中師は病を發して、布哇に上陸し三週間程療養せられたるが、幸に快復し恙なく本國に到着し、カルホルニヤの親戚の許に在つて、靜養せられた。
滿一年の後、三十七年十月三十一日、米國より橫濱に歸着し、十一月一日再び瓢然として京都に歸り來られた。師は其去來を誰にも知らせなかつたから、人々は唯だ事の意外に驚くばかりであつた。再び京都に歸られた監督は、一年間の休養に、稍や健康を回復したる如く見へたるが、そは暫しの間であつた。氣丈にして容易に屈せぬ師は、京都聖約翰敎會、大津基督敎會、岸和田聖保羅敎會の主任長老として、其職を勵まれたるが、寄る歳波を如何にせん、三十八年の末頃には、一しほ窶れ果てられ、次第に視力は衰へ身體は自由を失ひ、悲しいかな、最早や當年の英姿健軀は、再び見る影だに無くなつた。然しながら、師はかくも老衰の身を以て、猶ほ大津岸和田に出張し、或は聖約翰敎會の敎務を執り、餘暇には敎會歴史問答編纂完成を忙がれた。
是より先、師は聖約翰敎會の聖堂建設を希望せられ、多年力を盡されたるが、遂に同敎會は師の盡力により、下京區寺町五條下るに土地を購求し、三十九年聖堂新築に着手するに至つた。此年八月、師は烏丸の自邸を聖約翰敎會新築地内に移した。明治四十年五月十六日師が多年の希望なりし聖約翰敎會新聖堂は竣工し、同日午前十時よりマキム監督司式の下に、莊嚴なる献堂式は執行せらるゝに至つた。基督敎週報は、當日の光景を報じて、左の如く記載した。
『五月十六日午前十時、マキム監督司式の下に執行せらる。參列の聖職は、ロイド、コルレル、グリング、ドーマン、カスバート、ライフスナイダー、近重、名出、早川、多川、山田、袋井、山邊の諸長老、菅、曾根、大橋、尾形、岡本、中村、村田の諸執事にして、名出長老は聖別書を朗讀し、早禱は村田執事、早川長老により捧げられ、第一日課は袋井長老、第二日課は山田長老使徒書と福音書は、山邊長老コルレル長老によりて讀れたり。此日の説敎者たる多川長老は、謹肅莊重の言を以て、會堂の神聖を説き、最も狹隘たるを以て有名なりし會堂が、此く莊嚴なるものとなりしに就ての感慨を述るや、敎會の關係者は何れも感極りて流涕を禁ずること能はざりき。此日聖餐に陪せしものは、諸聖職と敎會委員、奧山、南、佐野、東、安井の五氏に限られたり。會衆は百七十有餘にして、式後茶菓折詰の饗應ありき。老監督ウイリアムス氏は、式前忽ち去りて、大津に瀕死の病者を見舞はれ、式後歸り來りて、會員に滿腔の感謝と喜悅を表はされたり。』
當時我國の敎條視察に來りし、米國聖公會傳道會社理事長博士ロイド氏は、此の献堂式に參列せられたるが、本國に歸りし後、傳道會社機關紙上に掲載したる日本傳道視察談中に、献堂式參列の事を記し、且つウイリアムス監督に就き左の如く記述した。
『聖約翰敎會の聖別が、地方會終結の時に定められたるは眞に滿足の極なりき。建物は優に四百人を容るべく、階下を會館に用ひ得るやう都合よく出來居れり。相當の敎會堂を得たしとは、監督ウイリアムス師の多年の夢なりしが、當日此夢の實現の喜を同師と供にせんとて、來會せる人は滿堂の樣なりき。然るに肝心のウイリアムス監督は缺席して、姿を見せざりしは同師の特色とも謂ふべき歟、師は當日早朝マキム監督に一書を遺し、式中己の事に一言も言ひ及ばぬ樣呉々懇願して行方知れずになりぬ。説敎者は今ま東京聖三一敎會の牧師にして、嘗て聖約翰に於てウイリアムス師を助けて働きたる日本敎役者、多川幾造氏なりき。氏は成丈け監督の希望を尊重されたれども、其婉曲に同師の事を述べたるところは、自ら日本敎會の心を導きて、其第一監督を想はしめざるを得ざりき。
