カテゴリー別アーカイブ: コラム

これからの働きが問われている

東日本大震災から5年余が経過しました。これまで、さまざまな形で共に歩んできた方々が、これまでを振り返り、また今想う事をリレー形式で掲載しています。
13人目は、愛知聖ルカ教会の日野忠市さんです。
日野忠市さんは、東京教区の小川昌之さんによる『福島を忘れない車の旅』に参加し、頻繁に被災地を訪れてきました。
震災以降、福島の人の心に寄り添い、原発事故が及ぼす影響を見続けてきた日野さん。5年という月日が流れても、変わらず共に歩み続けて下さるその想いに、今も福島で暮らす私たちは励まされています。


『これからの働きが問われている』

愛知聖ルカ教会 日野忠市

東京教区の小川さんの車に乗せてもらう東京―福島往復一泊二日800kmの旅に、中部教区の方々と13回参加させてもらってきました。
管区の「原発と放射能問題プロジェクト本部」がある郡山事務所、松本普さんが常駐しいる雁小屋仮設住宅の方々との交流、飼育を禁止されている300頭以上の牛の命を守り続けておられる吉澤正巳代表の「希望の牧場」、磯山聖ヨハネ教会の跡地、尊い命が津波で失なわれた「ふじ幼稚園」、原発10km圏内での放射線量測定などを組み入れた旅に連れて行ってもらい、現地の状況を少しは知ることができるようになりました。
事故以来5年半を経た今も、人々がさらに過酷な状況に曝されいるのだということも理解できました。
原発問題はもう落ち着いてきているという印象を与えようとする諸策が進められ、人々が根負けするのを待っているのではないかと思いました。
雁小屋仮設にお住まいの方々が、帰り際に「忘れないでね」「また来てね」と言って下さる言葉に励まされ、あまり役に立っていないな、という無力感を救ってもらって来ました。
これからの働きをどう続けてゆくのか、私自身が問われているのだと思っています。

子ども達の笑顔と共に

東日本大震災から5年余が経過しました。これまで、さまざまな形で共に歩んできた方々が、これまでを振り返り、また今想う事をリレー形式で掲載しています。
12人目は、沖縄教区の座安ゆかりさんです。
座安ゆかりさんは、沖縄県豊見城市の聖マタイ幼稚園で先生をされており、2014年10月には『One Family~つながる心 福島支援プログラム~』で、郡山セントポール幼稚園に保育補助に来られています。
子どもがとても好きな座安さんは、郡山セントポール幼稚園でも園児たちへ深い愛情を注いで下さいました。実際に福島を訪れ、保育の現場に関わる事で、報道では見えない原発事故による被害の実態を学ばれています。


『子ども達の笑顔と共に』

聖マタイ幼稚園 座安ゆかり

私が郡山セントポール幼稚園に行かせていただいたのは、2014年のことになります。あの東日本大震災、福島の原発事故からは3年が過ぎていました。何かお手伝い出来ることはないかと、いつも思っていましたので、とても有難い気持ちでこのプロジェクトに参加させていただきました。

実際に福島に行かせて頂いた時、まず初めに感じたのは沖縄とは全く違う町並みの美しさです。もう夕暮れという時間帯でしたが、行きかう人たちの表情も柔らかく穏やかな、何か懐かしいような気持ちになりました。地震による建物の被害はある程度復旧されていて、少しずつ生活も安定してきた時期、そして、そこで生活している方々は頑張らなくてはと必死に過ごされていたのだと思います。それを知っているはずなのに自分の勝手な思い込みで見ていたことを申し訳なく思います。

その翌日から幼稚園でのお手伝いが始まりました。園内の掃除は当たり前のことなのですが、ここでは徹底的にしっかりと、順番も決まっていて時間をかけて行います。単純作業、肉体労働で、これくらいのお手伝いなら私にも出来ると喜んでさせて頂きました。そして子ども達と関わり聖歌を歌ってお祈りをし、美味しいお弁当を頂いて、子どもたちの笑顔に癒されとても楽しい時間を過ごさせて頂きました。

