神と格闘する
大阪教区の教会は多くは英国CMSという宣教団体によって育まれてきた歴史を持っていますが、アメリカ聖公会の宣教活動も無視することはできません。今年創立140周年を迎えた川口基督教会ももとは、アメリカ聖公会のウイリアムス主教によって築かれたものでありますし、実は堺聖テモテ教会も、1889年にジョン・マキム司祭(後に主教)、ティング司祭を中心とするアメリカ聖公会のミッションによって建てられ、このミッションはやがて和歌山、橋本といった紀ノ川流域の伝道に携わりました。また、ジョン。マキム師は、早くから奈良県に伝道を開始し、郡山、そして一八八五年には奈良でこの教会の創立者である玉置氏、中山氏に洗礼を授けて、奈良基督教会の礎としたと『奈良基督教会80年史』には記されています。そして、この教会は日本で最初の自給教会として発展していったのです。そういう意味で、堺聖テモテ教会と京都教区、そして奈良基督教会は同じアメリカ系ミッションの伝道活動によって生まれた果実として深い絆を持っているわけです。また、最近においても人的交流が結構緊密で、堺聖テモテ教会からの転籍者が幾人もおられます。 その後、奈良基督教会は幾多の変遷を経て、1930年には、大木吉太郎という宮大工の設計・施工によって、この立派な日本建築の教会堂が完成いたしました。この教会の建物のことは奈良教会の皆様の方が良くご存じだと思いますが、吉野の檜をふんだんに使った芸術作品と言ってもよい素晴らしい造りの礼拝堂で、聖書台、聖具類など、すべてがこの日本の文化、風土に調和した美しいものとなっています。 その少し前、吉村大次郎という一人の日本人司祭が、補助司祭として奈良基督教会に赴任し、やがて牧師に任命されます。実は、この吉村大次郎には八人の子どもがおりまして、末っ子の覚というのが生まれて間もなく岩城家に養子に出されております。それが私の父、岩城覚です。私個人として、奈良基督教会に深い愛着と絆を感じておりますのはそういう理由からなのです。ですから、今日このようにして説教壇に立たせていただいておりますのは、本当に感無量であり、神さまの不思議なお導きを感じざるをえません。祖父、つまり吉村大次郎は、田原本の出身で、若くして自由民権運動に加わり、その後ドウマン司祭から洗礼を受け、日本の神学校を卒業後、渡米し、太平洋神学校で学びました。そして、アメリカで聖公会司祭として叙任されて帰国したと聞いております。さまざまなエピソードの持ち主ですが、気骨のある聖職者であったようです。 祖父は1930年10月に妻マスエに先立たれます。葬儀の後に出されました会葬お礼の書状には、故人最期の言葉としてこんな言葉が印刷されております。「私はお先へ神さまのところに参ります。永い間お世話になりました。兄弟は仲良くしておとうさまを大切にしてください。茂樹は一生懸命に神さまのために働いて親の志を継いでください。お知り合いの方々や教会の皆さんに宜しく言ってください。サヨウナラ、サヨウナラ…」そういって天に召されたようです。この中に出てまいります茂樹というのは、父のすぐ上の兄で、やはり生まれてから曽根家に養子に参りまして、後に司祭となりました曽根茂樹のことです。父は、牧師にはなりませんでしたが、私たち子ども(私と三人の姉)を、イエスさまの愛によって、また、イエスさまを知ることができるように育ててくれました。私は幼児洗礼によってクリスチャンとされたことに、一時期強く反抗していたこともありますが、その愛によって育まれたことが、今の私を作り上げたのだとひたすら感謝しております。 いささか自己紹介じみた話しが長くなりました。さて、本日の聖書のみ言葉から、ご一緒に学んで参りたいと思います。旧約聖書は、ヤコブ(つまりこの日をもってイスラエルと呼ばれることになる族長)が、兄のエサウと仲直りをするために出かける場面です。仲直りというよりは、自分の非を認めて謝罪に行くといった方が良いかも知れません。ヤコブはエサウから長子の権利をだまし取るという行為を働き、エサウから大変恨まれていたからです。ともかく、ヤコブの心は、兄に対する慕わしさと恐れとがない交ぜになった、非常に緊張に満ちた状態だったでしょう。そして、その最中に、彼はきわめて不思議な体験をいたします。夜中に、何者かが現れて彼と夜明けまで格闘したというのです。そして、その相手は、神ご自身だったというのです。相撲でしょうか、レスリングでしょうか。ともかく、一晩中神と格闘するわけです。そして、神から「イスラエル」(イスラは闘う、エルは神のこと)という名前を与えられます。この一晩の神との格闘の中には、ヤコブの人生の旅が凝縮されています。