バルナバ栄一の『「信仰・希望・愛」の展開の物語』 第四部・その1-(3)鳩
 

「わ たしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰 によるものです」 (ガラテヤ2;20c) 

わたしはキリストと一緒に十字架につけられて死んだのに今も尚、生まれながらの人間の生を生きているのは、 どういう事でしょうか。今わたしが生きているこの生は、もはや自分が自らの存在と価値を根拠として生きてい る生ではなく、わたしを愛し、生きる資格のないわたしのために自分を献げて下さった神の子イエス、・キリス トとの交わりの中で、生かされているのだと、パウロは現在の自分の生の姿を告白します。
 キリストの十字架上の死が「わたしたちのため」であることはごく初期から信仰告白の定式文が唱えてきまし た。そのキリストの十字架を「わたし個人のための死」でもあると受け取るのは、聖霊による復活者キリストと の個人的出会いの場においてです。パウロは聖霊によって復活者キリストと出会い、キリストとの交わりに生き ました。そのキリストはいつも十字架の死を負ったキリストでした。パウロはそのキリストの十字架の死を、ほ かならぬ自分の為の死と受け取らざるを得ませんでした。「わたしたちのために」が「わたしのために」になら なければ、キリストの死がわたしの救いになることはありません。
 わたしの場合も(市川師の経験)、聖霊によって復活者キリストに出会った時、そのキリストは、「わたしは あなたのために死んだ」として迫る愛でした。(私・バルナバ畑野の体験も同じでした)。神の子キリストがわ たしのために死なれたのですから、もはや私は生きることが出来ません。私はキリストと一緒に死んだのです。 今生きる生は、復活されたキリストに合わされ、恩恵によって与えられている生です。このように、キリストに 合わせられることによって、すなわち「キリストにあって」、生まれながらの私は死に、復活の新しい質の生命 に生きるようになることが、「キリスト信仰の核心」です。パウロはこのガラテヤ2;19〜20節によって、 自分の体験として福音の核心を語っているのです。

今述べた中に「キリストにあって」或いは「主にあって」と云う言葉が出てきました。私たちはお互いの間だけ ではなく、手紙の末尾の挨拶にもこの「主にあって」と云う言葉を使っていますね。どのような意味でしょう か?
(キリストにあって)「主イエス・キ リストにあって」 (エン・クリスト―)の意味 

「信仰による義」と云う入り口から入る、救いに到らせる神の力の働く場を、パウロは「キリストにあって」 《エン・クリスト―》と云う句で示し、繰り返し用いています。(キリストにあって)または(キリスト・イエ スにあって)と云う句は新訳聖書に76回出ているそうですが、すべてパウロが用いています。
 「信仰によって義とされる」と云う時の「信仰」は勿論キリスト信仰のことです。パウロは「律法の行い」に 対比される位置に「キリストの信仰」と云う表現を用いています。人は「律法の行い」によってではなく、「キ リストの信仰」によって義とされるのです(ガラテヤ2;16)。この「キリストの信仰」は、キリストに対す る信仰と理解されて「キリストへの信仰」(新共同訳)とか、「キリストを信じる信仰」(協会訳)とされるこ とが多いようです。しかし「このキリストの信仰」はキリストを内容とする信仰、キリストに全存在を委ね、キ リストとの交わりに生きるという意味の信仰と理解すべきです。パウロはこの「キリストの信仰」を「信仰」と 云う言葉だけで示します。(ガラテヤ3;23〜25)。

 私達はこのキリスト信仰によって「救いに到らせる神の力」が働く場である「キリストにあって」と云う場に 入るのです。律法の実行によってはこの場に入ることはできません。私たちはイエス・キリストを信じ、この方 に全存在を投げ入れ、この方に合わせられて生きる時、キリストと云う場《エン・クリスト―》に働く「救いに 到らせる神の力」によって新しい人間となり、救われてゆくのです。

 

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