一千八百五十九年六月下旬、我が帝國長崎港内に、米國軍艦ゼルマントンが投錨した。數日の後同艦より一卷の聖書を手にして、上陸したる碧眼美髯の少壯の聖徒があつた。彼は基督の深愛大慈に驅られ、雄心勃勃異境傳道の念禁ずる能はず、其剛毅不撓の英魂温容の裏に包み、福音宣傳の大命を奉戴して、終生を此國に献ずべく來つた。是ぞ、我等が敬愛する故監督、チヤニング、ムーア、ウイリアムス師である。
師の長崎上陸の日は、遺憾ながら明かでない。リギンス師の書信には、「氏は、ゼルマントン艦長の厚意により、同艦に乘じて上海を出立し、七月初旬に我が許に來れり」とある。兎に角師の上陸は我が安政六年六月にして、幕府が前年(安政五年)調印したる條約の明文に從ひ、米魯蘭英佛の五國の爲に、神奈川(橫濱)箱館長崎の三港を開き、其外交官の駐在を江戸に許す事を實行したる日(安政六年六月二日 千八百五十九年七月四日)の前後であつた。
當時我國は過激なる攘夷熱の熾に燃え立つた時であつた。抑も我國が尊内卑下の精神を以て、外人を拒絶するや其由來久しいものである。德川政府は嚴に外人との交際を禁じ、之を犯す者は重刑に處し、特に文政年間、異國船打拂の攘夷令を國内に布告し、外人憎惡の念を養成し、久しく此氣風を養ひ來りしを以て、癸丑甲寅の際は、上下の議論は皆攘夷に傾き、夷賊傲慢無禮神州を汚辱す、豈に膺懲の典を擧げざる可けんやとて、理由も無く斷然砲火を以て打拂ふべしとは、攘夷家の口にする所であつた。
然るに、自ら外交を禁じたる幕府は、目下兵備全からざるを以て、一時の權道に由て和約したるのみ、兵備を整へ其全きに到らば、攘夷の目的を達すべしとの口實を以て、米國と和親條約を締結し、爾來數年間表面上には兵備の事を令達したれども、外國の強請に遭ひ、且は實地の應接によりて、到底開國の止む可からず、攘夷の行ふ可からざるを覺り、遂に安政四年外國使臣出府登城拜謁、和親貿易の條約を取結ぶに至りしかば、天下紛々幕府が外夷に屈するを難ずる聲四方に起り、攘夷家の氣焔は益々激烈になつた。
既にして安政五年四月、井伊掃部頭大老職に就くや、諸強藩有志者が望を屬したる一橋卿を退け、紀州家を養君に立て、天下の人士をして愈々攘夷の實行に望を絶つに至らしめ、更に翌五年六月勅許を經ずして、專斷を以て條約に調印し、宿次奉書を以て之を上奏するや、天下の志士は切齒悲憤刀を堤げて蹶起した。
此時よりして攘夷論は、益々尊王論と聯貫し、尊攘の大義と名けたる旌旗を樹立し、頑冥無謀の尊攘の徒は、安政六年の夏に至りては、遂に腕力を以て攘夷を實行し、荀も尊攘の爲なりと云へば、何等の粗暴も憚なく之を擧行した。斯の如きが故に、人心恟々として安せず、外國人を敵視して往々殺害を加へ、襲撃を謀ること頻であつた。
試に其一二を擧れば、先づ安政六年六月橫濱にて、魯國海軍士官三人を暗殺し、其翌萬延元年正月、高輪東禪寺なる英國公使館にて、同館使丁傳吉を殺害し、同年十二月赤羽にて、米國公使館書記ヒユースケンを暗殺したるを初とし、或は公使等を路に擁して無禮を加へ、遂に同年に於ては、水戸の浪士は橫濱を襲撃せんと謀り、其他橫濱江戸に於て、外國人に向て種々害惡を加へたるは枚擧に遑がない。