かつて父と兄をだまして長男の権利を奪い取ったヤコブは、やがて兄恐ろしさのあまり逃亡生活を送ります。そして、今、神との必死の闘いの末、「祝福してくださるまで離しません」と言うのです。大変厚かましい願い、厚かましい態度ではあります。しかし、ヤコブは悔い改めと和解の気持ちをもって、危険を冒して兄エサウに会いに行く。ここで人生のある種の決着をつけようとしているのです。ひょっとしたら兄に殺されるかも知れない。しかし、自分は会わなければならない。そんなヤコブの気持ちが凝縮して現れたのが、「神との格闘」という出来事ではないでしょうか。 福音書にも、共通したメッセージが含まれています。「神を畏れず人を人とも思わない裁判官」のもとに、一人のやもめ(未亡人)が来ます。当時の未亡人の社会的・経済的地位は大変低く、ほとんど無権利状態だったので、この人は必死の思いだったのだと思います。彼女は、自分の訴えを取り上げるように、しつこく裁判官に頼みます。あまりにしつこいので、裁判官はとうとう折れて裁判をすることになります。そこからイエスさまは「神は、昼も夜も叫び求めている人々を、いつまでも放っておかれない。」と教えておられるのです。「しつこさ」ということでは、同じルカ福音書に、友人のところにパンを借りに来る人の話しがあります。不意の訪問者があったときに、もてなすパンがない。あわてて友人の家に行って「パンを三つ貸してください。」と頼んでも、初めは貸してくれないだろう。子供は寝ているし、その子供を起こしてまでパンを貸すために戸口にまで行くわけにはいかない。そういって断られるだろう。しかし、繰り返し繰り返し執拗に頼めばきっと願いを叶えてくれるだろう、というお話です。そしてその後に、「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。」という有名なみ言葉が続くのです。 私たちが、自分が本当に求めているものを知り、それが実現されるまでには、長い道のりがあります。「求めなさい、そうすれば、与えられる」の「そうすれば」には深い意味が込められています。時間的にも、かなりの時間がかかることがあるのだと思います。ひょっとしたら一生かかるということもあるかも知れません。それでも、神さまは私たちに必要なことをご存じで、必死に求めることによって、それは必ず与えられる。そのことを私は固く信じています。 私は、クリスチャンホームに生まれ、日曜学校に通い、クリスチャンとして育てられました。中高生の一時期には、そのことに反発したこともございますが、やがて、信仰に目覚め、学生時代には、京都聖マリア教会に転籍して、青年会活動や全国の学生キリスト教運動に積極的に関わることになります。その中で、将来は牧師になろうという思いも芽生えておりました。京都教区の中で、今でも私のことを覚えていて下さる方がたくさんおられるのは、本当に感謝です。しかし、やがて深刻な疑問を感じて、かなり長い間教会を離れることになってしまいます。もちろん、イエスさまのことを忘れたことは一度もありませんでした。聖書を読み、神学書も読みあさりました。神さまのご意志は一体何なのだろうと考え続けました。そのことは間違っていたとは思いません。しかし、心の中が、「自分が正しいのだ。」「間違っているのは教会の方だ。」という傲慢な思いでいっぱいだったということも否定することはできません。やがて、それが本当に大きな罪であり、教会の皆さんと共に歩むことこそが神さまの召しであるということに気づくようになり、十数年前に教会に戻り、やがて聖職志願をする決意をいたしました。「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。」(ヨハネ15:5) 考えてみますと、とても不思議な感じがいたします。というよりは、感無量と言ったほうがよいでしょう。あんなに、教会に反抗し、神さまと格闘していた私が、今こうして説教壇に立っているのです。祖母マスエの「一生懸命に神さまのために働いて親の志を継いでください。」という言葉は、叔父の茂樹に向けられたものでしたが、私に対しても語りかけているような気がしてなりません。神を求め続けた長い、しつこい人生の旅は、今、神の祝福を受けて、牧師という立場、職務という形で新たな幕を開けることになりました。まだ、この旅は続きます。神と格闘することは今後もあるでしょう。それでもない、しつこく神を求め、祈り続けたいと思っています。
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