バルナバ栄一の『「信仰・希望・愛」の展開の物語』 第六部 その2-(3)
このように、福音が宣べ伝える永遠の命はまず何よ りも復活に与ることであって、来るべき永遠の世における命です。確かにそれは、将来のことです。しかし、復 活者キリストを信じるとは、将来の復活を待ち続ける事だけではありません。現 在のこの地上で永遠の命を生きる事なのです。死に限定された存在の中で、死を克服した命を持つことなの です。この命の消息を最も明確に語っているのは、矢張り使徒パウロです。パウロは自らの キリス体験とキリストに結ばれて生きてきた現実から、この命の消息を語り出しているのです。それは教理では なく、現実の生の消息です。パウロは「生 きているのは、もはや私ではない。キリストが私の内に来て生きておられるのです」(ガラ テヤ 2;20)と語っています。「今この地上に生きているのは、死に定められた私ではなく、死を突破して 復活されたキリストである」と云うのです。既に復活されたキリストが生きておられるのですから、自分が死ん でいるか生きているかはどちらでもよい問題になります。途上の生と死はもはや絶対的な矛盾ではなく、相対的 な問題になります。すなわち、復活者キリストと共に生きると云う絶対的な価値の故に、地上の生と死は「生き るもよし、死ぬるもよし」と云う相対的なものになるのです。この境地から「わ たしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです」(フィリピ 1,21)と云うパウロの言葉が出てきます。神に生きるとは、具体的には神がイエスを復活させた命を持って 生きる事です。復活に至る質の命に生きる事です。それは、キリストの御霊、また神の御霊に充満する「愛」の命です。
パウロが「永遠の命」と云う時は、将来の復活と現在の命と云う両面が不可分に含まれていると考えられま す。所が、パウロの手紙が書かれた時から40年程のちのヨハネの福音書になりますと、他の何よりも「永遠の 命」が福音の主題になり、然もその「永遠の命」が現在の事実であるということが中心的位置を占めてしまった ようです。
ヨハネ福音書が書かれた目的は、この福音書自体が明確に述べているように「こ れらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子キリストであると信じる為であり、また、信じ て《ゾーエ―》(永遠の命)を受ける為です」(ヨハネ福音書20;31)。という言葉を 書いています。ここには「復活」が抜けているようですが、「命のパン」の対話の所で、「わ たしが命のパンであり、わたしを食べる者=(私を信じる者)は永遠の命を得ている」と、 それは現在のことだと云われるのですが(ヨハネ6;47)同時に、終わりの日の復活を約束しておられます。「わたしがその人を終わりの日に復活させる」(ヨ ハネ6;40)と云っておられます。このように「死者の復活」は福 音の中心であることは、論を待ちません。パウロもヨハネも同じ視点で「永遠の命」と「復 活」を語っているものと考えられます。
これで舌足らずでしたが、《永遠の命》を終わり、イエスの「神の国の説話=神の恩恵の開始」から始まり、 「福音の告示」、「永遠の命」と続いた、私の報告の約束を終わりますが、全編にわたり、市川喜一師のご著書 によったことは、何回もご報告をした通りです。この一連の文書は、市川師のご認可を得てはいますが、殆ど丸 写しと云うところも多いのです。師の解説の方が皆様のご理解を得やすいと思ったからです。
尚、「天旅ホーム・ぺージ」をパソコンで開いて、師の「聖書研究」、その他詳細を知ることが出来ます。
あらためて師に心から御礼を申し上げます。
以上で、私の約束は 何とか果たしたと思っていますが、内心、まだ十分ではないという不満も持っています。と云うのは、人間全 体、ことに信徒の生きざまの根幹である、「信仰と希望と愛」について、信仰はどうやら、足りないながら述べ てきたと思うのですが、永遠の命を生きる内容の「神の愛」について述べる余裕がなかったと感じています。そ れで「神の愛」「キリストの愛」また私たちの師表となる、Tコリント13章「愛の讃歌」を取り上げて、もう 少し私たちの「愛の生きざま」を探ってみたいと云う希望は持っているのですが、頭も働かなくなり、破天荒な この夏の暑さで、どうなるか確かでありません。
ここで一息つかせて頂き、あらめて「愛」と「希望」を語れればと望んでいます。
バルナバ栄一の『「信仰・希望・愛」の展開の物 語』
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