園の行事に沿って遠足に参加したり、充実した設備のある2階のホールで遊んだりと、短い時間ではありましたが、少しはお役にたてたのではないかなと思いました。そんな楽しい時間を過ごしていると、沖縄も福島も同じだと感じました。セントポール幼稚園の園長先生や先生たちみなさんとても素敵な方々で、子ども達も可愛いと、ここで生活してみたいと思ったほどです。

でも同時に福島の現状も学ばせて頂き、愕然としました。今でも仮設住宅で暮らしている方々の事、汚染された行く当てのない廃棄物、公園に設置された放射線測定器、虫を触れない子ども達。不安と怒りが込み上げてきました。そして、やはり何も出来ない自分にやりきれない気持ちになりました。そんな不安定な気持ちの私にも、子ども達は笑顔で甘えてきてくれました。この子ども達を守りたいと思いました。

沖縄に戻り、ここでの生活に戻り、その気持ちはさらに強くなりました。でもやはり、何も出来ずに過ごしています。あの時、幼稚園に通っていた子ども達は小学生になり、また新しい子ども達の元気な声が幼稚園に響いているのでしょう。私がお邪魔した時、歓迎会を開いて下さった職員の皆様、その時に感じた、ここで頑張るという保育に対する切実な気持ちを思い出しました。そしてその帰りに「金曜日の夜に、この街にこんな賑わいが戻ってきて嬉しい」と話してくださった幼稚園の理事長先生の御言葉も思い出しました。

福島で過ごさせて頂いた日々を思いながら、お祈りしたいと思います。初めての時に感じたあの町並みは、人々が守りたいと願って復旧させたもの、そして未来に繋げていくべきものだと思います。子ども達の笑顔と共に守っていけますように、心からお祈りします。そしてまたいつかそちらにお伺いできればと思っています。

One family ~つながるこころ 福島プロジェクト~に参加して

東日本大震災から5年余が経過しました。これまで、さまざまな形で共に歩んできた方々が、これまでを振り返り、また今想う事をリレー形式で掲載しています。
11人目は、沖縄教区の仲田菜な子さんです。
仲田菜な子さんは、沖縄県沖縄市の諸聖徒保育園で先生をされています。2014年10月には『One Family~つながる心 福島支援プログラム~』で、郡山セントポール幼稚園に保育補助に来て下さいました。
その際、富岡町やがん小屋仮設住宅も訪れており、震災と原発事故がもたらした被害の深刻さを、体験を通して学ばれています。


『One Family ~つながるこころ 福島プロジェクト~に参加して』

諸聖徒保育園 仲田 菜な子

2014年10月23日から11月1日の10日間、園長先生をはじめ保育園の職員、両親の理解と協力があり「One Family~つながるこころ福島プロジェクト~」に参加させて頂くことができました。

1年半前は、私に何ができるのか、何をしたらいいのかと、肩に力が入るほどの気合と不安がありました。実際に現地へ到着した時は、セントポール幼稚園の園長先生、職員の方に温かく迎えていただき、行く時までの不安が和らいだのを今でも覚えています。

セントポール幼稚園の先生方は、子ども達を放射能汚染から守る努力を毎日しており、私が参加した10日間の中で2回ほど(週1回)、線量の低い所へ遠足へ行きました。体を思いきり動かして遊ぶ姿を見ると、その想いに応えるかのように子ども達は楽しく過ごしていました。