果は文久元年五月廿八日夜には、數十人の浮浪は、英國公使館を夜撃するに至つた。此が爲め幕府外交上の危殆急刻の間に迫るが如き事は、決して一兩度にして止まらなかつた。安藤閣老が寧ろ老中を殺し將軍家を弑して内亂を釀すとも、外國人を殺して外難を買ふ事を休よと嘆息したるは、即ち當時の事にして、以てウイリアムス師來任前後の我が國情を察すべきである。
更に當時幕府が基督敎に對する政策を見るに、實に峻嚴を極めた。抑々德川幕府は家康の當初より、秀吉の政略を繼承して、基督敎を杜絶する方針を執り來りしが、島原の亂後は、特に禁令を嚴重にし、諸大名へ領内の敎徒退治及び大船禁止の事を令し、南蠻諸國の通交を全く禁絶し、以て基督敎の痕跡を盡滅せんと力めた。
されば島原亂以後、諸國に殘存したる敎徒を捕へ、慘刑に處する事頻りであつた。寬永十五年十二月、江戸芝口に於て敎徒七十三人を捕へ烙殺水殺の慘刑に處し、同十七年四谷近郊に於て敎徒十餘人を捕へ斬罪梟首し、又品川に於て七十餘人を水刑に處した。慶安三年江戸小日向に牢獄を造る、石垣一丈二尺、方四十三間、塀高さ一丈二尺、其上に八寸の鐵釘を樹て皆刀あり、内に向けて之を繞らし、外圍は提墻を以てす。
是れ所謂切支丹屋敷である。爾後諸國にて捕へたる敎徒を、此處に幽閉し或は拷問處刑埋葬の場所となした。正保元年長崎西阪に於て敎徒七人を穴釣の上梟首し、明暦三年大村に於て、百十九人を穴釣の上斬首し、二十五人を永禁錮に處し、百九十人を數藩に付して梟首せしめた。
萬治元年大村管下に於て敎徒六百三人を捕へて處刑し、延寶四年岡本三右衞門の僕角内、館林藩齋藤賴母の組子新兵衞を獄に下し、翌年刑に處した。また武藏府中に敎徒城之進なる者を捕へ、拷問せしも屈せず、遂に刑に處した。斯くも幕府が禁敎の處置嚴重なりしにも係らず、尚ほ文政年間まで敎徒は全く其跡を絶なかった。
文政十二年十二月、京都に窃に天主敎を奉ずる者あること發覺し、其徒數人は捕へられ、大阪にても橋本宗吾なる者捕へられ、共に刑に處せられた。茲に於て漸く基督敎徒は全滅の状態となつた。而かも幕府の禁敎の嚴令は依然として變らず、『右宗門之儀彌可被遂御穿鑿[#返り点省略]之條、銘々無油斷相改自然疑敷もの有之ば、早々其筋へ可申出、品に寄御褒美被下、其者より仇をなさゞる樣可被仰付候。若見聞及ながら隱置他所より顯はるゝに於ては其所の者迄も罪科可被行候』と嚴達した。
當時行はれたる禁敎の法令は、先づ諸國各地に、切支丹邪宗門の儀は是迄の通り堅く禁制の事、てふ高札を掲げて以て禁令の嚴なるを示し、士民一般には年々宗旨證文と稱するものを其筋に差出し、切支丹邪宗門に非る事を誓約せしめた。
宗旨證文の文體は地方により異る所があつたが、長崎に行はれたる宗旨證文は左の如し。
一私儀元來何宗にて御座候、切支丹宗門にては無御座候、我等妻子召使者迄も切支丹宗門一人も無御座候、若後日切支丹に相成候由被聞召候はゞ、親子兄弟迄も如何樣共可被仰付候、爲後日如此御座候以上
又町年寄行事組頭等よりも
町内切支丹宗門の者一人も無御座候、自然切支丹又は不審成儀御座候はゞ、早速可申上候、若し隱置脇より顯はれ於申は、私共如何樣の曲事に被爲仰付候とも、少も違背申上候間敷候、爲後日以連判手形差上仕置申候
との證書を奉行に差出すのが例であつた。
尚ほ切支丹訴人に對し賞金を與ふる左の法令があつた、
切支丹宗門は累年御制禁たり、自然不審なるもの有之者申出づべし御褒美としてp>
ばてれんの訴人 銀五百枚
いるまんの訴人 銀三百枚
立かへり者の訴人 銀三百枚
同宿並宗門の族訴人 銀百枚p>
