師は安政六年六月我國に來任し、以來約八年間、幕末史上最も多難多事なりし時期を長崎に過し、慶應二年三月、幕府衰亡の氣運愈々迫り、將に一大變革の起らんとしつゝある我が國を後にして本國に歸られた、而して師が支那日本傳道監督として、再び我國に來りし時ははや舊幕府は倒れて、維新空前の大革命既に成れる明治元年であつた。舊日本をして新日本たらしめたる此一大變遷の時期の我政界は、師は最も興味を以て注目したであらう。
此頃師が本國へ送りし書簡中には、當時の政治上の状態を記述し、又之に論及する所は尠くない。以下に列擧する者は其二三に過ぎぬが、以て師が時運の進行に周到なる注意を拂はれたる事を推知するに足るであらう。千八百六十二年(文久二年)一月通信中に曰く、
『茲に政治上に於て注目すべき若干の事柄有之、之れ實質的に我等の働きに影響可致故に候。第一日本政府が其商人の貿易の目的を以て、外國に渡航することを許したることに候。勿論此許可に伴ふ條件の如何は、未だ公にせられず、初の内は必ず多くの制限の附せらるべきは疑ひ無之候得共、假令如何に狹隘なる制限の附せらるゝにせよ、確かに之れ將來無制限の交通に向つて、更に一ツの間隙を供するものなること疑なく、從來日本人にして一度其國を去るものは、假設暴風の爲に漂流したる場合と雖も、再び國に歸ることを許さずといふ、近頃まで實施せられたる法律の一大進歩と存じ候。此新法律は來春より實施せらるべく、目下商人にして其恩澤に浴して海外渡航の準備をなせるもの尠からず、彼等は既に之が爲に一船を長崎に於て、又二船を神奈川に於て買入れたりと承り候。
此傾向に伴ひて日本政府は又た特使を、英國及佛蘭西に派遣することを決定し、近々出發せしむることに相定り候。斯る訪問は必ず日本人の眼界を擴張し、外國との交通に於て、一層自由なる政策を執らしむるに至ること疑ひ無之候。
乍去、茲に最も我等の働きに影響するの虞ある事柄は、日本と或強國との間に戰端を開かれんことに候。固より其事は何時起るべきか知る者之無候得共、仕切りに戰爭の開かれん事を恐るゝ人々尠からず、例せば日本人が妄りに外國人を殺傷するが如き、英國公使館を襲撃するが如き、或は日本人が條約の明文を守らず、若くは外國の個人又は官吏が、屡々日本人に對して激怒の原因を與ふる如き事柄が、此上尚も續生至候に於ては、勢ひ戰爭に立ち至らざるを得るべく候。
既に去る頃も露西亞人が炭水の爲に、九州の西部對馬に上陸せし一件の如きは、貴下も既に御承知の事と存候。當時日本人は非常に恐慌を起し、之れ必ず露西亞が南方の港を得んとの、世にも有名なる希望よりして、此島を永久に占領せんとの野心に出でたる者と解し、事態甚だ容易ならざる形勢を示し候より、英國提督は餘儀なく露西亞船に對して、其目的のある所を詰問致したる次第に候。
固より今日の日本は、其進運誠に些々たることに候得共、過去を回想すれば、既に幾分の進歩の見るべきあり、我等は此國の前途必ず洋々たる希望あるべきを信じ候。故に我等は毫も失望すべき謂れ無之、今迄になしたることは、我等の希望に對して如何に些少なるにせよ、既に幾分の光明と生命と自由とを、多くの滅びんとする靈魂に向つて與ふる所あり、此上神の惠の豐かに加えらるゝに於ては、必ず我等の事業を增進し給ふべく、神は僅少なる手段と器とを以て、多くの慶福を與え給ふべく候。
願くは神を信ずる人々の祈祷が神の御聽に達し我等が爲したる小さき働の上に惠を下し給ひ、我等が蒔きたる種は、聖靈の恩化によりて、芽を生じ實を結び、救拯の福音を此異敎土に宣傳する爲に、其門戸を開於せしめ給はんことを切に祈る處に候。』
千八百六十四年(元治元年)一月通信中に曰く、