又、保護者の方々と関わる機会があり、会話の中で「私達と共に歩いてくれる事が嬉しい。忘れられていない。同じ目線でいる事が嬉しい」とおしゃっていました。

仮設住宅にいる方達とも交流する機会があり、皆さん終始笑顔で話をしている姿を見ると、原発の事を忘れておられるように思われるほど明るくて、前を向いて1歩1歩進んでいこうとする姿に私が励まされました。しかし、その反面「早く地元に帰りたい」と本音を打ち明けてくれる方もありました。この気持ちは、経験した方にしか分からないなと私は思い、上手く声をかけることができませんでした。別れ際に、「来てくれてありがとう」と言われ、幼稚園の保護者との関わりの中でも思いましたが、実際に足を運んで話しをしたり、触れ合いを持つ事で何か“支え”になることが出来たのかなと思いました。

最終日には線量が高い富岡町の方に行きました。線量が高いと聞いてはいましたが、体では感じる事が出来ません。目に見える壊れた建物を作り直し、地元に帰ってこられる状況を作ってほしい、という思いがありました。しかし、線量が高い所で人は住めないのが事実なので、もどかしい気持ちになりました。

それから1年後、私と同じ保育園から1人、職員が富岡町に行った時の状況を聞くと、私が行った時と何ら変わりなく、ショックな気持ちでいっぱいでした。その中で、もうひとつ変わらないことは、このプロジェクトを通しての”人と人との繋がり”が、途切れることなく続いているのは、互いにとって、とても良い”支え”になっていると私は思いました。

1年半前は放射線の体への影響に対する理解が少なく、私の事よりも今、目の前で一生懸命に歩んでいこうとしている人と共に歩んでいきたい、という気持ちの方が強くありました。現在も、その気持ちは変わることはありません。

でもいまは、体への影響を考え将来の事を思うと、この気持ちだけで行って良いのだろうか・・・という不安な気持ちがあります。

体調面に関しては、私の不安な気持ちよりも、福島に住んでいる方達の方が不安は大きいと思います。それでも前を向いて歩んで行こうとしている思いや姿に、これからも1日でも早い復興ができるよう祈ることを続けていきたいと思います。

このプロジェクトを通して、沖縄を思うように福島に関するニュースや天気予報が放送されていると、自然にテレビへ目を向けている私がいて、今では福島が身近な存在になっています。この記事で伝えきれない、言葉には出来ない感情と感動がこのプロジェクトにはあります。この思いを沢山の人と分かち合いながら共に歩んでいきたいです。離れていても神様と同じように私達は繋がっていると思います。このような機会を与えて頂いた神様に感謝します。

one familyに参加して・・・

東日本大震災から5年が経過しました。節目である年を迎えるに当たり、共に歩んできた方々がこれまでを振り返り今想う事を、リレー形式で掲載します。
10人目は、沖縄教区の知名尚恵さんです。
知名尚恵さんは、沖縄県沖縄市の諸聖徒保育園で先生をされており、2015年10月に『One Family~つながる心 福島支援プログラム~』で、郡山セントポール幼稚園へ保育補助に来て下さいました。その際、帰還困難区域と居住制限区域が混在している富岡町や、福島第一原発付近を訪問し、福島の現状と原発の問題への理解を深めています。


『One Family に参加して・・・』

諸聖徒保育園  知名尚恵

One Family の企画の一つである、福島県郡山市にあるセントポール幼稚園での保育補助の機会を与えて頂いてから、あっという間に半年以上が過ぎました。2015年の10月19日から24日までの6日間、緊張と戸惑いの中での始まりは、いつの間にか「もう帰らないといけないのか・・・」という思いに変わっていました。それ程にも郡山で出会った人々は温かく優しい方ばかりでした。