右之通可被下たとひ同宿宗門の内たりと雖ども、訴人に出る者品により銀五百枚可被下、之をかくし置き他より顯はるゝに於ては、其所の名主並に五人組迄、一類共可處罪科者也仍下知件如p>
日本第一の新敎宣敎師が、來任したる當時の日本は、斯の如く攘夷熱は激烈にして殺伐の氣充ち、彼等が宣傳せんとする基督敎に對しては、幕府の禁令斯の如く嚴重であつた。
されば千八百六十年(萬延元年)來任の翌年に、ウイリアムス師は書簡の一節に曰く
『前略 監督ブーン師よりの來翰によれば、同師は小生の要求に應じて、今一人の宣敎師を日本の爲めに送られんことを請求致されし由に御座候。何卒外國傅道委員に於ても此請を容れ、適當の士を此任務の爲めに發見せられんことを希望仕候。小生は先にブーン監督への書簡中にも申述候通り、此任務に當るの士は、學識ある熟練の士にして、聖書の飜譯并に類書の編纂に助力し能ふ人たるべぐ候。
乍去、そは唯一若くは最重要の資格にては無之候。第一此任に當るの士は、胸宇濶達にして自ら持すること貞潔、深く篤く主耶蘇を愛し、并に主が之を救はんが爲めに死し給ひし人類の靈を愛する人たること最も肝要に御座候、且つ其人は堅忍、耐久の德を有し、神が御心に合ふ時に於て、此日本に不朽の福音を宣傅するの門戸を開放し給ふに至る迄、失望落膽することなく、靜に働きを續け得る人たるを要し候。
其人は又た謹嚴にして判斷明碓の人たるを要し候、熱心なれども智識を缺きて、妄りに輕擧躁急を事とするの士は、却つて我が働きの進歩に妨げたるべく候、支那に於ては政府の權力薄弱にして、官憲は外國條約の條項に符合せざる事柄をも、等閑に附すること多く有之候得共、日本に於ては事情大に異り、政府の權力強大にして苟も條約の明文に違背する事柄は、決して看過すること御座なく候、且亦彼等日本官憲は特に疑心深く、宗敎のために爲さるゝ或は宣傅者に依りて爲さるゝ事柄に對し、特に疑心を以て臨む次第にして、之れ特に注意すべき事に御座候。
只今の處にては公然宣敎の事業に從事するを許さるべき見込は、差當り御座なく候に付き、我がミツシヨンは當分靜に待つの外無之候、乍併、今や日本の特派大使は、我が合衆國訪問中なれば、此事よりして幾分の希望を抱き得べく、又此事は我が敎會の人々をして、此國の爲めに一層熱心なる祈禱を促すの結果を生すべく、而して此祈禱によりて神の惠みは必らず下り來ることゝ存候。
尚又日本人民の中には、將來日本傅道の成功の爲めに人意を強からしむべき事情多く有之候。彼等人民の品性中には一度彼等の治者が、築きたる墻壁の撤去せらるゝ曉には、駸々として基督敎の公布せられ得べき素質は歴然と存し居候現今當地に於ては郵便局出張所設けられ候に付き、長崎に宛てゝ送らるゝ書翰は皆安全に到着致候』。
千八百六十一年(文久元年)六月十一日附にて、本國に致したる書簡中、師は當時の傳道の困難を記述して曰く、
『現今にて宣敎的働きの何等御報告致すべきもの無之候に付、貴下よりの手紙を受くることも、又小生より手紙を差上ぐるも共に不滿足に存候。小生は二三の信用すべき日本人に、聖書及類書を與へ、幾分か宗敎上の談話をなすを得たるは、固より興味深きことには候得共、未だ以て通信の材料となすには物足らず、若し夫れ此國人民の心に觸れて、神に向つて悔改めしむるの希望に至つては、未だ現はれ來らず候。
