回顧すれば天文年間、葡萄牙の商船が初て九州に來てから、我國と外國との通交の氣運、漸く此時より開け凡そ九十餘年間貿易の行はるゝと倶に、新智識を海外より移植し、國運の隆興を助けたることは僅少くなかつた。基督敎また葡萄牙西班牙宣敎師により、國内至る所に布敎せられ、傳道は駸々として其歩を進め、其勢力は頗る熾盛なるに至つたが、惜かな當時舊敎宣敎師の傳道其宜を得ずして、國土侵略の嫌疑を被りたると、自國に於て西班牙と鬪ひ、印度及び南洋に於て貿易を葡、西と競ひし荷蘭人が、新敎を奉ずるを以て、羅馬敎徒と相善からざりしかば我が政府に羅馬敎徒の畏るべき謀計ありと告げたるに由り、秀吉家康の忌む所となり、基督敎は嚴禁せらるゝに至つた。尋で德川幕府は、寬永鎖國令を以て基督敎を嚴禁し、一切の外交と貿易を禁ずるに至り、爾來之を墨守して宇内大勢の外に立つこと、幾と貳百有餘年であつた。然ながら氣運は我國をして極東に偏安して、別天地を爲すを許さず、茲に嘉永年間米使の來航に、我國は排外鎖國の長夜の眠醒めて、新文明に門戸を啓くに至つた。米使の來航は、實に我國歴史轉回の端を啓き舊日本と新日本とを分つ區劃線を爲し、而して又た我が日出帝國に新しき福音の光明輝き出る薄明とはなつた。さればこゝに日本傳道の紀元を敍述るには、先づ開鎖當時の顚末を略述せねばならぬ。
米國使節ペルリが、軍艦四艘を率ひ、相州浦賀に渡來したるは、嘉永六年六月三日であつた。是より先、幕府は近年追々と外國船が東海に出沒せるを見て、容易ならずと思ひ浦賀は江戸灣の咽喉たり、下田は東海の形勢たるを以て、殊に此要地の警衞を心掛け、下田には勤番を置き、浦賀には奉行を在勤せしめ、井伊掃部頭其他の諸大名に海岸の警備を命じたるは前年の事であつた。されば當時幕府の周章狼狽一方ならず、上を下へと沸くが如き有樣であつた。扨て幕府は、林大學頭、浦賀奉行戸田伊豆守井戸石見守に命じて、久里濱に於て米使ペルリに應接し國書を請取らしめた。
ペルリは國書を交付し、來春を以て返答を聞く爲に再渡すべしと告げ退帆した。幕閣は國書を翻譯せしめたるに、鎖國の不利を説き、米國と修交の訂約を勸告するものであつた。乃ち其譯文を諸大名及び文武官に示し、且つ諮問状を發して、米國の要請する所を許容すべきや否や、各意見を提出せしめ、以て和戰の決を諮問した。茲に於て、諸侯及志士の意見を献するもの數百通に至りしが、和戰開國の討議を爲せるものは寥々一二に過ぎず、其他は皆擧て開國を不可なりとし、幕府は宜しく米國の要請を峻拒せらるべし、渠もし之を聽かずして我に無禮を加ふることもあらば、斷然砲火を以て掃攘すべしと云ふにあり、滔々皆拒絶攘斥砲撃開戰を主張した。幕府も亦奈何ともすること能はざれば、策の出る所を知らなかつた。
既にして翌安政元年正月十一日、ペルリは堅艦八艘を率ひ、舳艫相銜んで浦賀に入り、更に神奈川灣に向つて進んだ。幕府驚愕なす所を知らず、匇惶林大學頭、井戸對馬守を神奈川に派遣し、全權の名を以てペルリに會見せしめ、到底その要請を容れざれば、開戰の避く可からざるを覺り、祕密の訓令を受けて條約を議定し、安政元年三月三日(千八百五十四年三月卅一日)調印を了した。是れ所謂神奈川條約にして、我國に於て外國と條約を結べる嚆矢である。
此條約の要點は、
(一)米國船舶が何れの所に漂着するも之を救助し保護を與ふる事、
(二)米國船舶の爲に下田凾館兩港を開き其寄泊を許す事、
(三)此兩港に於ては船中必要の物品を買求むるを許す事、
(四)米國に於て必要なりとする時は下田に領事を駐在せしむる事
であつた。
斯てペルリは凾館を視察し、尋で下田に來り、我全權に會し神奈川條約附録、下田凾館兩港に於ける米人遊歩規定、并に賣買の細則を議定した。是れ下田條約附録である。