『薩州候が英國政府の要求に應じて、賞金を拂ひ候ことは、貴下既に新聞紙上にて、御承知と存候。此事の爲に難件全く落着し、最早開戰の恐れ全くなきに至り候。尚又越前候は今や其港を擴張し、浚渫致居候。是れは外國人を防ぐ爲の、防備工事に金を費やすにはあらずして、只港を改良し外人を來らしむる爲めとのことに候。越前藩主の父は、數年前政治上の理由により、其職を退きし人に候ふが、大に其子息の劃策に同意せられ候。
此老候は日本に於ける最も知識深く度量廣き一人に候。此人は去る頃、諸大名と共に京都に出でゝ、帝に拜謁し、攘夷の企ての不可なることを奏して、其採決を取消さしめたる一運動の率先者(否實は其計劃の發起人)に有之候。今此大名が其境を擴張せることは、思ふに之れ他の大名と、竊に協商して其港を開かしむるに至るべく、薩州候も亦其港を開かんとの意向ありと申すことに御座候。將軍は近々更に一使節を歐羅巴に遣はして、橫濱港閉鎖の承諾を諸外國より得んと致候。此度の使節は外國軍艦には依らずして、大陸橫斷の汽車にて行く由に承り候。』
千八百六十八年(明治元年一月通信中に曰く、
『目下日本に於ては、形勢の變動極めて著しきもの有之候。兼て豫期せられたる如く、諸大名若くは其の有力者の臣下等は、將軍の權力を廢し若くは大いに之を變革して、帝を其の正當の位地に恢復し、名實共に此の國の皇帝たらしめんとの決心を抱けるものゝ如くに候。過る二百年以上の間此の國の帝は、只虚器を擁して禁隔の生涯を送らせられ、(中略)其の一言一行をも嚴密に規定せる法規の爲に束縛せられ給ひ、政府に實務は主として、將軍及び其の内閣の處理に任じ、極めて緊要なる事件のみを帝に奏聞して其の勅栽を仰ぎ來り候。
乍去、此の勅許の事は僅に形式に止り、假令ひ帝意が或る政策に批准を拒むことありとも、將軍の政府は帝意に反して事を處するを憚らず候。例せば此の國をして西洋諸國との交際を開かしめたる提督ペリーとの條約の如きも、將軍の政府が朝廷の御意に反して、處置したるものに御座候。曩に此の案件の帝に奏聞せられし時、帝は多くの攘夷論者の意見を聽きて、斷然其勅許を拒み給ひ候。されども將軍の政府か斯く皇帝の峻拒あるにも拘らず、竊に條約を締結仕候。此幕府の處置は爾來此國に生じたる多くの内訌及紛擾の原因たりしこと申までも無之候。
從來大名等は、太閤樣の後繼者たる權現樣の嚴命により一年中六ヶ月間は、江戸に住居することを餘儀なくせられ、而して其の領國を訪ふ時にも、家族を携ふることを許されず、家族等は實際人質の有樣にて江戸に抑留せられ候。之れ即ち大名等は將軍に對する忠誠の保證にして、敢て叛亂を企てさることを確證するの政策に有之候。されば有力なる諸大名は將軍の斯る待遇に甚だ慊焉たるもの茲に年あり、此等の大名等は將軍を見ること、矢張自己と同じく大名の大なる者にして、謂はゞ其同僚に過ぎざるものと見做し居候。
而して近頃幕府が諸外國と條約を結びてより以來、大名等は將軍に迫りて、自己の領國に家族と共に永住することを許可せしめ候。爾來大名は皇帝を擁して其權力を高め、以て將軍の權力を削減せんと企つるの形勢掩ふべからざるに至り候。殊に大名の中には自己の領國に於て港を開くことに反對する政策に對して、幕府に不滿を抱き居り候。之夫等開港地より取上ぐる輸出入の關税が、大名の競爭者たり、甚しきは其敵視せる將軍の府庫に入るが故に御座候。是に於て大名等は新に法度を設けて、各自の大名をして自ら港を開くことを得せしむるか、若くは此上開港を中止せんことを希望し、中には既に開きたる港をも閉鎖せんと主張するものも有之候。されば本年一月一日に於ける兵庫、及び大阪の開港は、茲に一大危機を生じ、帝は大名の會議を召集して、此國の未來の政策を決定せんとせられ候。