斯の如く我等の働の捗らざるに就きては、或は奇異の思を御催し被成候はんかなれど、我等宣敎師の位地は、特に困難にして、日本に於ける基督敎の先例、政府者の嫉妬、及び條約中に米國人は決して宗敎上の怨恨を釀すが如き所行をなすべからずと云へる不得要領なる條文、並に異敎探索法の行き渡れることは、下は貧民の茅屋より上は天子の禁庭に及び居る事等は、皆之れ一考に價することに御座候。
若し是等の事を充分に御了解有之候へば、我等が非常に小心翼々として、事に從ふの必要あることは明かに可相成候。我等の周圍には無藪の偵吏附き纏ひ居候得は、若し一歩を誤る時は、危瞼云ふ可らずして、忽ち人民との交通を遮斷せらるべく候。
此國に於ては基督敎禁制の法律は、未だ撤去せられず、踏繪の制度は既に癈り候へ共、基督敎は依然として禁遏法の下に有之、貴下御承知の如く、是等の法律は制札の上に書きて、市街公共の場所に掲げ有之候、當地知事の邸前の制札には、左の如く記し有之候。
切支丹邪宗門の儀は是迄の通り堅く禁制の事
斯ることは人民の心に政府が基督敎を以て、惡事の最大なるものと見做すとの感を生ぜしめ、且つ其禁制は最大主要の事なりと思はしめ候、且つ又彼等人民は新敎と羅馬カソリツク敎との嘔別をなす能はず候。
當國の官憲が人民の基督敎に改宗するを防遏する爲めに、備へたる手段は實に行屆きたるものにして、若し之を勵行せらるゝ時は、極めて其效果著しきものに候。各町の組頭は毎年の初めに於て、其市の奉行に對し左の如き上申書を差出候。
第一、 町内の住民男女老幼共に連署して差出すもの。
私共は切支丹宗門に無御座候。私共の宗旨は各々名前の上に記し有之候。若し私共にして宗門を變更仕度節は、改宗の趣御屆可申上候。
第二、 五人組頭より差出すものにして、其趣意左の如し、
私共は五人組の中に於て、絶へず切支丹宗門の者を詮索することを怠らず、互に相吟味仕候。以上の趣意堅く相守り、銘々檀那寺の加判を受申候。若し疑はしき事情有之候節は、直に御屆可申上候。萬一隱し立ての事顯はれ候に於ては、如何樣なる御仕置被成候とも不苦候。
第三、 町の名主より差出したるものにて、其文言に曰く、
以上連名の人々の宗門を夫々吟味仕、且つ檀那寺の加判を得て、茲に呈上仕候。若し右の趣意に違背致すもの有之候節は、私共を御仕置可被下候。
斯くして各人は毎年一度、上申書に署名して基督敎徒にあらざることを明かにし、其屬する佛敎の宗派を明らかにせざるを得ず、夫れ故何人にても、基督敎徒となれば、必ず奉行に知られざるを得ず、何となれば苟も眞正の基督敎徒ならば、必ず右の上申書に署名することを拒むべき故に候。然かも尚僞りて署名する者あらんことを恐れ、五人組の者共は互に相詮議し、各々幾分の責任を他の爲めに負はさるゝ次第に候。
且つ夫れ彼等は佛敎僧侶の加判を乞ひて、證明書を製する次第にして、僧侶は基督敎の弘布を止むるに最も熱心なる人々なれば、社會に於ける各人の信仰を定むるに最も必要なるものとせられ居候。
若し僧侶が苟も基督敎に傾ける者あるを疑ふ時は、其證明を拒み從つて疑はれたる人の行爲は、最も嚴重に詮議せらるゝことゝ可相成候。現今に於ては此の形式は依然として守られ、上申書は差出され候へ共、各家の主人は敢て隣人の宗敎信仰を詮議不仕、且つ又政府に密告して人の憎しみを蒙ることを厭ふ氣風が行はれ候に就き、復讐心より出づるか、岩くは最下等の輩にして、輿論の制裁以下に陷りたる者が、下劣なる慾心よりするの外は、他人の宗門に就き訴人致すものは無御座候。』