神奈川條約が締結された翌年、即ち安政二年(千八百五十五年十一月)米國聖公會傳道會社は、新に二人の少壯有爲の宣敎師を支那に派遣した。是れリギンス、ウイリヤムス兩師である。兩師は翌年(千八百五十六年)六月二十八日上海に來着せられた。同年(安政三年)七月十九日に、我國には米國總領事タウセント、ハリス渡來し、條約に據り下田に在留すべき旨を幕府に告知した。當時拒絶攘斥砲撃開戰の議論頻りに上下の間に行はれ、幕府はこれを鎭壓するに苦みし際なれば、亞米利加官吏の下田に在留するは、幕府の太だ喜ばざる所であつた。是に由て下田奉行をして退去を談判せしめたれど、事行はる可くもあらず、ハリスは總領事館を下田に設け、下田奉行井上信濃野守、中村出羽守に迫り、安政四年五月二十六日を以て、規定書八箇條に調印せしめた。而して、ハリスは總領事として在留するのみならず、米國大統領より日本條約を改訂し、和親通商の條約を爲し、之を議定調印するの全權を授けられ、國書を携帶して渡來したるに付き、江戸に出でゝ將軍に謁見し、且閣老に會見すべしと迫つた、幕府は之を謝絶せんと試み、百方其力を用ひたれど、ハリスは斷然これを聽かなかつた。然るに此時に當り、英國は頻りに淸國を攻破り、勝に乘じて十分なる條約を結び、其餘威を以て日本に強請する所あるべしと云へる風説は大に幕閣の心膽を寒からしめ、戰々兢々たる折柄なりければ、ハリスは此機會失ふべからずとや思ひけん、東洋の形情を論じ、米國の國是を敍し、切に英國全權の來らざるに先だちて、米國と條約を結ぶは、日本の國安の爲に急務なりと懇切したので、幕閣は群議を排して、米國官吏江戸參府、同登城拜謁、閣老會見應接を承諾するに至つた。
安政四年十月二十一日、ハリスは將軍家に謁見し大統領の國書を奉呈し、同二十六日閣老堀田備中守の邸に至り、堂々宇内の形成を述べ、開國貿易の利を説き、今日の時勢に際して、日本一國のみ萬國交際のほかに孤立しては、國安を維持し民福を進捗するの望み得べからざるを論じ、斷然米國の勸誘に應じて、國是を定むるの長計たるを、滔々懸河の辯を揮つて説示し、演説凡そ六時間に渉つたといふ。
閣老大に其辯論に服し、遂に勇進的開國主義を持するに至つた。かくて井上信濃守岩瀨肥後守を全權に命じ、ハリスが呈出せる條約草案を議定する事になり、同年十二月二十五日に至りて全く協議決了し、今は最早雙方全權調印署名する計りに成つた。其草案は翌年に調印したる「安政五年江戸條約」と名くるものである。
是より先ハリスが幕府と談判交渉中に、米國軍艦ポーツマウスは我國に渡來した。此軍艦は千八百五十七年(安政四年)八月二十二日上海を出發し、九月七日夜下田に入港し、後ち函館に停泊した。此停泊中同艦の一士官は、千八百五十七年十月三日日附にて、在上海の宣敎師に書簡を送り、書中日本傳道の時機到來せるを報じ、宣敎師を派遣すべしと訴へた。
『敬愛する足下、小官は香港に到着の上は、請取るべき又た認むべき多くの書状有之べく候に就き當地停泊中の閑暇を利用し、日本よりの短信を足下に認め申上候。我等は八月二十二日上海を出航し、逆風激浪に進路を妨られて、下田港に投錨したるは九月七日夜に候。陸地に近づき候に景色まことに美しく、淸新なる大氣は一呼吸毎に、心神を壯快ならしむる如く感じ申候。投錨するや直ちに海岸より來れる役人等により食事を供せられ候。彼等は至極慇懃にして我等が願望し得る糧食に關する凡ての物、寧ろ彼等が有する凡ての物を我等に供給すべく申出候。彼等は我等が要求する權あるものは、如何なる事物にても拒絶せんとする樣子は無之候。