是に於て現將軍一橋卿は、自己に對して形造られし同盟の優勢に、抵抗すべからざるを覺りしにや、止むなくも其職を辭せられ候。然れども其辭職は帝之を容れ給はず、目下大名會議の議員等は、既に都に上り居候得共、尚未だ參集せざる者ありて、會議は未だ進行を始むるに至らず候。
この會議を開かるゝに先ちて、三大侯は、將軍に反對致候。即ち薩州、長州、及土州の侯は殆どクーデタにも等しき高壓手段を取り、皇居の周圍には其軍隊を配置して、事實上帝を其手中に入れ、嚴に帝と將軍との交通を遮斷致候。勿論、之等諸侯の口實とする處は將軍が帝に對して不當の勢力を揮ふことを防ぎ、帝をして自由に其の御意の存する處を、發表せしめんとの揚言に有之候得共、彼等諸侯の眞意は皇帝をして、自己等の政策を勅許せしめ、以て全然將軍職を廢棄するか、或は少くとも現今の政體を、大に變革するを目的と致候由に御座候。
斯る事變の直接の結果、如何あるべきかを豫見するは困難に御座候得共、兔に角將來は外國に對し一層寬大なる方針を執るに立ち至り可申と存候。將軍は外國人に對して大いに厚意を有し居られ候。而して右の三大侯は黨派的の目的の爲に一時異りたる政略を取り候得共、之れ等諸侯は元來識廣き人々に御座候得ば、必ず行く行くは西洋諸國との交通を一層自由にするに賛同いたすべく候。
要するに之等の變革は皆福音の宣傳を助くるの傾向を有し候。基督敎を此國に無制限に宣傳することは、恐く諸侯各自の獨立行動によりて許さるゝに至るべく候。當國在留の宣敎師、商人及智識ある日本人より聞く處を綜合すれば、拙者は遠からずして基督敎を敎ふる爲めに、自由に内地諸國に入り込み得るに至るべく、只其條件としては一日數時間、英語、數學等を敎ふることに候。一人の位高き役人にして、其君侯に遣はされ、物品を買ひ入れ、且事情を探る爲めに、米國に行きて近頃歸り來りし人有之候ふが、拙者が其人の土地に至りて定住せんことを熱心に勸められ候。其人の謂ふ所によれば、其君侯は日本に於て最も寬大なる諸侯の一人にして、
必ず拙者を歡迎せらるべしとのことに候。
此君侯の父は數年前一の上奏書を皇帝に呈して候ふが、此國の進歩の爲に進言したる箇條の一に、只今西洋諸國に行はるゝ所謂邪敎は、以前此國に傳えられたる基督敎とは全く異りたるものにして、假令日本が之を採用して實地に行はしむるも、決して此の國を亡ぼし若くは損害する如き、宗派は生じ間敷候との言葉有之候。』
千八百六十八年(明治元年)二月通信中に曰く、
『前便にて申上候以來の日本の事情は、諸大名が愈々公然と將軍に反對し、其軍勢を撃破し、將軍は直に江戸に遁れ歸りて堅く同市の入口を固め、征討軍の攻撃を豫期して兵力を集中致し候。大阪兵庫及長崎は既に大名軍の手に落ち、大名等は帝の御名よつて、此等の土地を支配すと揚言致候。而して大名等は將軍の味方なりと思はるゝ、北方の諸國に於ける大名等に向つて、遠征の準備おさおさ怠りなく、既に出兵の運びに至り候。彼等は東北の諸大名に向つて、將軍の輩下を脱して、勝ちたる大名と同盟し、帝に服從せんことを強要致候。若し違背あるに於ては、直ちに之を攻撃して其領土を沒收すべしと威赫致候。』
千八百六十八年(明治元年)十二月通信中に曰く、
『現今日本の政府は驚くべき速度を以て變化致居候。去る一月小生が日本を通過致し候時には、將軍は殆んど最上の權を有して、事實上の皇帝に有之候ひしが、其以來薩長土三藩の率ふる南方諸侯の爲に撃破せられて、將軍は悉く其權力を剥奪せられ、其宗廟の地なる駿河に退隱を命ぜられ、帝より若干の祿を與えらるゝことと相成申候。帝は其頃に至る迄は禁裡御所の裡に屏居ましまして、神の子孫と見做され、一の活き神と認められ、凡人の眼を以て仰ぎ見る可らざるものと思惟せられ給ひしに引換えて、今や其殆んど國囚たるの状態を免れ給ひ、人民に見え、外國の使臣を接見し、海軍の演習を御覽じては、之れ大なる河なりと宣ひしと傳へられ、今や江戸に向かつて行幸遊ばされ候。嗚呼日本人が數千年來、神聖視せし傳説と所見を、僅々數月にして斯く迄全然と放棄せしことは、實に驚嘆に値することに候はずや。(中略)
