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Channing Moore Williams 主教に関する情報


概要
 江戸時代末期に米国聖公会から派遣された宣教師で、日本聖公会の初代主教であり、横浜クライスト・チャーチ(山手聖公会)設立者、立教学院の創始者と言えば分かりやすいかもしれませんね。

2018年11月12日追記:下記のURLに ウィリアムズ主教の伝記が掲載されています。
日本聖公会管区事務所の『監督ウイリアムス師傳』


もう少し詳しく
 「日米修好通商条約」を締結した翌年の 1859 年(安政 6 年)アメリカの砲艦ジャーマンタウン号から下り立ち、長崎の地に上陸した一人の青年がいます。(何か、第二次大戦後、爆撃機 B29 の機上から厚木基地に下り立ったマッカーサー元帥と類似したイメージですね。)
 
 これぞ我が日本聖公会の創立者とも言える、当時 29 歳の牧師チャニング・ムーア・ウイリアムズ(Channing Moore Williams)青年です。

 当時は、かの有名な「安政の大獄」事件※1真っただ中と言う世相不安定な中にあり、 またキリスト教禁制と言う時代でもありました。 さらに米国では南北戦争※2勃発寸前と言う厳しい環境の中で、ウイリアムズ青年は 8 年間を長崎の地で過ごし、キリスト教の宣教活動にたずさわりましたが、明治維新(1868 年)直前の 1866 年(慶応 2 年)に一時、本国に帰国しました。1869 年(明治 2 年)に 中国を経て、再び日本に帰ってこられ、このときは大阪に住まわれました。この時には、既に主教に聖別されていました。(1966 年、36 歳の時)

※1:【1858 年(安政 5)、井伊直弼が尊攘派に対しておこなった弾圧事件】
※2:【1861年から1865年にかけて起こった米国の内戦。
       1863年、北軍のアブラハム・リンカーンが 奴隷解放宣言】


で、その後どうなりました
 1869 年(明治 2 年)に大阪に居を構えた後、大阪を中心に伝道活動を行い、1873 年(明治 6 年)にキリスト教禁令が解けた後、東京に移住しました。
 明治7年(1874 年)に、東京築地の外国人居留地に英語と聖書を教える「立教学校」を開講しました。開講当初の生徒数は 5 名と言われています。これが現在の立教大学(立教学院)の発祥の地であり、現在は記念碑が建てられてます。(聖路加国際病院の敷地内)
 
 ウイリアムズ主教の伝道活動も挙げたら切りがありませんので、この程度にしておきますが、既に「聖公会とはその(1)」で述べましたように、ウィリアムズ主教渡来 28 年後の 1887 年(明治 20 年)日本聖公会が生まれました。


ウィリアムズ主教概略年譜
● 1827 年 7 月 18 日
  米国バージニア州リッチモンドで誕生、幼少時に父を失い、母に育てられる。

  学費を稼ぐために 16 歳から 21 歳まで町の雑貨屋で働く。

● 1856 年 6 月
  バージニア聖公会神学校卒業後、中国派遣宣教師に任命され上海上陸。
  中国伝道のため、一日9時間の中国語特訓を受け約一年半後にマスター
● 1859 年 6 月上旬(安政 6 年)
  日本伝道を命じられ、長崎に上陸。
  長崎での定宿は「崇福寺」の小さな庵と言われている。
● 1863(文久 3 )
  横浜クライスト・チャーチ = 山手聖公会を建立
   (日本最初のプロテスタント教会と言われている)
● 1866 年
  一旦米国に帰国後、中国及び日本伝道主教に聖別
● 1869 年(明治 2 年)
   中国を経て、大阪に在住(中国武昌と大阪を開拓)
● 1873 年(明治 6 年) 
  キリスト教禁令が解けた後、東京に移住
  品川・駿河台・神田・湯島・浅草に伝道場を開設
● 1874 年 2 月(明治 7 年)
  東京築地の外国人居留地に英語と聖書を教える「立教学校」開講
  1883 年(明治16年)立教大学校と改称。
● 1895年
  京都に移り関西地方の伝道に取り組む。
● 1899 年
  主教職を辞任し隠退し、なおも伝道活動を行う。
● 1908 年 4 月 30 日
   健康を害することが多くなり、ひそかに横浜出帆の「サイベリア号」で帰国。
  日本永住覚悟でいたが、老齢のため周囲の重荷になることを避けたと言われている。
● 1910 年 12 月 2 日
  生誕地である郷里のリッチモンドでその生涯を終えた、享年 81 歳。
  ウイリアムズ主教を慕う日本人が「道を伝えて、己を伝えず」と日本語で記した墓標建立。



ウィリアムズ主教の日常生活
 ウイリアムズ主教は本文冒頭の概要でも述べましたが、これ以外にも多くの教会の設立に関わっています、例えば東京築地の聖三一大会堂、京都の聖ヨハネ教会はほとんど司教個人の献金で設立されたと言われています。

 で、当時のアメリカ聖公会主教の月々の俸給は 400 円(現在に換算すると約 150 万円)だったそうですが、生活費には、そのうち 15 円(現在に換算すると約 6 万円)を当てていただけと言われています。
 こうして蓄えたお金を教会施設の建設 ※3 あるいは困窮者の救済に当てていました。従って、ウイリアムズ主教は、粗衣(年中黒ラシャの僧衣をまとっていたと言われています。)粗食に甘んじ、清廉質素な生活を行っていました。
※3:【勿論、主教の献金だけでは不足でしたので、米国聖公会から多くのお金が送られています。】

 次のお話しは 千葉復活教会 のページで紹介されていますが、主教の暮らしぶり、慕われぶりがよく分かる感動するお話しですので引用させていただきます。← 現在下記のページは削除されています。
千葉復活教会さん、\(^_^=^_^)/ ヨロシク♪

 「初代大阪教区主教は就任式で、ウリアムス主教から譲られたその傷んだ主教服に手を触れたとき、ただ涙した」

 次のお話しは 岸和田復活教会立教創立者ウィリアムズの手紙を読む に掲載されている文書の一部です。
岸和田復活教会さん、\(^_^=^_^)/ ヨロシク♪

 「立教のチャペルの横にたたずむ白い髭の老人。着古し色あせて羊羹色になった服のポケットに金平糖を忍ばせ、出会った子供らにふるまうのを楽しみにしている。この老人の名はチャニング・ムーア・ウィリアムズ。立教の創立者であり、また日本聖公会の初代主教でもある。」

 このお話しは当教会でも、まだ堅信式が終わっていない信徒のお子さんが、聖餐式の時に司祭から金平糖をいただくことがあるので、ひょっとしたら、ことの始まりはここにあるのかなと思ったりします。← 余談

 また、  「たしかに彼は、己がどのような人物であったか知られることを嫌い、自分が書いた日誌などの書類は帰米するときに燃やしてしまった。自分の名前が出ることを恐れ、一切の公職につかず、晩年には日記や手紙の類も多くは焼却しています。」

と言うことですので、「道を伝えて、己を伝えず」 にその精神が込められていますね。

今は削除されていますが、名取多嘉雄さんの 「宣教師の都市と地方における伝道の展開」 によると、墓碑銘に次のように書かれているそうです。
「・・・嗚呼我ガ老監督ウイリアムス 美哉  日本在住五十年 道ヲ伝ヘテ己ヲ伝ヘズ・・・」


上記の資料は、ここにありました。(2015年4月18日追記)
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