斯る事情なれば、師は長崎在留七年間は、殆んど直接傅道をなす餘地なく、唯だ稀に來訪せる人々に道を説き、聖書及類書を與ふる外は、專ら日本語の研究と飜譯に從事し、靜に將來の準備をせられた。
『前條の次第なれば、即今何等傅道事業の報告可致もの無之と申上候はば、日本に於ける宣敎師は手を束ねて何の爲す所無しとの意味にては無之、準備的の働きは吾等の爲めに多々有之候。即ち國語の學習、書籍出版の準備等、瑕令技倆群拔の人たりとも、茲多年の間、精力と時間と技倆とを悉く之に用ふるを要し候。
尚又吾等宣敎師は前途に橫はれる困難の爲めに、意氣沮喪せる譯にては萬々無御座、私に取ては是れ等の困難は、當地に來る前豫期したる程には多く無之、又大なるものにも無之候。然れども瑕令其困難にして、現在我等の遭遇する所より百倍大なりとするも、我等にして手に聖書を携ふる限りは、決して意氣沮喪すべき謂れ無御座候。聖書には異敎の民が神の御子の嗣業の爲めに得らるべきことを敎へられ、地の極に至る迄其所有たるべく、況んや其敎會に對しては、諸々の海を爾のものたらしむべしとの御約束有之候。
されば我等は失望落膽することなく、却て神の我等の爲めに既に爲し給ひしことを感謝し、自ら勵み將來盆々其敎會と我等の爲めに、我等が願望し思考するよりも、更に豐かになし給ふ所あるを信じ、孜々として努むるの外無之と存候。』
また千八百六十二年(文久二年)一月十日長崎發の書信に曰く。
『年末に臨みて拙者は、一の報告を貴下に致すの必要あるを感じ候。此報告は此國に於て基督敎會に入れられ、救はれたる人々の數を語るものならば、如何に喜ばしからんと存じ候。然れども日本よりして、其報告を致すべき時は、神の攝理に於て未だ到着不仕候。我等宣敎師は尚も忍耐と祈禱を以て、其働きを續け、遂に收獲の主が其適當とし給ふ時に至りて、惠の露を注ぎ、我等をして其寳座に色づきたる豐穗を刈入るを得しめ給ふ時を待つの外無之候。
其時に至る迄は、拙者の報告は勢ひ簡單ならざるを得ざる次第に御座候。申迄もなぐ拙者は日本語の學習の爲めに殆んど全く時間を費し居候。既に幾分の進歩をなしたるかとも存候得共、此國語は甚だ六ヶ敷して加ふるに辭書も文法書も無之、又敎師は甚だ無頓着なれば、小生の日本語の進歩は遲々たらざるを得ず候。先づ飜譯の初めとして、拙者は主禱文、信經、十誡を譯し、之を一冊の書籍と致申候。乍去、凡て最初の飜譯に免れざる如く、恐らくは甚だ不完全なるものに可有之、之を出版せんには一層の訂正を要すべく候。
拙者は既に多數の聖書及類書を人々に與へ、又た來客と宗敎談を致せしことは、前半年間に於けるよりも更に多く候。人々は概して躊躇なく我等の與ふる書籍を受け候得共、時としては丁寧に斷る人々も有之候。拙者方へ來る人の中に、一人の佛敎の老僧有之、屡ば來訪して基督敎に就き、種々問題を尋ね候得共、決して書籍贈物を受取らず、此人は拙者の有する殆んど凡ての書籍を借りて熟讀し、殊に基督敎證據論の一書は度々借りて歸られ候へ共、之れを讀みたる後は必す返却致候。
其理由は日本の法律にては、斯る書籍を所持するを許さず候に付、萬一官憲の搜索を受けたる時に。自己が之を所有し居ることを發見せられざらん爲めに、扨こそ毎々之を返却するなりと申され候。』
千八百六十四年(元治元年)一月、書信の一節に曰く。