方今此國の政治を指導せる若干の領袖は、日本を立憲君國になすの希望を有せるものゝ如く去る六月京都に於て會議を開き、其討議の結果として、甚だ自由なる憲法草案を提出せり。此憲法は多くの點に於て、合衆國の憲法を模傚したるものゝ如く、議會には上下兩院ありて、萬事を自由討議に據り、多數を以て決せんとするものに候。議席を有し得べき人々の種類は規定せられあれど、各院幾何名の議員より成るべきやは明かにせず、且其選擧若くは任命の法に就きても云う所無之候。之れ第一の試みなれば、必然其不完全なるを免れざるべく、之が圓滑に行はるゝ迄には、多くの改正を要す可く候。尚又た之を實行するの時期に就きても、未だ云ふ所無く、或日本人は此變革を尚早しと唱へ居り候得ば、其實行せらるゝには、尚多くの時を要すべく候。而して其反對に立てる有力なる黨派も有之ことなれば、餘りに事を急がざるを最良とすべく、若し急激の變革を施すに於ては、反動を生ずるの恐れ可有之候。
近頃此國に於て、大に古神道を振作せんとの努力行われ、此努力は人民をして凡て外來の宗敎を棄てゝ、彼等が祖先の舊信仰を保持せしめんとするものにして、既に其布告を長崎に於て官憲より公示せられたりと申すことに候。此政策は佛敎並に基督敎を共に排せんとするものにして、夫れが爲めにや、近頃佛敎徒に對して斷然たる敵意を示され候。長崎に於ける一佛敎僧が拙者に通知して申すには、近頃佛敎に反對するの布告發せられたれども、其後政府は佛敎僧の代表者よりの抗議の爲めに此布告を撤回せりとのことに候。
且つ其云ふ處に依れば、長崎にては既に十箇の寺院は知事の命に依りて全然破壞せられ、而して神道の徒は大活動を起し、新らしき神宮を建設し、特に集會を開きて公然説敎致し居る由に候。尚又た其眞僞は保證し難く候得共薩摩に於ては、佛敎徒は全く禁遏せられたりとのことに候。而して拙者の見る處に依れば、佛敎を壓迫して神道を奬勵するは基督敎の爲めに有利なるべく候。』
一千八百五十五年十一月、本國出發以來師の同勞の友なるジョン、リギンス師は、安政六年五月病氣療養の爲に、我國に來り長崎に在留中、日本傳道の任命に接し、直に其任務に就きたるが、在留僅に十ヶ月にして宿痾再發し、蔓延元年二月二十四日歸國するの止むを得ざるに至つた。師の在職は僅に十ヶ月の少期間なりしが日本語を學習し、有志者に英語を敎授し、聖書類書或は科學書を人々に與へ、或は基督敎に對する誤解を解く等大に努むる所があつた。師また英和對譯日用語一千題と題する書を著したるが、頗る好評を博し版を重ぬること數回なりしといふ。殊に師が力を盡されたるは、基督敎に對する人民の誤解を解き偏見を打破し、以て將來の直接傳道のために道を備ふるには、基督敎を混淆せる科學書を使用し、一は以て科學的知識を與へ、一は以て宗敎的知識を與ふるを最も得策なりとし、支那に於て宣敎師の編纂せる此種の書類を取寄せ知識を渇望せる人々の手に廣く是等を行渡らしたことである。當時師の書信中に此種の書籍に付き下の如く記されてある。
『目下小生の時間は、國語學習と、左記書籍賣却取扱に費され居り候。書籍は漢文書にて既に多數賣却いたし申候。
シルナー氏英國歴史
ブリツヂマン氏合衆國史
ウエー氏地理提要
ムアーヘット氏地文學
同 歴史地理
インスリー氏月刊雜誌
ホブソン氏物理學
同 外科術
同 醫學
ウイリヤムソン氏植物學
ガズラツフ氏萬國史要
