バルナバ栄一の「聖書談話」(マルコによる福音書 8 ) (1)
皆で話し合う「マルコによる福音書(8)」
マルコによる福音書3章1〜6節
手の萎えた人をいやす〔マタイ12:9−14、ルカ6:6−11〕
1イエスはまた会堂にお入りになった。そこに片手の萎えた人がいた。2人々はイエスを訴えようと思って、安息日にこの人の病気をいやされるかどうか、注目していた。3イエスは手の萎えた人に、「真ん中に立ちなさい」と言われた。4そして人々にこう云われた。「安息日に律法で許されているのは,善を行う事か、悪を行う事か。命を救うことか、殺すことか。」彼らは黙っていた。5そこで、イエスは怒って人々を見回し、彼らのかたくなな心を悲しみながら、その人に、「手を伸ばしなさい」と云われた。伸ばすと、手は元どおりになった。6ファリサイ派の人々は出て行き、早速、ヘロデ派の人々と一緒に、どのようにしてイエスを殺そうかと相談し始めた。
再び安息日がめぐってきました。イエスは、自分に対する敵意が溢れている会堂に行かれます。人々がイエスを如何に見ようが、イエスを安息日の主と認めない人々が会堂に満ちていようと、イエスは、主であり、その事を会堂でお示しになるのです。私たちも主の居られる所に赴かねばなりません。主日に頭として主が居られ、その兄弟姉妹たちと礼拝を共にする所に赴く事は勿論、週日には「イエスが既に来られているこの世界」で、イエスと共に祈り、イエスと共に「神様の憐れみ」を世界に示さねばなりません。そこには片手の萎えた人がいるのです。キリストの臨在、キリストの栄光をあざ笑うかのように、その会堂には悲惨な不具という現実がありました。現在の世界の現実はどうでしょうか? キリストの栄光、キリストの平和が、キリストの臨在を指し示しているでしょうか。いや、命を失わせようと苛まれている人たちがいるのです。
バルナバ栄一の「聖書談話」
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