價格は我等の堪能なる總領事ハリス氏の盡力により、最も滿足なる標準にて定められたれば、魚類小鳥等も廉價にて得られ候。此紳士は自己の職務に深大の興味を有し居らるゝは、我等の喜ぶ所に候。或る人々は此度我等の渡航に際し、彼は日本を去るならんと豫期いたし候へ共、事實は全く反對にして、彼は自己の使命に一向專念全力を傾注し居り、現在に於ては部分開港に候へ共、結局日本諸港を開放することに成功すべしとの希望を懷きつゝ、恰も母國より追放の状情に在りながら、尚ほ益々奮勵努力すべき決心に有之由に候。彼が幕吏と會見應接するや、威風嚴然態度沈重にして、禮節作法を嚴守し、一動一靜も忽諸にせざる事は、慣例格式禮儀を墨守する遉の形式家輩の眼には、彼の一層の敬重を加へたることゝ存候。彼は強固に確實に努力しつゝあれば、其進行は遲々たりとも、此國より全く獲得したるもの僅少からざるは、小官の信じて疑はざる所に候。彼は昨年七月、サン、ジヤシントーより上陸したる以來、單身此地に在留いたし、爾來今日まで我が一軍艦も來りて、彼の爲めに其威容を示し、以て故國の強堅なる後援を保證せざりしたにも拘はらず、彼は其人格的感化に由つて幕閣を動し、深く彼等の心理に自己の威重を感銘せしめ、彼等をして重要なる讓諾を爲さしむるに至り候。下田に於て二人の幕吏は、特別なる思慮を以て彼を待遇いたし候。幕府は下田の周圍十六哩を以て、遊歩區域と制限したる條約の規定を釋きて、彼が自由行歩の權を承認いたし候。併ながら暫らく區域外に行歩なきやう要請せられ候。彼と幕府との交渉は進行しつゝあり、此交渉に於て結局は江戸に出府し、通商條約批准に至るべしとは、彼の毫も疑はざる所に候。近頃彼が締結したる重要なる件々にて、直接宣敎師の事業に關係するものに在つては、米國人民は、何人なりとも日本に來り、下田函館兩港に住居するを許すとの如き、斯る特種の件に候。また法律に違反したる米國人民は、支那に於ける外國領事の慣例に從ひ、總領事若くは領事に於て處分せられるべしとの事に候。足下よ、是れ我等の前に傳道の門戸開かれつゝあるに候はずや、此は是れ大能者の御手の聖業には候はずや。
此條約は、千八百五十八年七月四日より實施せらるべき規定に候。此時期前に日本に來るは、何人たりとも思慮なき事に可有之候。此地の爲に任定されたる宣敎師は、多年間堪へ忍び俟ち望む覺悟を以て來らざる可からず。日本に來る宣敎師は、基督者となるは日本人には死なる事を記憶せざる可からず。彼はまた日本人の基督敎に關する思想は、彼の十字架の旗下に此國を占領せんと謀りたる西班牙葡萄牙ゼジュイット派に於ける苦き經驗に限られたることを記憶せざる可からず。ゼジュイット派に關する傳説は、毫も消失する所なく其儘世々代々傳へられて、今も尚ほ彼等の腦裏に鮮明に印刻せられ居り候。小官等が通過するや、我等を目がけて泣き叫ぶ小兒等は、慥かに基督者は猛獸と見做せと敎へられたるものに候。宣敎師は日本に於て住居の權を有するも、會堂を設立し人民に福音を宣傳することは許されず候。彼が自己の禮拜を爲すは妨げず、米國民が公禮拜の爲に參集するは拒まれず候へ共、公然人民に基督を宣傳する事は、目下の所にては許されず候。宣敎師は此地に來り、何等別手段を講せずして、無暗に事業に突進いたさば、恐らくは大害を釀すに至るべく、唯に彼の勞作を水泡に歸するのみならず、總領事の政策に累を及ぼすべく候(中略)。
宣敎師は此地に於て英語研究を切望する人民を發見すべく、學校も速かに開設し得らるべく候。福音の眞理に關しては之を傳ふる方法は、所謂蛇の如く智かるべき事に候。兔に角國語學習に長日月を要し候えば、來るべき者は、明年七月四日後早々渡來あり度候。支那語の素養あらば國語研究上利する所多かるべしと存候。氣候は略ぼ本國と同じく、やゝ温和にして、熱病赤痢等は無之、地球上これほど健康に適する土地は無かるべしと存候。(中略)