余は憶ふ。凡そ人、他人の爲めに働きて、此くも著しく人心を感動せしむるといふことは、洵に稀に人間の有する運命なりと、而して其感動や全く生涯と活動に、專心一意なるより來れるものなることは、日本人にも米人にも共に幸なることならずや。米國が日本の爲めに他に何事を爲すとも、(米國は文明の恩澤と共に隨分ひどきものを與へつゝあり)、日本の監督ウイリアムス師を與へたること丈けは、いかにも滿足の至りなり』(基督敎週報第十六卷第五號)
明治四拾壹年三月第四土曜日、師は例により岸和田に赴かれたるが、是ぞ師が最終の巡回であつた。此日は岸和田巡回の定日であつたので、同地の菅牧師はいつもの如く、師を停車場に出迎へしに、意外にも師は車掌に助けられ下車せしかば、何か異變にてもありしことかと、急ぎ馳せて手を取り參らせしに、師は菅氏を見らるゝや、菅よ余は再び岸和田に來る能ふまじと云ひ、非常に失望の體なりしゆへ、途中病氣の起りしかと尋ぬれば、否な少し疲勞せしのみと云ふ。人車にて菅氏宅に至りし後も、氣分勝れざるやうなれば、菅氏家族は大に心痛された。然るに夕刻に至りて機嫌平常に復し、何時もの如く子供等と戲れたれば、一同愁眉を開き、徐ろに途中の樣子を尋たるに、此日梅田驛にて下車の際、烈しく顛倒して一時は人事不省に陷つた。驛員に助けられ休息の後、人車にて難波驛に至り切符を求めんとせしに、如何にしけん、何處に行くのか思ひ出す能はず、驛夫や巡査が來て親切に沿線の驛名を順序列擧されしも、猶ほ思ひ出さず當惑せる折柄、堺聖提摩手敎會の一靑年來合せて、監督さん岸和田に御越ですか、と聲を掛られたので、漸く行先を知つたといふ事である。
師は仔細を語り終り、痛く落膽の態にて、余は老ひたり、余の爲には樂しきホームの岸和田に、再び來る能ふまじと嘆じられたさうである。あゝ師は老ひ給へり、衰へ給へり。血氣湧くが如き少壯の當年より、八十路の高齡に達するまで、五十年の生涯を我國に献げ、牧會に傳道に敎育に、其心血を注ぎ盡し、其體力を使ひ枯して、かくも老ひたまひ、衰へ給ふた。思ふに、岸和田最後巡回の此事ありて、師は私かに、最早無用爲すなきの老體となりたれば、日本に在りて敎友を煩さんよりは、寧ろ廢殘の老軀を故國の親戚に托しに行くは、今や我身の取るべき道なりとし、豫て決せる歸國の其日を、早むるに至つたであらう。とあれ斯の如くにして、師の牧會傳道の任務は、茲に其終局を結んだ。
明治四拾壹年四月一日より六日迄、大阪に於て開きたる日本聖公會第九回總會は、敎務局設置、監督敎區制定法等、最も重要なる件々を議定せしが、中に監督ウイリアムス師に關係ある左の二件は、滿場一致を以て可決した。p>
◎日本聖公會傳道開始五十年紀念運動に關する件。p>
(一)紀年傳道
左の各地に紀年傳道大説敎會を開く事p>
(イ)長崎 (福岡、熊本)
(ロ)大阪 (廣島、岡山、神戸)
(ハ)京都 (金澤、奈良、和歌山)
(二)東京 (名古屋、靜岡、橫濱、前橋、長崎、仙臺、靑森)
(ホ)函館 (小樽、札幌、旭川)p>
右の實行を日本聖公會傳道局に托し之に要する費用として北海道地方より百圓他の五地方より百五十圓づゝ出金すべき事但し其他の費用は開會地の負擔とす。p>
(二)紀年禮拜