2015年、私は郡山に行くことが決まった時、正直なところ放射線の体への影響はどうなのか不安に思うところもありました。見えない物への恐怖と、その物からどう身を守ればいいのか・・・きっと今でも私以上にその恐怖は変わることなく続いているのではないでしょうか。しかし、それを一瞬でも忘れさせてくれたのは、人と人との繋がりでした。そして何より子ども達の存在でした。セントポール幼稚園の子ども達も、沖縄の子ども達も、変わらない無邪気な笑顔でいきいきとしていました。「先生」と呼ぶ沖縄のイントネーションの違いに、なぜか心地よさを感じたことを覚えています。幼稚園の先生方も、いつも笑顔で明るくて、そういう中に居ると、いつもと変わりなく自然に振る舞うことができる様になっていました。しかし、時々見られる現実がありました。子どもたちが持っている線量計。園庭の砂や人工芝生。そして、時々出かける園外保育では、触れてもいい物といけない物の制限があり、直面する現実は大きいものでした。震災から5年。私が郡山に行ってから半年以上経った今、大きな変化(目に見えて変わったこと)は、どんな環境の中でも子どもたちは育っている、心も体も成長しているということです。私は郡山に行く際に自分には何ができるのか、何かやらなくては・・・と、答えを出せないまま焦りを感じていました。一日一日と過ごす中、そしてその日を振り返ることで形や目に見えることでの支えではなく、『心に寄り添う』ということを学びました。答えの出ない中を、子どもたちは毎日少しずつ確実に成長し、その成長と笑顔を守る為に必死にがんばっている家族や先生方の為に私ができることは、辛いと思った時に弱音を吐いたり、少しでも心を休める場所を作ること。その思いを受止められる程、まだまだ大きい器ではないかも知れませんが、少しでも長く子ども達と家族、先生方のことを忘れることはなく思っていること。いつも繋がっているんだということを伝えていきたいと思います。

郡山で過ごした日から半年が過ぎ、沖縄での生活を過ごす中、テレビから「福島」や「郡山」という言葉が聞こえてくると反応している自分がいます。しかしその内容は、原発問題であったり、震災後の様子を伝える内容であったりと、決して明るいものではないことに、心が痛みます。復興が進み、安心して暮らせる環境が整ったことを知らせるニュースが届く日を、多くの人が待っていることでしょう。

たくさんの人を助ける力は私にはありません。ですが、出会えた人達のことを大事に思い祈ることはできます。そのことを通して、少しでも心の支えになれればといつも願っています。

子ども達とその家族、そしてそれを支える先生方が、一日も早く心からの笑顔で過ごせる日が来ます様に・・・お祈りしています。

 

One Family ~つながる心 福島支援プログラム~に携わって

東日本大震災から5年が経過しました。節目である年を迎えるに当たり、共に歩んできた方々がこれまでを振り返り今想う事を、リレー形式で掲載します。
9人目は、沖縄教区の崎原美奈子さんです。
崎原美奈子さんは、沖縄県沖縄市の諸聖徒保育園で先生をされています。『One Family~つながる心 福島支援プログラム~』では郡山セントポール幼稚園へ保育補助にも度々来て頂いており、絆を深めています。また、夏のプログラム『沖縄でホームステイ』では、参加者をご家族の皆さんであたたかく受け入れて下さいました。
沖縄と福島で距離は遠く離れていても、絶えず関心を向けて寄り添って下さるその姿勢に、福島で暮らす私たちは明日へと向かう勇気を貰っています。


 

『One Family ~つながる心 福島支援プログラム~に携わって』

 諸聖徒保育園 崎原美奈子

1.はじめに

2011年に起こった東日本大震災の時のことを今でも鮮明に覚えている。「東北が地震で大変なことになっている!」との大きな声が保育中の園内に響き、急いでテレビを付けた。巨大地震に伴い大きな津波が発生し濁流となって、いろいろなものをあっという間にのみこんでいく映像に愕然とした。こんなことが、同じ日本で今起きているのかと信じられず、神さま!止めて下さい!と祈る事しかできなかった。震災のニュースを聞くたびに、被災された人たちのために私にできることは何だろう…と心が揺さぶられた。そんな中、原発問題プロジェクトの池住圭さんとの出会いがあった。

 

