page1
page2 | page3 | page4 | page5 | page6 | page7 |
|
小山祈りの家にて
管区事務所総主事 司祭 ローレンス 三鍋 裕
先日、小山祈りの家(旧小山修道院・栃木県)の司祭館落成式と、大久保直彦主教さまの逝去20周年記念礼拝が行われました。旧小山修道院は思い出の深い場所、大久保主教さまもお世話になったお方なので出席させていただきました。「管区事務所だより」に個人的なことなぞ書くな、とのお叱りも受けていますがお許しください。
高校時代から、私はよく修道院に遊びに行きました。薪割りも仕込まれたし、五右衛門風呂の沸かし方も入り方も学んだ。神父さんに頭を刈ってもらったこともある。敬愛していた原谷神父の急逝には驚いたし、埋葬は悲しかった。生まれて初めて人間の死を実感した。いろいろな思い出があります。多くの人にとっても同じでありましょうが、私も小山の神父さんたちとのふれあいを通して育てられました。
ある人は祈りの生活に触れ、新しい力を与えられて自分の務めに戻ったことだろうし、ある人は修道者の道を示され、ある人には他の道で仕えることを示されたに違いない。
修道院も人間と同じく、与えられた務めを果たし終えたら静かに消え去るものだとは承知しているが、やはり小山修道院が閉鎖されて無人のままになったのには寂しさを感じていました。今般、「小山祈りの家」として新しい働きを与えられたことは本当にうれしいことです。訪れる人々が何日かを静かな祈りの中に過ごし、新しい力を与えられる場となることでしょう。
大切に用いたいものです。良いところです。肩の力を抜けば変わらない神様のみ手の中に生かされている平安を改めて感じさせられるはずです。同時に思うことは、私たちは何時も小山にいるわけにはいきませんから、日々の生活の中で一瞬一瞬の祈りを大切にしたいということです。台所の祈りだったか、お勝手の祈りだったか(勝手な祈りではありません、自由な祈りではありますが)そういう祈りの本がありましたね。ちょっと手を休めて神様を思う一瞬を大切にしたいと思うのです。忙しい管区事務所でも昼の祈りだけは職員が一緒に守ります。短いけれども、忙しいからこそ大切で楽しいなときなのです。
20周年記念ですから大久保主教さまの思い出話も披露されました。「自分は今日ユダのようにキリストを裏切らなかっただろうか」と自省を繰り返しておられたとのこと。私自身も学生の時のキャンプでうかがいました。「キリストの価値基準にしたがって生きたいとは思っている。同時にキリストの価値基準から離れてしまおうかと思う時もある」。「主教さまでもそんなことを思われるのだと聞いて、何か安心しました」と申し上げたら笑っておられました。
たまには小山を訪ねたい、同時にそれぞれの場での自省と祈りを大切にしたい。「私はキリストを裏切ってはいないだろうか、キリストの価値基準から離れてはいないだろうか」と。キリストの道を慕い求めましょう。キリストの正しさを追い求めましょう。でも気をつけましょうね。多くの人はそれぞれに正しいのです。時として、正しさと正しさが衝突し、お互いを傷つけます。キリストの優しさをも求めましょうね。正しさは優しさによって本当の輝きを与えられるということを忘れることがありませんように。「キリストの平和が、わたしたちの心に」と歌いましょう。
page2 | page3 | page4 | page5 | page6 | page7 |