明治四拾貳年七月 日乃ち退職監督ウイリアムス師到着の日を以て傳道紀年禮拜日となし各敎會及各講義所に於て紀年禮拜を行ひ日本傳道に關する説敎をなし當日に用ふべき特禱の制定及び當日の説敎の題詞の選定は諸監督に依賴する事。
當日信施を紀年傳道の爲め寄附する事。p>
◎ウイリアムス監督に謝意を表する件p>
退職監督ウイリアムス師の傳道五十年間の功勞に對し、謝意を表すること其實行方法を日本聖公會敎務局員に依囑する事。p>
日本聖公會が、將に日本傳道開始五十年を迎へんとするに當り、第九回總會に於て、過去五十年間の神恩を記臆し、感謝の祭として、ウイリアムス監督の最初の上陸地なる長崎より初め、北海道に至る迄、全國大都市に於て傳道運動をなす事を決議し、且つ聖公會傳道事業の開始者日本聖公會第壹の監督たる師に對し、斯の如く、日本聖公會全體の敬意と感謝を表せられたるは、最も恰當なる處置であつて、また正に爲すべき義務であつた。p>
回顧すれば、安政六年、師が日本に於ける新敎の第壹宣敎師として、長崎に上陸してより、五十年後の明治四拾貳年には、日本の新敎は八百八十五人の外國宣敎師と、四百六十三人の日本牧師と、五百六十二人の男傳道師と、三百五十四人の女傳道師を有し、五百二十九の敎會と、六萬有餘の信徒を有する一大勢力となつた。師か唯だ一人、日本に於ける聖公會の宣敎師として、七年間長崎に在留したるも、一人の改宗者も得ざりし當時よりは、五十年に足らぬ明治四十二年には、六十九人の外國宣敎師と七十八人の邦人聖職と、二百四人の男女傳道師と、一萬二千八百七十人の信徒を有する、堂々たる日本聖公會となった。此半世紀前傳道を開始し、此半世紀間努力奮鬪し、而して、此半世紀後の進歩を目撃せられたる師は、第九回總會開會の當時、其老衰の體を京都五條の隱棲に橫たへながらも、遙かに心を日本聖公會第九回總會に通はしめて、今昔の感に堪へず、その言ひ知れぬ滿足と喜悅に、幾度か感謝讚美を神に捧げたであらう。p>
日本に於て第九回總會が監督ウイリアムス師に關する如上の決議をした此年の十月、米國に於てボストン市に開會せし監督會議は、師に對し勳功承認の左の決議をした。p>
千九百四年監督會議の決議p>
總會開會の第三日、即ち十月七日に於て、ミズーラ敎區の監督なる總會議長は、左の議案を提出し、會議は之を可決し、同時に監督ウイリアムス師に傳達せんことを命じたり。p>
ボストン市に開かれたる總會に集まれる監督等は、茲に其年長議員が立法部より退隱せしと雖も、今日ヴアジニヤ州の故山を訪れつゝあることを認めんことを希望す。監督博士チヤンニング、ムアー、ウイリアムス師が、江戸監督の職を辭して以來十五ケ年を經過したれども、此星霜は決して退隱無爲の時にあらずして、活發なる成功的傳道の日月なり。監督職衣は之を脱したれども、聖なる説敎家、愛に富める牧師、熱心なる傳道者としての生涯は、瞬間だにも休みたることなし。
監督ウイリアムス師は、一千八百六十六年支那日本の傳道監督となり、一千八百七十四年に江戸傳道監督となれり。師は實に日本に於ける我がミツシヨンの父なり。其生涯の聖く其事業の利己心を脱せる、將た又傳道心の旺盛なる、氏の生靈に對する善事業をして、實に歴史上の聖人の其れの如く有力ならしめたり。殊に此かる偉生涯が支那日本以外に聞へざるは其をして一層深く一層高潔に、一層強健に一層感深からしむるものなり。