『此國語を學び且つ將來の布敎の爲めに、書物を準備することは、實に果てしもなき大事業に有之候。書籍に就きては、小生は既に支那語より飜譯したる三種の小册子、及英語より飜譯したる小兒の爲めの一小册子を有し居り候。右の中一種は尚も數回の訂正を經て、之れを木版に起し長崎に於て印刷せしむる積りに御座候。今日に至る迄は、我等は只だ支那語にて書きたる書物のみを頒布致し來り候ふが、今や日本人中漢文を讀み能はざる大多數の階級に、書籍を以て傅道すべき時は來れりと存候。
勿論これは試みに計畫いたし候へ共、當地の印刷者中果して之を引受くるものあるや否や、確ならず候。』
基督敎禁制の嚴令が實際に行はれたる當時は、道を敎ゆる者も學ぶ者も、共に生命懸けであつたから、直接傅道の道は容易に開けず、宣敎師は決して宗敎を以て人民に接近することはできなかつた。フルベツキ氏曰く、當時日本人に會し、談偶ま宗敎の問題に及ぶや、彼等は殆んど無意識的に手を咽喉に當て、斯る事柄は甚だ危險千萬なりとの意を表せりと、殊に日本は二種のもの即ち阿片と基督敎を除く外は、何物にても外國人の輸入品を歡迎すと主張する長崎奉行の配下にあつては、人々は其筋の嫌疑を恐れて、溶易に宣敎師に接近せざりしことゝて、來訪者は實に稀れであつたに相違ない。
かゝる際に偶ま危險を冒して、師を訪ひ來る者があらば、基督敎を魔法と心得、宣敎師より祕法の傅授を求むる野心家か、西洋文明の新知識に渇せる長崎留學の幕臣藩士か、新宗敎に關する智識慾を滿足せんために來れる儒者佛僧か、宣敎師の動靜を窺ひ其祕密を探索せんどする偵吏か、然らざれば、眞理を探求する爲には、千難萬苦も辭せしとの大勇猛心を以て來れる特志求道の士であつた。
先に掲げたる師の書簡中の佛僧の如きは、思ふに新宗敎の智識を得んために來りし人物であつたらう。此老僧は屢ば師を訪ひたるものと見へ、漸く保存するを得たる師の日記の斷片中、千八百六十一年(文久元年)十一月十七日に記して曰く、
『本日老年なる佛敎僧侶の來訪を受く、予は此人に基督敎書類を數ヶ月間貸與せり。予は彼と倶に談論せり、彼は羅馬敎と基督敎新敎の相違する點に關し、予の説明に暫らく耳を傾けし後曰く、佛敎及び羅馬敎は餘り狹隘なるが故に、全世界に擴張する資格に欠くる處あるなり。然れども耶蘇敎(當時既に新敎を耶蘇敎と呼べり)は廣きが故に萬人を敎ゆるに適せりと。然れども予は思へり、斯る言は、彼が基督敎の眞理に感動したることを、證明する證據とはならざるべしと。彼は冷靜なる哲學的頭腦を以て、基督敎の書籍を讀む人々の種類に屬する人なるが如く思はる。然れども彼が言は以て基督敎が人類一般に適合する宗敎なることを證する著しき證據とはなるなり。況んや彼は異敎の僧侶なるに於てをや。』
また同年十一月二十九日の日誌に曰く、
『先日來訪したる老僧、書籍を返却せんために再び來宅せり、彼は予を試みんと欲し、發問して曰く、何故に神は、獅子虎等の如き人間を食する猛獸を造りしや、何故に神は地球を造るに當り大部分の大洋を造り、小部分なる陸地を形成せしや、神若しサタンを作らずば、蛇の如きものを使用して、人間の始祖アダムを欺き、以て罪を犯さゞらしめざりしものをと。
予は長時間彼と論じ佛敎孔子敎基督敎等を比較し、此等の宗敎が人心に及ぼす效果に就き論述したれば、彼は予が談論を聽き終りて後曰く、予は佛敎の僧侶なり、然れども佛敎の敎理を信奉せず、我は儒敎を信ず然れども耶蘇敎は就中善良なる宗敎なりと。
