わたしたちのあゆみ
  
 「息吹きを受けて」
                  聖公会婦人の戦後史
                  1991年12月10日発行
                 日本聖公会婦人会
 「息吹きを受けて─第二集─」
             百年の重みと時代の変化
              2004年5月31日発行
              日本聖公会婦人会
          このページの内容は以下の2冊の「息吹きをうけて」から抜粋しています。
                    
日本聖公会婦人会の始まり

・組織作りと指導者たち

1892(明治25)年11月、小宮珠子姉らによって祈りと献金で伝道を助ける「メリーの友の会」が誕生した。以来、米国聖公会のマキム主教夫人、ミス・ラベル宣教師等の力を借りながら、一致感謝献金(感謝箱献金)運動を軸に、北東京や京都地方部に「婦人補助会」の核づくりが始まった。時は1897(明治30)年である。

1908(明治41)年4月、各地方部から3人ずつの代表を集め、大阪で初の婦人大会を開いた。この呼びかけの母体が「日本聖公会婦人補助会中央本部」と称されるようになり、日本聖公会の外郭団体の一つとなった。

今日のように教育の自由が認められなかった明治・大正・昭和初期には教育・教養・そして信仰を身につけた指導者が必要だったが、その都度、小宮珠子・林歌子・須貝千代・山口敏子の各姉、それに婦人宣教師(英・米・加)、日本の婦人伝道師等の人材が与えられた。

これらの人びとの献身によって会は支えられ、継続されてきた。

1926(大正15)年の第7回総会では、名称を「日本聖公会婦人伝道補助会」として、台湾・満州に婦人伝道師を派遣するなどしてその伝道事業を支援した。またこの総会で被献日22日を日本聖公会婦人補助会の「創立記念日」と定め、各地方部で記念聖餐式を行い、その信施金を中央本部に積み立て、「婦人献身者養成」のために用いることを決め、これを「被献日献金」と呼んだ。

戦時中

1937(昭和12)年7月、北京郊外で櫨溝橋事件が起きた。この頃から国外では大変な事態となっていくが、日本国内では危機感があまり感じられなかった。しかし、時が進むにつれ、キリスト教に対する軍部のしめつけは地方の教会にも及び、教会から若者の姿が消えたり、特高の目が教会に向けられるようになった。やがて、宣教師たちは母国からの命令で引き揚げを余儀なくされていった。また、東京芝白金にあったナザレ修女会の建物が軍に没収されたり、教会の合同問題も起こり、解散を迫られた日本聖公会は単立教会として辛うじて法的地位を得たものの、一部の教会は日本基督教団に加盟した。

日本聖公会の機構解消に伴い、日本聖公会婦人伝道補助会も1943(昭和18)年325日、臨時総会を開きその存続を協議。「中央本部存続の要あり」とする賛成者は一人もなく、解散の決議を行った。

この間、1935(昭和10)年5月には、中央本部に文書部と慰問部が設置され、外地の伝道地で働く教役者、家族に文書を添えて金品を送り、慰問に心を尽くした。やがて、それは兵のための献金、健艦のための一銭貯金となり、1942(昭和17)年度をもって中央本部の活動を打ち切った後も、各教区婦人補助会が活動を続けた。「聖戦」と思いこまされ、それが「み国の拡張」にもつながると信じた時代であった。


そして1945(昭和20)年、多くの人びとの犠牲と悲しみ、苦しみの内に第2次世界大戦は終戦となった

全体主義・軍国主義がかっ歩する中で、教会がつらい選択を迫られたことは事実である。しかし、同時に日清・日露戦争で得た土地への伝道を「御国の拡張」と信じ、第2次世界大戦に敗れる1945年まで、帝国主義の国策や侵略戦争に加担し、アジア近隣諸国の人々を踏みにじることになった結果を痛みとして忘れてはならない。』

(『息吹きをうけて』P323より)

戦争後〜現在
続く