バルナバ栄一の『「信仰・希望・愛」の展開の物語』 第四部・その1-(2)鳩

キ リストがわが内に

 「わたしは神に生きるために、律法に よって律法に死んだのです。わたしは、キリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはやわ たしではありません。キリストが私の内に生きておられるのです(がラテヤ2;19〜20a 市川喜一師私訳 一部) 

 典型的なユダヤ人のわたし、ユダヤ人の中でも特に律法に熱心であったパウロが、キリストに遭遇して以来 「律法に死んだ」のです。それまでのパウロは「律法に生きる者」でした。所がキリストにあって生きるように なったパウロにとって、律法はもはや生きる根拠でもなく意義でもなくなりました。律法に無縁の所で生きるこ とに意義を見出したのです。それをパウロは律法に死んだと表現します。「神に生きる」ためには、「律法に生 きる」こと」は否定されねばならない。「律法に生きる」という事は、律法を実行したという誇りを持って神に 向かうのです。律法を足場にして神と対立するのです。 そこでは神との交わりの中で、神の命に生きるという 場は成立しません。「神に生きる」為には、神と対立する自己主張が死に、神の恩恵だけが支配する場に来なけ ればなりません。
 キリストは「律法によって」殺されました。確かにイエスを十字架刑に処したのはローマの権力者です。しか し、イエスの処刑を求めてローマの権力に渡したのは、ユダヤ教律法を代表する最高法院です。ユダヤ教律法が キリストであるイエスに死刑を言い渡したのです。この一事が何よりも雄弁に、律法による義の道とキリストに よる義の道が相容れないものであることを示しています。パウロが「律法に死んだ」と云うのは、キリストに遭 遇し、キリストに合わせられて生きるようになった結果でした。律法に生きている「わたし」は、キリストと一 緒に十字架につけられて死んだのです。律法によって殺されたキリストと一緒に、わたしも「律法によって」死 んだのです。ここでパウロが用いている「共に十字架につけられた」と云う動詞は現在完了形です。今も事は続 いているのです。だから《わたし》は現在イエスと共に十字架につけられています。「わたし」は死んでいるの です。生きているのはキリストです。キリストは私の内に生きておられるのです。この一文は、「キリスト信仰 の内容を最もよく示しています。キリストを信じること、すなわち「キリスト信仰」とは、キリストに自分を投 げ入れ、キリストに結ばれることによって、キリストの十字架に合わせられて「わたし」が死に、復活されたキ リストが私の内に生きておられる状態です。(「エン・クリスト―」の現実です)。
 「わたしが死ぬ」というのは、自己の価値や資格を押し立てて神に要求する自己が無くなるという事です。 「キリストが私の内に生きておられる」というのは、神との関わりにおいて、わたしの現実のすべてで、キリス トが主語になっておられるという事です。キリストが私を義として下さるのです。キリストが私の為に執りなし て下さるのです。キリストが愛の力として働いて下さるのです。
 「わたしが死ぬ」のも「キリストがわたしの内に生きておられる」と云うのも、実感や神秘的体験の問題では ありません。それは神と関わる人間の立場の問題です。ユダヤ教律法を拠り所としていた昔のパウロの場合は、 「わたしが死ぬ」ことを「律法に死ぬ」と表現しました。はじめからユダヤ教律法と関係のない、わたしたち異 邦人の場合は、何であれ自己を主張する根拠を放棄することです。そしてキリストだけを根拠とする場に生きる ことが、「キリストがわたしの内に生きておられる」ことになるのです。

 

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