バルナバ栄一の「聖書談話」(マルコによる福音書 6) (5)
もう一つ私ははっきり分からないことがあったのですが、イエスの「子よ、あなたの罪は赦された」「起きて歩け」とどちらが容易いか、と言う問題です。今度勉強してやっと分かりました。「罪が赦される」と言う事は神の権限で、地上の人間は誰も権限を持っていない。その通りである。そして罪が赦される事は、地上の人間に目に見える形で証明することはできないが、体の麻痺した人に、「おきて歩め」と言うことはそれより易しいことか?あなた方はそれが出来るか。出来ないであろう。どちらも人間には出来ないことである。そうならば、もし私がこの体の麻痺した人を歩かせるならば、人間を超えた権威がここに働いている事を知らねばならない。その人間を超える権威がこの人の罪が赦されている事を宣言するのである、と言っておられる。「罪が赦された」、と言っても、目に見える、何も起こらなくてもいいのです。その人の内部で起こっていることとごまかす事が出来るが、起きて歩めと言って歩く事が出来なければ、明らかに力を持っていないことがばれるから、起きて歩けと言う事が実行できれば、本当はその方が易しいのだが、人の子(イエスのこと)が神の子としてその権威を持っている事が分かるように、「起きて歩め」と言われたのです。そしてそれは実行されました。
罪とは本質的に神に対するものですから、赦しは神自身から来ます。しかし、人が勝手に「赦しの神」と定義する事は出来ないのです。神には@、赦さずに置く自由。A、3・4代までむくいを及ぼす自由、があるのですが、私たちは神が怒りよりもむしろ慈しみに傾いておられる事を知っています。(神は、モーセにそのように言われました)。だが、肉体を取って人に近づき給う神においてこそ、神は赦しの神としてのご自分を、残りなく顕されるのです。そのような受肉の神であるご自分をイエスは、人の子と言われます。その、人の子の、赦しのことばによってその人は起き上がり、自分の布団を背負って家に帰ります。そこに残ったのは、人間達の驚きと賛美です。
「罪の赦し」。それは法廷の無罪判決ではない。それは人間の一切の反逆とは違反を超えて、恩寵の故に、無条件で交わりを与えられる神の行為である。罪無き神の子キリストが世の罪を負う神の小羊として死なれた。罪の贖いを成し遂げられた。この十字架の出来事自体が神の言葉である。この終わりの時に、神は御子キリストの十字架によって世界に呼びかけられているのである。
「わたしはあなた方の罪を赦している。わたしのもとに立ち帰って、わたしとの交わりに入り、わたしの生命を受けなさい」と。(市川喜一師著「マルコによる福音書講解」より)この所は、イエス・キリストが「赦しの王国」が始まった事を宣言しておられるのです。「我らの罪を赦し給え」と祈るように教え給うた彼は、その願いに「われらに罪を犯すものを我ら赦すごとく」と言う言葉を結びつけよと命じ給います。福音の宣教には必ず罪の赦しが結びついている事をしっかりと理解したいものです。赦しが始まった事は、終末が始まったことです。
バルナバ栄一の「聖書談話」
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