2.プロジェクト立ち上げ

池住圭さんより、福島には目に見えない放射線を心配しながら、幼稚園で子どもたちのために懸命に働く先生方がいること、その先生方の心と体のリフレッシュを沖縄の地でできないか、その間、沖縄から職員を派遣することは可能か、などの話があった。ちょうど同じ場に上原主教や岩佐司祭、園の保育士も数名いて、できることをすぐに始めようとの事でプロジェクトを発足。福島の人たちに寄り添っていきたいという思いを込め「One Family」という名前を付けた。

 

3.One Familyプログラム

・セントポール幼稚園での保育支援(2015.10.27~10.30)

どのクラスに入っても、子ども達や先生方が快く受け入れてくれることに感謝し、ゆったり楽しく過ごせた日々。天気のいい日の園庭は、元気に遊び駆けまわる子どもたちの笑顔でいっぱいだった。子ども達の表情を見ている先生も笑顔で嬉しそうだった。そんな当たり前の、ほのぼのとした光景の裏には、子ども達の安全を守るために、常に放射能線量の事を考え、風向きや風の強さを見ながら、外遊びの制限時間を設け対応していく先生方の苦労がある。また、園児が登園する前に、園舎内外の水拭きをしたりと、震災から5年経った今でも張り詰めた気持ちのまま保育をしている。先生方の心と体は大丈夫なのだろうか?いつになったら本当の意味で復興されるのだろう…と複雑な心境になった。聖公会の保育施設で働く福島の先生だけが背負わされている現実を、もっとみんなで担うことができたら、いや担わなければならないと強く思った。セントポール幼稚園がいつでも笑いの絶えない、子どもたちにとってホッとする場所であってほしい。

 

・ホームステイの受け入れを通して

昨年の夏休み、我が家に福島からステキな女性がホームステイに来てくれた。家族のようにリビングで一緒にテレビを観たり、小学生の娘たちのラジオ体操に付いて行ってもらったり、食事を共にしながらおしゃべりを楽しんだりと過ごした。又、地域の行事へも参加し、沖縄の盆踊りを踊ったり、エイサーを見たりと沖縄の文化にも触れる機会があり、楽しい時間となった。彼女との出会いがきっかけとなり、家族で福島の事をよく話すようになった。原発の関連ニュースが流れると「○○さん、大丈夫かな」と心配する子ども達。「お母さん、学校で福島の話を聞いたよ!」「原発は悪いことなのに鹿児島はどうして再稼働するの?」など原発の問題にも関心を持っているようだ。私たち大人は、原発が許されない理由を子どもたちにしっかりと伝え、福島の問題を風化させないようにする責任があると強く思った。

 

4.おわりに

初めて福島に行った時、汚染土が黒いシートに入れられ、住宅の庭に置かれている光景に驚いた。除染が進んでも汚染土を保管する施設が足りないらしい。あまりにも進まない復興に、福島で生活する人たちの心が折れてしまわないか心配である。私にできることは、これからも福島の現状に思いを寄せ、周りの人へ伝えていく、できる限りの支援を続けていくことだと思う。ゆっくりとした小さな歩みかもしれないが、この取り組みを長く続けていきたい。

One family~つながる心~

東日本大震災から5年が経過しました。節目である年を迎えるに当たり、共に歩んできた方々がこれまでを振り返り今想う事を、リレー形式で掲載します。
8人目は、沖縄教区の真栄城美子さんです。
真栄城美子さんは、沖縄の聖マタイ幼稚園で園長先生をされています。『One Family~つながる心 福島支援プログラム~』で、郡山セントポール幼稚園へ保育補助にも度々来て頂いています。また、夏のプログラム『沖縄でホームステイ』では、参加した福島のご家族をあたたかく受け入れて下さいました。
福島への理解を深め、寄り添い、いつもあたたかく見守ってくれています。


