バルナバ栄一の「聖書談話」(マルコによる福音書 8 ) (3)鳩

皆で話し合う「マルコによる福音書(8)」

マルコによる福音書3章1〜6節

 

 実際、イエスを殺しかねない敵意と反目の中でイエスはなぜ怒られたのでしょう。〔律法では、安息日に病気を治してはいけない、と言っているのではないのです。生命の危険がある時は治療してもよい、となっていた。片手が萎えていても生存には差し支えありません。だからイエスはもう一日治療を伸ばしてもよかったのです〕、にも拘わらず、イエスは片手の萎えた人を会堂の真ん中に呼び出されます。何故なら、その人個人にとっては、生きるとは愛され癒されることであり、一刻を争う事なのです。イエスの愛は、もし片手の萎えた人をそのままで放っておく時、その人を殺している事と同じなのです。愛は一刻一刻を大切にします。イエスは今日成すべき事を明日には延ばされないのです。人間を大切にされる、と言う事が神様の願われる所なのです。イエスのこの怒り、この悲しみは、昔の予言者たちによって示された主の怒りと悲しみに通じるものです。たとえばアモスは、「聞け、貧しい者たちを踏みつけ、地の悩む者たちを絶やす者よ。・・・見よ、その日が来る。(主の日はあなたがたにとって一体何になる。それは闇であって、光ではない。・・・その日は飢饉がある。実に主のみ言葉を聴くことの出来ない飢饉がある。)又、ホセアには「わたしは誠実を喜ぶが、いけにえは喜ばない。全焼のいけにえより、むしろ神を知る事を喜ぶ」と言われたのに、神の真意を悟らない民たちばかりであった。現在でも神様の真意を悟らない国民達はいるのです。だから、その時の神の怒りと悲しみと同質な怒りを、イエスは持たれたのです。現在はどうでしょうか。アメリカのおごり、日本の追随、イスラエルの暴虐。先進諸国のエゴ。難民、飢民。棄民の氾濫。

 

←前へ     次へ→

 
聖書

 

バルナバ栄一の「聖書談話」

マルコによる福音書(8) 1 2 3 4

 

芦屋聖マルコ教会 トップページ