以上の書籍を今日まで、千部以上賣却いたし候が、購求者は日本上流社會の人士に候。其等の書の多くは、慥に日本人の手により再版せられ、帝國内に廣く行き渡りたる事と存候。支那に於て米國宣敎師の編輯せられたる、四の科學書は既に飜譯せられ、知識を渇望する此人民により出版せられ候。然ながら、以上の書籍の配布より、期待せらるゝ好結果は多くとも、小生は單に之れのみにて決して滿足する能はず候。小生は、神奈川に至らば、聖書販賣を回復する積りに候。若し官憲が干渉を企つるならば、兼て約せるハリス氏の保護を要請致す可く候。然し彼等は左樣爲すまじと存候。而して人民が聖書を讀むに由りて、基督敎を大いに誤解したることを悟り、多くの人々は、聖靈の祐助に由り、耶蘇にある救の知識に導かるゝに至らんことは小生の信じて疑はざる所に候』と。
師はまた、當時米國に於て、我國が基督敎國禁を解かず、開國とはいへ實は鎖國も同樣の状態にて、宣敎師は直接傳道を爲す能はざれば、かゝる地に宣敎師を派遣するは、無益にはあらざるかとの疑問、多くの人々の間に起りつゝありたれば、大に日本傳道の爲めに辨じ、現在日本に於て宣敎師の爲し得る所、數々條を列擧して、宣敎師派遣の必要を論じた。師は熱烈なる傳道心を有し、言論巧に文筆に長じ、經綸の才に富める人なりしものゝ如し。師にして若し長く我國に在留したならば、我が基督敎界に貢献する所多大であつたらう。
米國聖公會傳道局總會が、日本傳道開始を決議し、リギンス及びウイリヤムス兩氏を、日本宣敎師に任命したる時、兩師の外に更に一名の宣敎醫師を派遣することを決議し、傳道局委員は印刷物を以て、適當の資格ある醫師を募集したるが、此募集に應じて我國に來任したる宣敎醫師は、エイチ、イ、シユミツト氏である。氏は一千八百六十年(萬延元年)四月、長崎に來着した。當時我國の醫學は未だ進歩せざりしを以て、氏の事業は大に成功し、傳道上に貢献せし所も尠からざりしが、氏も亦健康を害し、在職僅に一年有餘にして、翌年(文久元年)十一月、歸國せざるべからざるに至つた。左の書簡は氏が長崎來着後、本國傳道局に致せるものである。
『拜啓、小生は途中無事支那に到着致せし後、早速一書を呈し置候。爾後日本に參り候てより、既に二ケ月、上海より當地への最も愉快なる旅行をなしたることを、茲に御報道申上候。當地方には未だ規則正しき郵便の制度無之、夫れが爲に斯く報告の遲延致せし次第に候。小生は到着以來今回が漸く通信を送る第二の機會に御座候。第一の機會は小生が到着後僅々數日の中にありたる事に候。
扨ウイリアムス氏は、孜々として日本語を學習し居られ、既に必要なる事丈けは、日本語にて語られ候。小生の如きは勿論日本語及び醫術を漸く相初めし所に候。小生曩に上海に於て、支那人の病者を治療し、又我國の宣敎師を診察致し居りし時、支那人の病者を治療することは、甚だ不結果に候ひき。何となれば彼等は只だ暫く外國醫者の藥を用ひ、若し容易に治癒せざる時は、復た土着の醫者に歸り行き候而巳ならず、養生の如きも醫者の指圖に從はず、又藥を處方通り使用致さず候。然るに、日本に於ても矢張同樣の思想有之候ふが、只小生は夫れが支那人程には甚しからざることを希望致候。
小生の所見によれば、從來日本の事情に就ては、概して針小棒大の報道多きやに考へ候。日本の事を書く人々に、由來二種類有之、一種の人は熱心なる日本贔負にして、此國の事情に就て何等の缺點をも見ざる人々に候。今一種の人々は所謂瞥見者にて、只だ數日間此國に止りて、大體の事情を一寸眺めたるのみにて、夫れで日本に就ての書籍を書きたがる人々に候。斯る人々は常に手帳と鉛筆を手にして、事物を見るが儘、聞くが儘に記し付け、以て書籍を製造する人々に候。