『One family~つながる心~』

沖縄教区  真栄城美子

東日本大震災は地震・津波さらに福島第一原発の事故という言葉で表現できない災害となってしまいました。被災地のこと、被災者のことを思うと祈ることしか出来ませんでした。特に幼稚園関係の被災については自分だったら?自園だったら?と問うことだけしかできませんでした。

自然災害の恐ろしさは言うまでもありませんが、原発事故による放射性物質の拡散という大きな事態が起き、生命に関わる大きな問題が発生しています。被災地を訪問した司祭様や関係者の方から報告を受け、福島の子ども達の遊びがかなり制限されている事を知りました。大きく保育環境が変わった様子は私立幼稚園連合会のニュースでも取り上げられ、先生方のご苦労を知り胸が詰まる思いでした。沖縄教区では2014年7月に聖公会保育連盟の加盟園に対し、福島支援プログラムに教師派遣の要請がでました。私は3回に亘り、郡山市セントポール幼稚園に教師サポートとして訪問しました。

第一回訪問(2014年10月)
先発のなな子先生と共にお手伝いしました。緊張して幼稚園に向かいましたが、子ども達や先生方に暖かく迎えてもらい、直ぐに打ち解ける事ができ毎日有意義でした。出勤後直ぐに除染の為の床拭きです。毎朝2階ホールまで、なな子先生と頑張りました。保育園の床拭きは当然だが目的が違う。ガラス越しにでも入ってくる放射性物質の除去である。保育をしながら毎朝この労働は大変だろうと思いました。

先生方のきびきびとした行動は好感が持てます。連絡が密に行われる姿勢は子ども達の行動にも反映しているようです。子ども達は素直で園庭に外に出る許可がでると歓声を上げます。何処にでもいる子供の姿です。もう慣れたのか室内での遊びも沢山知っていて、工夫して過ごしています。

初日、セントポール幼稚園へは駅からタクシーに乗りました。沖縄では見られない見事な木々の公園前を通り、綺麗な街並みに見とれていました。後で聞いた内容は線量計を持参し数値を確認しないと散歩もできないという事です。確かに住宅の前に汚染土の入った黒い袋が並んでいる状態を見ると、綺麗な空気の中に住んでいる訳ではということになります。「なぜ?」と虚しさを覚えました。

お母さん方のお喋りの会にも参加しましたが、不安を抱えながら郡山に住む事を決めた方が殆どのようです。皆さんの明るさと芯の強さに逆に勇気を貰いました。

第二回訪問(2015年6月)
年度が変わり、進級した子ども達が迎えてくれました。覚えてくれている子も居て直ぐに仲良くなりました。主に2歳児クラスのお手伝いをさせて貰いました。セントポール幼稚園の子ども達は明るくて元気いっぱい。そして「ありがとう」が直ぐに言える、とても気持ちのいい幼稚園です。今回は園庭にプールが設置されており、線量の低い日は水遊びをしたようです。存分に水遊びができる日が、毎日であったらいいのにと願わずにはいられませんでした。

ボランティア訪問と同時に、先生方や保護者に「沖縄へリフレッシュに来ませんか?」の呼びかけもしていました。終了後に亀井さんファミリーが希望していますと連絡が入りました。8月に入り、ご一家と聖マタイ幼稚園で再会しました。ずっと一緒に行動出来た訳ではありませんが、元気に楽しく過ごされたようです。やっと誘致ができたと嬉しく思いました。今でも時々メールを頂いております。

第三回訪問(2015年10月)
みな子先生と参加しました。外での活動は思いっきりできないものの、先生方の保育への取り組みは一人一人を大事にしながら要所要所に於いてはしっかりと指導し、園全体が一つになって取り組んでいる姿勢が見えます。他園に応援に入るという目的を私自身しっかりもっていたのかなと確認しながら今回参加しました。当初は迷惑を掛けない様にという意識がとても強かったのですが、先生方の家族的な雰囲気の中にも節度ある言動、行動は大変参考になり、自分自身の行動にも繋がったのではと感じています。最終日は亀ヶ城公園へ遠足でした。出発前、温子園長はお祈りの前に子ども達に次のように話されました。「沢山の方のお陰で遠足に行けます。感謝を忘れないようにね。私たちは一人ではないのですよ。公園でも楽しく遊んで強い体を作って、人を助ける事が出来るようになりましょう」と。