小官は上海出立の折りに、斯くも勇み進んで通信を認め得らるゝとは思も懸けざりしが、當地に來りて最も心地よき失望致し申候。小生は特別なる興味を以て日本に注目いたし居り候。而して見識と信仰に富める人士が、此國の傳道の爲に選定せらるゝことを眞實に希望致し候。福音は萬國の民に宣傳へられるべしとあり、されば何人も福音は此國に至らずと辯疏し能はざる可く候。諸國諸民は福音宣傳者に開かれざる可からず、而して聖旨によしとし給はゞ、神の攝理に由り何れの國何れの民も、福音宣傳のために開かれ候。今や大能の聖手は日本の上に働き給ふ、此國の開港は單に通商貿易を許諾したりといふよりは、より以上の意義を有し候。此は恰かも間隙に楔子を打込む如く、福音の眞理を此國に打込み得べき端緖、此處にありてふ事を表示するものに候。是ぞ神が日本帝國の人心を吾人に向つて啓かしめたる所以に候。(下略)
千八百五十七年十月三日日本函館
亞米利加合衆國ホーツマウス艦
一士官』
此書状に接したる上海の宣敎師は、直に之を支那監督ブーン師に送達したるが、監督は更に此書を米國聖公會傳道會社機關紙スピリット、オヴ、ミツシヨンスに寄送し、同紙上に之を公示し、大に日本傳道の急務を訴へ、公會の注意を促した。
『愛する兄弟 予は本紙上に於て、我が海軍の一士官が日本より書かれたる書簡を諸君に寄贈せり。此書簡は上海にある我が兄弟の一人より 予の許に送致せられたるものなり。書簡其ものは諸君に語るべければ、予は唯だ本紙上に於て、諸君に精讀を請ふ理由に就き、茲に數言を費さんとす。
予が、本紙上に於て諸君の精讀を請ふ第一の理由は、今や日本に對し公會の注意を喚起すべき時機到來せりと思惟するを以てなり。近頃締結せられたる條約に據り、米國民は下田函館兩港に住居する事を許容せられたり。想ふに是より、商人其他のものは彼地に群り渡航すべし、其時に際し宣敎師たるものは、此特權を利用すべく米國民の最後の階級なるべきか、神の攝理に由り、此帝國に福音宣傳の門戸、其前に開かれたる此の天與の好機を、公會は冷眼看過せんとするや、惟ふに諸方面に起る此書の反響は、必らずや我が外國傳道委員をして、直に此國に派遣すべき、忠實なる二人物を要求せざるを得ざるに至らしむることは、予の信じて疑はざる所なり。
予が本紙上に於て、此書簡の精讀を請ふ第二の理由は、此は我が海軍の名譽なりと思惟すればなり。斯る場合に我が勇敢なる軍人中に、斯る人物を發見し、而かも彼の證言を聽くに至りしは、予の欣喜に堪へざる所なり。彼は吾人に語りて曰く、「諸國諸民は福音宣傳者に開かれざる可からず、而して聖旨によしとし給はゞ、神の攝理に由り何れの國何れの民も、福音宣傳の爲に開かれ候。今や大能の聖手は日本の上に働き給ふ、此國の開港は單に通商貿易を許諾したりといふよりは、より以上の異議を有し候。此は恰かも間隙に楔子を打込む如く、福音の眞理を此國に打込み得べき端緖、此處にありてふ事を表示するものに候。是ぞ神が日本帝國の人心を吾人に向つて啓かしめたる所以に候」と。予は此書簡が、日本に對する大なる注意を喚起するに至るべしとの予が希望の、必らず徒しからざるべきを信ずるなり。
千八百五十八年二月十三日
ウィリヤム、ゼー、ブーン』
如上の監督ブーン師の紹介を以て、無名の一士官の興味ある書簡は、千八百五十八年三月の米國聖公會傳道會社機關紙上に發表せられたるが、是ぞ米國聖公會が、日本帝國傳道を促されたる第一の警鐘であつた。