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日本聖公会管区事務所だより |
2004年4月30日 第185号 速報版 |
第55(定期)総会を前にして |
管区事務所総主事 司祭 ローレンス 三鍋 裕 |
高校受験のときでした。志望校の教員に入試に際しての注意点を聞きました。「ウチの問題では英語は長文解読、国語は漢字の問題が必ず出る。たとえば数字を二つ含む熟語。『一石二鳥』とか『四捨五入』とか…。思いつくのを挙げてごらん。」というから、「一刻千金」といえば受験生らしいのに「一攫千金」と答え、ふざけたことに「三三九度」と加えたから、当然のごとく入試は不合格でした。でも面白い問題でした。二つの反対の意味を表す文字を含む熟語なんて問題もあります。「一進一退」、「一長一短」。数字でなければ「烏合離散」、「勧善懲悪」と書くと合格でしょうか。反対の意味かどうか判断が微妙なのは「自由平等」。自由に競争すれば格差が生じて平等が危うくなるし、平等に重点を置くと競争がなくなり生産性が落ちるのだそうです。 それにしても学説はともかくとして、自由・平等を相反する二つの語ではなく、「自由平等」の一語で状況を表せる素晴らしい社会は望めないものでしょうか。 ある会議で「平安進歩」という用語は曖昧すぎて、何を意味するのかわからないとの指摘がありました。便利な言葉ではあります。信徒総会の議題は、1)決算の承認、2)予算案の承認、3)その他平安進歩に関すること、と列記すれば体裁は整います。「平安進歩」の中身はスリッパを何足買うかとか、ペンキは何色にするかとかが多いのですが、「ウチの牧師をもう少し働かせること」なんて話題は進歩を求めているにしろ、臍を曲げられて平安が乱れるかもしれません。平安のあるところには進歩がなく、進歩のあるところには平安がないといわれるそうです。平安だけを求めれば「馴れ合い現象」の危険が出ますし、進歩を求めれば色々な意見が出て「ギクシャク現象」の危険が出ます。なるほど「平安進歩」は曖昧な言葉かもしれません。でも、捨てきれない魅力のある言葉ではありませんか。 先日、平和に関する勉強会に出席したら、「正義と平和」が同じように話題になっていました。何が正義かは人それぞれ違いますから、時として正義と正義がぶつかって争いが起き、傷つけ合うことも起こる。反対に自分たちだけの平和に満足していると正義が見落とされる、特に弱い立場にある人々の正義が無視されるとの指摘でした。「平安進歩」と同じようです。「正義と平和」、美しい言葉ですが、どちらかだけに満足してしまうことは許されないのが悩みの種のようです。残念ながら正義も平和も、どちらの欠片(カケラ)すら見当たらないという状況だって多くあることを忘れはいたしませんが。 私自身は管区事務所に来て2年、正義と平和で四苦八苦しています。もともと「正義」にも「平和」にもご縁が薄かったのでしょう。しかし真剣に聞けば聞くほど預言者的に語られる正義の大切を学ばされました。同時に弁も達者ではなく活動にも参加しにくいけれど、教会の祈りを通して世界の平和を求めておられるsilent majorityと呼んでよい人々のことも考え続けました。教会にとって「正義と平和」が相反するものであってよいのでしょうか。教会こそが大いに欲張って正義をも平和をも一緒に求め続け、「正義平和」を一体のものとして確立させたいのです。正義を求めるときに平和をも求めたい、平和を求めるとき正義をも求めたい。 どなたにとっても難しい問題でしょう。失礼を承知で申し上げれば、多くの方は私と五十歩百歩かもしれません。正義と平和を結びつけるのは、お互いへの「思いやり」しかないのではないでしょうか。どうしてもほかの言葉が思い浮かびません。だれも取り残されることなく、皆が一緒に進むためには、時として一歩後退二歩前進が余儀なくされるかもしれません。「正義と平和」が別なものになるのではなく、思いやりに結ばれて進んで欲しいと願うのです。それにしても毎日毎日戦闘のニュースばかりで疲れます。教会の中だけにとどまらず、世界の「平安進歩」を求める総会、日本聖公会でありたいものですね。 |