監督會議は謹みて、監督ウイリアムス師の外國傳道地に於ける半世紀の間(あひだ)の忠實なる働を認むるの光榮を有す。會議は其友愛を師に呈す。會議は感謝の念を以て師を歡迎す。蓋し師は地に戰ふ敎會の率先者として、又は兵卒として、我等の主の克己の足跡を踏むの規範を我等に示したり。會議は人としてこの祝福を師に呈し、又今後師の働の上に聖靈の恩寵の加へられ、其首に神の平和の降らんことを祈り、且つ今や師の晩年に於て、其夕暮の化して光輝ある天の故鄕の朝とならんことを熱望す。p>
監督會議長 ダニエル・タツトル
書記 サミユエル・ハートp>
日本聖公會第九總會が成功を以て終りし後の三週目、明治四拾壹年四月貳拾九日、師は瓢然として京都を去り、同參拾日橫濱出帆のサイベリヤ號に乘船して、五十年献身精勵の地、其愛する日本の國土を後にし、光榮ある生涯の餘命を故國に送らんがために、米國に向つて出發せられた。
師はいつかは歸國すべしとの意を洩らしたれど、いよいよ出發の時日に就ては、パートリツヂ監督及び一二人の外には、誰にも告げず、多年事へしコックの友吉は嚴しく口外を戒められた。中には之を傳へ聞きて暇乞に行つた人もあつたが、師は歸國に就ては決して一言も語られなんだ。貳拾九日午前八時、師ははパートリツヂ監督及コックの友吉に伴はれ七條停車場より、神戸發富山行列車に乘り込み、馬場驛に下車し、同驛にて更に神戸發新橋行急行列車を待受け、十時同驛出發橫濱に向ひ、其夜橫濱ホテルに一泊し、翌參拾日午後出帆せられたのである。p>
師が出發の二日前師を京都に訪ひたる某氏は、當時の事情を沈痛悲壯なる語調にて語つて曰く、p>
『監督ウイリアムス師は、遠からず歸國せらるゝと聞き、余は四月貳拾七日師を京都の隱棲に訪ひぬ。時に師は忠僕秋山夫婦と共に、書齋に於て朝禱を捧げんとしつゝありき。余は師の依賴により代て式を司りぬ。師は視力衰へ日課祈禱書の朗讀すらなすに堪へざりき。噫、さても衰へ給へる哉。
朝禱後余は師と暫時會談の機を得たり。余は第九總會に於ては、明年聖公會傳道開始五十年に相當するを以て、之を紀念せん爲に傳道運動をなす事を決議し、又貴下の長崎上陸の日を卜して、全日本聖公會は紀念禮拜式を執行する事に定めたりと語りしに、師は非常(ひじゃう)に滿足の樣子にて之に贊同せられたり。然れども、日本最初の宣敎者は自分に非ず、ジヨン,リギンス氏なれば、同氏上陸の日を以て禮拜日となすが可ならん、自分の名の如きは顯すべからずと語りたまひぬ。余は貴下近日歸國せらると聞きしが如何にと問ひしに、師は人はさう申します。一人が言へばだんだん擴つて來ます。私歸らうと思へば直ぐ歸りますと答へられしのみ、竟に歸國の時日を洩されざりき。余は去るに臨み永別と知りつゝ別を告る能はず、師も亦無言に余が手を取り余が身に其老軀をさゝへつゝ、余を玄關に送り暫し佇みて余の去るを目送されぬ。あゝ其の温乎たる容、崇高なる風姿、地上再び接するの機會ありやを思へば、余は低徊顧望去るに忍びざりき。當時の感余は到底筆舌に堪えざるなり。
翌日師は瓢然京都を去りぬ。師の歸國を聞きて私かに告別に來りし三四の敎役者に送られ、橫濱よりサイベリア號に乘船し、茲に日本宣敎五十年の大使命を全く終へ、其光榮ある生涯の餘命を鄕里に過さんために出發せられぬ。