彼又曰く、日本古代の宗敎は輪廻を説かず、耶蘇敎の如く天堂の存在を説けり。其敎義によれば、善人は未來に於て高天原に趣き、惡人は死後或場所に趣きて永久に留らざるべからず』と。
或人は曾て師より直接聽きしとて、左の物語をした。
『或る夜、一人の來客あり、珍らしき事とて監督は之を迎へ來意を問ひしに、彼は恐々手を伸し天井並に四方の壁を指した、之は二階や隣室に誰か人が居りませんかといふ事にて、若し自分が宣敎師を訪ひし事が人に知られなば、此を切られると云つて、手を首に當て恐るゝゆへ、監督はどうぞ安心なさい、誰も他人は居りませんと云ふと、彼はやうやう落ち付いて腰を掛け、數本の眞鍮の煙管を取り出し、誠に申兼ますが、
どうぞ之を本金にして下さいと云ふ。
監督は大に驚かれ、私は手品師とは違ひますと斷られた。そうすると今度は某町の財産家は、多くの金庫を持ち居るも、土藏の錠前堅して幾度之を試みるも溶易に破れぬ。何卒他人に露顯せぬ樣に窓から出入し、其寶を奪つてソツト逃ぐる法を敎へて下さいと云ふ。監督は、私そんな事は知りませんと云はれても、彼はなかなか承知せず、是非敎へて下さい、極く内密に致します、誰にも決して話しませんから、キリスタン、バテレンの祕法を敎へて下さいと、切りに願つた。
そこで監督は彼に向ひ、私は日本の御國に參りましたのは、神樣の敎を傅へる爲です。態々遠方から御國の人に盜賊の仕方を敎へに來たのではありませんと斷ると、彼はスゴスゴ立ち去つたさうです。』
千八百六十四年(元治元年)の一月師の通信中に、一人の來訪者の事が記述されてあるが。此の來訪者は、眞面目なる求道者の一人であつた。
『來訪者と宗敎談をなし、及び之に聖書又は册子を與ふる事は、從來極く靜かなる方法にて致し居候。苟も機會あらば必ず之を怠らず候。時としては甚だ興味深き事件は、之より生ずる事御座候。去年八月、當地附近の一州より來りし藩士は、小生の知己の一日本人より紹介せられたる人に候が、小生は彼に數種の小册子を與へ候處、其人之を受けて數日中に再來を約し立ち歸り候一二日の後彼は再び來訪し、前年フルベツキ氏より受けたりと云ふ一卷の聖書を携へ來りて、聖書は大に之れを讀みて且信ずれども、尚ほ了解し能はざる處多くありと申し候。
是に於て小生はそを説き明かさんと申し出で候處、彼暫く躊躇らひたる後、若し夜分に來ることを得ば、敎を受けんと申し候。夫れより彼は二週間殆んど毎夜來訪し、十時後迄小生と偕に支那譯の聖書を讀み候。
彼は眞理には極めて無知なれども、尚ほ敎ゆるに足るべき氣象を有し、且つ新しき事を學ばんとの熱心表に現はれ候。彼が餘儀なく鄕里に歸りし時は、小生は實に遺憾に存候。其歸るに臨みて、小生は書籍及び小册子各一册、並に支那譯の祈禱書及日本譯にて記せる主禱、信經、十誡を與へ候處、歸國の後は勉強して之を學ぶべしと約束致し候。且又彼は此の宗敎の敎理を妻子に敎へても宜敷哉と尋ね候、誠に良き兆候に御座候。
其後一夜小生は一の消息を受け候。其文によれば、此人は砲兵士官にして、近頃八千人の指揮官に昇進致し候に付き、再び長崎には歸り難しとのことに候。されど若し小生が彼のために軍術の一書を手に入れ呉るゝに於ては、君公の許を得て長崎に來り、通譯者の助によりて之を學びたしと有之候。さすれば彼は一度長崎に來りて福音の眞理を、一層詳細に學ぶの機會可有之と存じ小生は一の軍學書を借り入れ、彼の友人をして之を通知せしめ候。彼は必ず正月後には、再び長崎に來るべく候。』