小生の見る所にては、日本人は嘆美すべき所ある人種に候。彼等は概して禮儀厚く親切にして殊に其偉大なる點は、進歩を喜ぶ民に御座候。之れ即ち日本人品格の大資質に有之、現今文明の點に於て一歩を進み居れる支那人よりも、他日必ず日本人は一頭地を拔くこと可有之候。されど日本人は嘘を吐き物を盜み人を欺くことに於ては、支那人と敢て變り無之、是れ許りは日本通の人々が如何に辨護するとも、蔽ふ可らざる事實に御座候。』
一千八百六十一年一月、書信の一節に曰く。
『小生は今や若干の醫學生を得て、英語を敎授いたし初め候。此敎授は是より四ヶ月間、相續くる積に候。小生の目的は、日本語に譯し能はざる醫學上の術語を彼等に了解せしめ、以て將來誤解の虞なく、彼等を使用せん爲めに候。小生は又た英和對照の醫學字彙を編纂致居候。……………
前述の學生の外に更に一級を設けて英語を敎授致し居候。右の次第に就き小生中々多忙に御座候。』
ウイリヤムス師の書信中、師の事業に就き語る所あり、其一、二を掲ぐれば、
『我等の宣敎事業にて、轉た人意を強ふするに足るべき一方面有之候。之を報告するは他に其人有之候得共、拙者も亦茲に一言するを禁ぜざる次第に候。即ち當國人間に施せる醫療事業にしてシユミツト博士は、日本人間に其本職を以て天晴れ成功致し居り候。既に多くの難病者を扱ひて着々其効を奏し、從て熟練の令名を博し居られ候。
同博士が治療の効と病者に對する親切とは多くの患者を引着け、遠方より來りて氏の診斷を請ふ者も多く、患者の數は駸々として增加致候に付、久しからずして同博士一人の手にては、便じ能はざるに至るべしと存候…………』
『シユミツト博士が不健康の爲に、餘儀なくミツシヨンを辭して、本國に歸られたることは、貴下既に御承知と存候。同博士の熟練は大に日本人の賞讃を博し、其業は同博士の時間の許す限り如何なる程度迄にても、擴張せらるべきものを、誠に遺憾の至りに存候。同博士にして其業を繼續せられたらんには、日本人中に宣敎師の働きを恐るゝの念を、除き去るに與つて大いに力あり將來日本に於ける我等の働きに重要なる援助となりたるべしと存候』云々。
先に多年の同勞の友リギンス氏去り、喜憂倶に語る者なく、獨り異境に在りし師は、漸くシユミツト氏來りて、慰めを得且其事業の成功は傳道上の大なる援助となるべしと、賴みに思ひしに、僅に一年有餘の後氏も又た歸國する事となり、一千八百六十一年十一月二十五日、軍艦アクタエヲン艦上にて、最後の握手をなし、此の唯一の友に別れて、再び一身に傳道の大任を負ひ、獨り異邦の地に留ることゝなつた。
天父偕に在りとの信仰は、いかに境遇が轉變するも、師をして喜に滿ち慰むるに餘あらしむるとはいへ、師も亦人である、こゝに至つて情緖頻りに動き、寂寥の感轉た切ならざるを得なんだであろう。師は此日日誌に記して曰く、『醫學博士イ、シユミツト氏は、軍艦アクタヱヲンに便乘して、英國を經歸國の途に就けり。是れ實に我傳道會社が日本に派遣したる人々の中、健康上の事情のために止むを得ず、歸國したる第二番目の人なり。更に予自らを顧慮するに予は日本に於て尚幾年間天父の命じ給ふ使命のために、盡すことを許し給ふぞや。予は信ず慥かに多年從事することを得ん。そは兎に角に、予は萬事に於て、神よ汝の聖旨の如くあれかしと云ふを學ばざるべからざれば、此一事に於ても亦、斯く祈り以て聖旨に一任するの外あらざるなり』と。
