バルナバ栄一の「聖書談話」(マルコによる福音書 6) (3)鳩

 

 

中風の人をいやす(マタイ 9:1〜8、ルカ 5:17〜26)
数日後、イエスが再びカファルナウムに来られると、家におられることが知れ渡り、 大勢の人が集まったので、戸口のあたりまですきまもないほどになった。イエスがみ言葉を語っておられると、4人の男が中風の人を運んできた。しかし。群集に阻まれて、イエスのもとに連れて行くことが出来なかったので、イエスがおられるあたりの屋根をはがして穴をあけ、病人の寝ている床をつり降ろした。 イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、「子よ、あなたの罪は赦される」と言われた。ところが、そこに律法学者が数人坐っていて、心の中であれこれと考えた。「この人は何故こういうことを口にするのか。神を冒涜している。神おひとりのほかに、いったい誰が、罪を赦すことができるだろうか。」 イエスは、彼らが心の中で考えていることを、ご自分の霊の力ですぐ知って言われた。「何故、そんな考えを心に抱くのか。 中風の人に『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて床を担いで歩け』と言うのと、どちらが易しいか。10 人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」そして、中風の人に言われた。11 「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい。」12 その人は起き上がりすぐに床を担いで、皆の見ている前を出て行った。人々は皆驚き、「このような事は、今まで見た事がない」と言って、神を賛美した。

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 イエスがカファルナウムに帰って来られたのは、安息日ではありません。だから人々は会堂ではなく、シモンの家に集まって来ました。イエスがそこに居られるなら、生けるキリストと会う事が出来るなら、立派な会堂でなくてもよいのです。この時人々はイエスのみ言葉を聴いたのです。イエスその人に期待はかかっていました。キリストこそお語りにならねばならなかったのです。この間のマルコ教会の信徒会で、木村司祭様が「一番大切な事は、心を尽くして聖餐式に連なることだ」と最後におっしゃいました。イエス・キリストの肉である言葉を食べて養われ、イエス・キリストご自身である血を頂いてキリストに同化すること、聖餐式でキリストこそが語られ、出会わねばならないのです。イエスはご自分の言葉を語り給うのです。私たちは教会から出てゆく時、その福音を語り伝えるようになる筈です。何故なら、福音は語られ宣べ伝えられねばならないと言う性質(喜ばしい便りである、と言う性質)を与えられているからです。キリストの言葉を与えられねば、人間は回復しないのです。それによって和解が来、それによって召しが起こり、それによって潔めが起こるのです。

 

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