此の求道者は師が豫期せし如く、再び長崎に來り、師より道を學ぴしや、彼は何れの藩士にて、其姓名は何んと稱せしか、這は何人も知らんと欲する所ならんも、其の後の師の書簡中に、彼に就て記せるものを發見せざれば、此處に明言するを得ざるは、甚だ遣憾であるが、想ふに、彼の如き眞率熱心なる求道者にして、特に願望の軍學書を手に入れる事となりしゆへに、必らず師の期待せし如く、翌元治元年正月後に、再び長崎に來り、更に師の敎を受け一層信仰に進んだであらう。或は此人が、慶應二年に師より洗禮を受けし肥後の人庄村氏、其人ではあるまいか。
千八百六十四年(元治元年)一月、師の書簡に曰く。
『回顧すれば前回報告以來又一年の光陰を經候。然れども日本に於て、公然基督敎の福音を宣傅せんとの、我等が宿昔の希望及之が爲めに祈りたる時は、未だ來らず候。今日迄の處にては、世界の大原野の此一小隅に於て我等は靈界の農夫として、石を掻き集め荊棘を取除き、以て將來之に鋤鍬を入るゝの準備をなし、又た此處、彼處、竊に道の善き種を蒔くの勞作に服し居候。
若し夫れ其種の芽を出し葉を長し、穗傾きて之に穀を生ずるを見ることは、未だ我等に賜はらざる特權に御座候。其時に至る迄は只管に待ち且祈り、刈入れの主が良き時に至つて、墻垣を撤し我等をして公然種を蒔き地を耕すを得せしめ、又た靈の露を注ぎ給ふて、我等をして主の穀倉に靈の果實を收むることを得せしめ給ふ時の至るを望むの外無之候。されば今日迄、此地に於ける宣敎師の働きは、前申上候如く、宛も地の瓦礫を除き荊棘を拓きて、除草及び播種の備をなすに止り候。
即ち基督敎に對する人民の偏見及誤解を釋くに勉め、新敎的基督敎は何の恐るべき所なく、却つて日本にして福音宣傳の爲に、門戸を開放するは、之れ此國の上に亦大なる慶福を亨くる所以なることを、機會ある毎に人々に説き明かすことを專ら努め居候。
日本人中には既に歴史に通じて、能く我等の説く所を諒とし、一國に基督敎の入り來ることは其結果必ず文明の進歩を促し、道德上、知識上及社會上一般の幸福を增進することを信じ、而して此進歩は大に基督敎思想の純潔なるに依ると、承諾せる人々も有之候。
斯る働きをなすは、餘り益なきことに時間を消費するものなりとし、專制國の政府に於ては、斯る言説は、最上級の人々に向つてなすにあらざれば、何の效果をもなしと思惟する人も有之候はんかなれども、之は必ずしも無益の業には無御座、斯る説明を聞きし人々の中には、其君公に近侍する人々も有之、中には又其左右に在つて事を執り、言を進むるの人々も有之候。
大名等は適當の同輩合意せば以て、政府をして其欲する政策を探用せしむる權力有之候。加之、此專制國に於ても、矢張幾分か輿論の行はるゝありて、其聲は全然無視する譯には相成不申、而して輿論の力は不絶增進致居候、且つ夫れ商人階級も其聲の增進して、外國人と接觸し他の國に於て商人の占むる位地を學ぶにつれて、彼等は愈々自己の權利を自覺し、進んで之れを主張いたし候。
されば、我等の時は必ず將に來るべく、其來るは現今人の考ふるよりも意外に早かるべく候。されば將來第三階級の發達して、其意見が此國民の會議に於て、適當の威重を有する時の至らんことは、期して待つべきに御座候。』