シユミツト氏歸國後、文久三年にジヤネ、アール、カノヴアー孃は傳道女敎師として神奈川に來着した。同孃は千八百五十三年以來上海に於て有力なる働をなしたる人にして、我國に來りし女敎師の率先者である。然るに當時我國と列強との間に紛議生じ、今にも開戰に至らんとする形勢にて、外人の身命危ふかりし際なりければ、同孃其他神奈川に在住せし外人は、難を避くるの止むなきに至り、來任後間もなく上海に退却した。曩にリギンス氏在留僅に十ヶ月にして去り、シユミツト氏亦在職一年餘にして去り、カノヴアー孃また忽ち去り、是より以後、千八百七十一年(明治四年)三月、モリス氏新に大阪に來任する迄、屡ば本國に向て勢援を乞ひしも、遂に一人の應援者も來らなかつた。此の傳道開始十二年間、獨り幾多の危險を冒し困難を忍び屈せず撓まず、而かも前途に洋々たる希望を懷きつゝ、師自ら所謂「此の最も興味深き國民」敎化の爲に、靜かに精勵努力せられたる師の精根氣魄もまた偉大なるかな。之れ實に「日本に於ける基督敎會の基礎を据ることを許さるゝよりも、喜ばしきことは、我に取りては天下またとある無し」と云へる猛烈なる献身的精神、能く之を爲したのである。
是より先、リギンス及びウイリヤムス兩師は長崎に來着後直に、日本人傳動の傍ら長崎に在住せる英米兩國の商人の爲に、毎日曜日に早朝禮拜式を執行した。
禮拜出席者の數は次第に增加し、特に香港の監督が長崎に來訪したる時、在留の英國人に、此禮拜式に出席するやう奬勵せられたので、其後は一層會衆が增加した。香港の監督は禮拜堂を建設する爲に助力せられたるが、ウイリアムス師ら米國の一商人より之が爲め寄附金を得たので、遂に禮拜堂を建築することゝとなり、文久元年に小さき美はしい會堂を竣工した。是れ我國に於ける最初の新敎禮拜堂である。リギンス師は香港の監督が長崎に來訪する以前に歸國されたので、新會堂の牧會の任務はウイリアムス師の負う所となつた。師の日誌中
『一千八百六十一年(文久元年)十一月二十四日午後聖餐式を執行せり。米國軍艦アクタエヲンより。艦長士官二十人及七人の水兵之れに列席せり。是れ實に樂しき日なりき。かくも多數なる人員が、軍艦より上陸して上帝の禮拜式に列席したることは、實に愉快ならざるを得ず。軍艦中には猶ほ神の恩寵に接して、平和と喜樂を與へられんことを欲する凡そ二十人の水兵、及び七八人の士官ありと云う、』とあるが、此の樂しき禮拜は、新會堂に於て執行せられたのであらう。
安政六年長崎上陸より、明治二年傳道の根據を大阪に移せし迄、此十年間の長崎時代は、師は專ら日本語の研究、翻譯事業に從事せられたるが、また聖書及類書を人々に與へ、或は來訪者と會談し、師自ら云える如く「多くの滅びんとする靈魂に向つて、幾分の光明と生命と自由とを與ふる所あり」、かくて直接傳道に盡せし所も尠くなかつた、殊に師は其熱誠、敬虔、忍耐とに由りて、接する者の心を和らげ、日本人をして基督敎宣敎師の人格親しむべく愛すべく敬すべきを感ぜしめ、其人にして斯の若くんば、其敎決して畏るべく忌むべきにあらずと、想はしむるに至つた無形の感化は、更に大なるものであつたであらう。
明治三年の師の書簡中には「近頃長崎に於て基督敎徒の迫害ありしに拘はらず、暫時の間に數人の洗禮を領せしもの有之候。其等の受洗者の中に、以前小生の僕なりし者もありしは、誠に喜ばしき事に候ひき。彼は豫て小生より受けし敎を決して忘るゝ能はざりしと申候。尚また以前小生に仕へし他の僕も、基督敎を信ずと申し候。彼も遠からず進んで人々の前に、基督を告白するに至らんことは、小生の信じて疑はざる所に候」とあるを見れば、師が自己に接近する者に機會ある毎に、福音を傳ふることを務められしを知るべく、其僕の二人までが主を信ずるに至りしことは、以て師の德化のほどを察すべく、又た此時代に師より熱心に道を學びし、所謂求道者なるものゝありしことが知らるゝのである。
