バルナバ栄一の『「信仰・希望・愛」の展開の物語』 第六部 その2-(2)鳩
  「神の道の終局としての死人の復活」(ヨハネ福音書第11章)
 神の道への招き


 福音は私たちを「神の道」を歩むようにと招いています。福音とは何かと云うと、その中身、実質は キリストです。キリストが私たちを永遠のいのちの道へと招いておられるのです。キリストとはナザレのイエスとし てこの世に現れ、神のみ心により私たちの罪 を負って十字架の上に死に、復活して天に上げられ、今も「いのちを与える霊」として働いておられる霊的実存者で す。このキリストが福音の告知を通して招い ておられるのです。
 霊なる復活者キリストはまず、出発点になる「門」を通って道に旅立つように招かれます。ニコデモとの対話の中 で示されたように、復活者キリストを信じる ことにより、十字架に合わせられて自己が死に、キリストから聖霊のパプテスマを受け、その御霊の中から生まれる ことによって新しいいのちに生きるようにな ることです。
 霊なる復活者キリストはさらに、このように新しい命の道に旅立った者たちに、御自身こそその命を養い生かす 『命のパン』であることを示し、そのパンを食 べて、永遠の命に至るように招かれます。この道は荒れ野を通る道です。すなわち地上にはこの命を養い生かす糧は ありません。天から与えられる糧でなけれ ば、真実の生を生きて行く事はできません。
 この道を歩む者は何処に向かっているのでしょうか。イエスはそれを示すために地上での働きの最後に、最大の 「しるし」を行われます。それがラザロになさ れた業です。「わたしは『命のパン』を食べる人々を終わりの日に復活させる」と語って、目的地を指しておられま したが、ラザロの場合は、勿論「死人の復 活」ではありません。ただ「プシケー」への生き返りに過ぎず、ラザロはやがてまた死ぬわけですが、イエスはこの 道の最終目的地が「死人の復活」であり、彼 イエスこそ死人を復活される方であることを示されました。
「ラザロは死んだのだ。そしてわたしがそ こに居合わせなかったことを、あなたがたのために喜ぶ。それは、あなたがたが信じるようになるためである」(ヨ ハネ11;14〜15)

イエスはここで、「死に至る死」と「死に至らない死」があるのだと云っておられる。弟子たちが何を信じるように なるためか。それは、神が神を信じた死人を 復活させる方であること、しかも、復活してキリストとして立てられるこのイエスによって、死人を復活させられる ということを、弟子たちや、私たち信徒が信 じるようになるためです。
 福音が言う「信仰」とは復活の信仰以下のものではありません。死人の復活の信仰に到達していない信仰は、まだ 福音の信仰ではありません。神がイエスに よって死人を復活させることを信じるようになるため、ラ ザロが死んだことを確認されてからイエスは御業を行い、「しるし」とされたのです。それから イエス は石で自分を打ち殺そうとした人々の所に出かけようとされます。弟子たちも「私たちも行って、先生と一緒に死の うではないか」と云って、出発します。復活 に至る命の道をイエスと共に歩もうとする者は、いつの時代でも、イエスと共に死ぬ覚悟が必要です。
 信仰は一般化される時、いのち無き抽象物になってしまいます。教義とか教条(信条)と云うものは信仰内容を一 般化して宣べるものですから、ただ或る教義を 受け入れてそれを信仰しているだけの信仰は、頭の中の一つの観念であって、人を変革し生かす力とはなりません。 復活についても、終わりの日の死人一般の復 活を教義として信奉するだけでは、それは今の現実の私と何ら具体的な関わりの無い一個の抽象概念に過ぎません。
 私たちの復活信仰とは、最終的に復活されたイエスのように霊の体を持って生きるようになる。す なわち、復活に至る質の命を今、現実にこの身に宿して生き る事です。この永遠の命によってこの私が復活するのです。この体が焼かれて灰になろうが、神 は今生きているこの私の命に、霊の体を与えて下さるのです。こ のように信仰は現実に霊なる復活者キリストとの交わりにあることからのみ来るのです。イエスはマルタに云われま す。
「わたしが復活であり、命である。わたし を信じる者は、死んでも生きる。また、生きていてわたしを信じる者は、いつまでも死ぬことはない」(ヨ ハネ福音書11;25〜26)
 
イエスはマルタが信じる教条信仰の抽象性を乗り越えさせる為にこう言われるのです。
「わたしが復活である。わたしが命であ る」

 復活は教義・教条の中にあるのではない。現にマルタの前におられる生ける人格イエス、私たちにとっては、今生 きて働き給う霊なる復活者キリスト、この方こ そ復活である、命そのものである、ということです。信仰とはこのキリストを食べることです。「主さま」の一言に 自分の全存在をキリストに投げ入れ、一つに 合わされて生きる事です。このような質の信仰においては、復活はもはや教義ではなく、自分の中にある命の現実と なります。「死んでも生きる」ということが 現実となります。この命の現実の中で霊なる復活者キリストとの交わりに生きる者は、その命が決して死ぬものでは ないことを知っています。
 これが永遠の命です。



 

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聖書

 

バルナバ栄一の『「信仰・希望・愛」の展開の物 語』

 第六部 そ の2: 1 2 3

 

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