我が日本聖公會が師の如き聖徒を、最初の宣敎師、第壱の日本監督として與へられしは、主の特殊なる恩寵として感謝すると共に、斯る聖徒を遣りし母敎會なる米國聖公會に感謝せざるべからず。吾人は師の活ける生涯のみならず、其尊體をも我が聖公會の重寶として、與へられんことを希望したりしに、米國にある師の親族は切りに歸國を促し、師若し生前歸國せざるに於ては、遺骸は必ず本國に移して埋むべしとの議を決したりと。されば師は永眠後かゝる手數を煩さんことを恐れて、終にいつかは歸國すべしと決心しつゝありしに、近來益々衰弱は加りたれば、最早老朽爲すなしと自ら感ぜられ、此上は一日も早く己れ歸國せば、代りて一人の新宣敎師を送らるべき餘地を生ずべしと、さてこそ斯く吾人が期せしよりも早く、涙を揮つて其愛する我國を去るに至りしなりといふ。あゝ何等の無私、何等の献身、何等の忠誠ぞ』。(惠の音所載)p>
師が橫濱出帆の際、私かに永別の情を表せん爲に至りし兄弟は、當時の事を左の如く基督敎週報紙上に記載した。p>
『監督チヤニング、ムーア、ウイリアムス先生は、去月廿九日いよいよ復び歸らざる覺悟を以て故國北米合衆國に向つて橫濱を出發されたり。元來先生は日本を以て墳墓の地と定められたるものゝ如く、主に對する忠勤の殘軀をば、久へに日本の一片の土と化し了らんことを素志とせられしよう見へしが、如何なる事情ありけん、俄かに最終の歸鄕を爲すべく決意せられ、内外友人の切なる懇願あるにも關らず、先生の特質として一旦決定したることを動かさるべくもあらずして愈々出發に決したり。先生の明言せらるゝ理由としては、余は最早無用爲すなきの老體となりたれば、此廢殘の老軀を故國にありて歸國を切望する姪の手に托しに行くなり、且つ余歸國せば余の代りに好き人物を送らるべし、祈禱は米國にありても日本の爲めに献げ得べしと。左れど此老軀は日本の土とせぬには餘りに貴重なるものを、遺憾極りなしと謂ふべし。豫ての氣質なれば先生は出發の際の送別見送を厭ひ、歸國といふを一切祕密に附し、突然四月二十九日午前八時二十三分纔かにバートリツヂ監督及忠僕秋山友次郞に伴はれて、多年住馴れし京都を發し、同夜橫濱に一泊し翌三十日十一時半ボートにて本船サイベリヤ號に移られたり。
祕密歸國の素志を尊敬して略々先生の出發を聞知せるものも敢て來る者なかりしが、しかも多年の敎導感化を受けたる三四の日本人は、先生の同行人世話人なるガーデナー氏見送の名の下に、橫濱埠頭に先生を待受けて、せめて其後影なりとも見送らんと企つるを禁ぞざりき。十一時二十五分早くも先生は、ガーデナー氏及橫濱の英國牧師リウスチン二氏の肩に双手をかけ、殆んど吊下らんばかりになりて石階を下り乘込棧橋に來る。當年の颯爽健脚今安くぞさても衰へ給へる哉、見送る者暗涙あるのみ。特に賃したる西洋形ボートは橋に附して橫れり。ボート長は前兩氏に力を合せて辛ふじて艀船に移す。先生初めて橋上の人に正面す。舊容依然たりといへども、高齡と共に枯れ行きたる血を奈何にせん、淸姿ひたすら白くして大理石の如く、色は浦の春風に吹き亂さるゝ銀色の鬚髮を欺く。五十年献身精勵の地、今や足趾長く其土を離る、豈に無限の感慨なからんや。帽を脱し、首を上げ、視力衰へたる兩眼を以て橋上のを頻りに打眺め給ふ。見送人等此に於て帽を脱し聲をあげ訣別の辭を述ぶ。やがて艀舟は漕ぎ出でぬ。見送人中の數名は本船迄別のボートにて漕ぎ附けぬ。幸に舟房に歡迎されて懷舊の談、感謝の陳述、訣別の感など長時間打語らふを得たりしは羨ましきことゝ謂うふべし。午後三時、無情の火船は汽笛と共に此無價の分捕を載せて、東の方茫々たる潮の八重路に上りぬ。』