明治三年三月の報告中「遠からず日本人の按手の數を御報告申上るに至るべく候」とあるが、之を以て見るにそれより以前早くとも、明治二年若くは元年に、師より洗禮を受けしものか或は求道者がありしと想はる。師は洗禮及按手を施すには甚だ嚴格にてありしゆへ、求道者が之れを領する迄には、少くとも五六ヶ月以上一年の時日を準備に要した。況して基督敎禁制の當時の事なれば、師は堅固なる信仰と決心ありと充分認めし上ならざれば、容易に洗禮及按手を施さなんだであらう。それゆへに長崎時代に若干の熱心なる求道者、或は受洗者があつたと想はるゝのである。
然し其等の人々に就ては明かに知ることはできぬ。保存されたる師の記録中にある洗禮及び按手は、大阪傳道開始以後(明治四年より)のもので、此時代の參考すべき記録は何もない。師の著書敎會歴史問答には、師に依て洗禮を授けられし聖公會最初の信徒は、肥後のShiomuraといふ人にて、此人は慶應二年長崎に於て受洗せりとある。此は師自ら記せることなれば確實なるは云ふまでもないが、如何なる故か此の聖公會第一の受洗者として、特筆大書せらるべき庄村氏の事は、師の當時の書信中にも、本國の雜誌中にも更に記載されてない。惟ふに師がフルベツキ氏の事を記せし書簡中に、「併乍近頃長崎に於ける羅馬敎會宣敎師のことに就き、幾分人心の激昂を來したること有之候爲め、當分の内は同氏の働きを詳しく發表するを好まずと申居られ候」とある如く、師もまた同樣なる事情のために、之を發表するを差控へたのであらう。師の事なれば、長き歳月の間、此人の信仰と決心を試み、彼が確固不動の信念と不屈不撓の決心を認めて、愈々監督聖別式のために、本國に向つて出立せんとする間際に、洗禮を授けたものと見へる。當時師の僕なりしといふ人の談に、或る夜深更に、師は表門と裏口に見張を置き、某外人立會の上、或人に洗禮を授けしことありと、是れ聖公會第一の洗禮式にして、其夜の受洗者は庄村氏(?)であつたであらう。
偖て、此の聖公會第一の受洗者、肥後の人庄村氏とは、如何なる人物にてありしか、之に就き此處に何も明言することはできぬが、先に記載せし文久三年八月、師を訪ひ來り師より熱心に道を學びし藩士は、庄村氏ではあるまいか、長崎付近の一州の藩士とは、肥後の某藩士ではあるまいか。庄村氏は武士なりしといへば、肥後の藩士にて、當時長崎に遊學した人であらう。氏の受洗は慶應二年春なれば、氏が道を學び初めしは、文久三年或は元治年間なるべく、彼の藩士が師より道を學び初めしと同年頃であらう。
明治三年頃、香港の監督が英國プレストンに於て演説中に、監督ウイリアムス師に依て洗禮を授けられたる一人の改宗者に就て、興味ある物語をした事がある。その物語の概略を記せば、長崎に碇泊したる英國の一軍艦の士官候補生が、祈祷書を海中に落したことがあつた。然るに其後その祈祷書を漁師が網に掛て拾ひ取つた。漁師は之をある紳士の許に持ち行き如何なるものなるやと尋ねた。紳士は人を遣してフルベツキ氏に尋ねしに、氏は一卷の支那譯聖書を贈られた。紳士は熱心に聖書を讀み行く中に、大いに感ずる所あり、自らフルベツキ氏を訪ひ、氏の敎を受けた。後ち彼はウイリヤムス師を訪ひ益々研究を進め、遂に洗禮を希望するに至つた。師は彼が基督を信ずる爲には死もまた辭さぬ決心を見て、洗禮を授けられた。其後彼は歸國し久しく其消息なかりしが、一日一個の小包を送り來つた。開き見れば一葉の寫眞であつた。一個の卓を圍んで六七名の紳士が居列ぶ中央に、支那譯聖書を開いて坐するは彼である。其状は彼自ら堅く信仰に立つのみならず、彼が故里の人々に福音を傳へんと力めつゝあることを現はさんとしたるものゝ如くであつたと。
此物語の紳士とは武士である。而して彼がフルベツキ氏より支那譯の聖書を與へられ、後ちウイリアムス氏を訪ひ道を學びしことは、先の藩士に符合する所がある。或は是れ彼の藩士と同一人物ではなからうか、或は此紳士が庄村氏ではあるまいか。