この5年余、沢山のボランティアが来てくださり除染作業、お楽しみ会等子ども達へはもちろん先生方への応援を沢山受けられたようです。その感謝の言葉が園長先生の出発前の言葉になったのだと思いました。震災後、保育を再開するにあたり、大変なご苦労があったセントポール幼稚園、先生方、子ども達がいつまでも変わりなくこの元気を保って欲しいと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

つなげてもらって

東日本大震災から5年が経過しました。節目である年を迎えるに当たり、共に歩んできた方々がこれまでを振り返り今想う事を、リレー形式で掲載します。
7人目は、沖縄教区の岩佐直人司祭です。
沖縄教区にはこれまで、保育補助の支援である『One Family~つながる心 福島支援プログラム~』や、夏のリフレッシュプログラム支援などを通して、大きな励ましを頂いてきました。岩佐司祭には、郡山セントポール幼稚園へ保育補助にも度々来て頂いており、園児や先生方にとって心の拠り所となっています。
福島で暮らす私たちは、沖縄の大らかなあたたかさに癒され、厳しい現実と向き合う勇気と元気を貰っています。


『つなげてもらって』

沖縄教区 災害支援室
室長 司祭  岩佐直人

 2011年に沖縄教区の東日本大震災支援室、後の災害支援室の担当に任命されてから、被災された方々のために何かをやりたい・やらなければならないという思いが強くあった。しかし遠く南に離れた沖縄からは人も物も送ることが難しく、何もできない・何をやったらいいのか分からない時がずっと続き、正直に言うと困っていた。何もできていないが、決してこのままで良い訳が無い。やりたい気持ちはあるのに何をやったら良いのか分からない。一人で悩み、一人で焦っているような状況だった。

2014年、沖縄教区の「慰霊の日」礼拝(6月23日・慰霊の日に一番近い主日)の講師に管区原発問題プロジェクトの池住 圭さんが来て下さった。沖縄戦で犠牲となられた国内外すべての方を覚えて祈り、また平和をテーマに講師からお話を聞くことを沖縄教区では毎年行っている。

講師として来て下さった池住さんは、私の派遣されている教会の主日礼拝に参加して下さった。そして礼拝後、池住さんとゆっくり話をする時間が与えられた。今、福島で求められているもの、沖縄教区は何をやったらいいのかを聞くことができた。池住さんは「幼稚園職員の負担軽減、リフレッシュ」を提案して下さり、職員交換などの可能性を話した。

その主日の礼拝には併設保育園の職員がたくさん来てくれていて、池住さんの話を聞いた私は、その場にいた職員を交えて福島との職員交換などの話をした。すると職員たちは「私たちが行きます」と言ってくれた。

その場には教区主教もいらした。話の流れを説明させてもらうとすぐに「進めてもよい」との言葉を頂いた。

一人で悩み、焦っていたのが何だったのかと思うほど、数時間のうちにどんどん話が進んでいった。私が聖職への召命を受けたときと全く同じで、もう自分の力ではコントロールできないスピードで話が進んでいく感覚。ああ、これはみ心に適っているのだと感じられ、また多くの人と繋がり、支えられているのだと感じられ、本当に嬉しかった。

その年の夏に事前準備のためにセントポール幼稚園を訪ね、秋に最初の職員派遣をした。残念ながら福島の職員を沖縄でリフレッシュしてもらうことはできなかったが、私たちが保育補助として伺わせてもらった。セントポール幼稚園の先生たちは温かく迎え入れて下さり、子どもたちは笑顔で遊んでくれた。「お姫様抱っこして~」、「肩車して~」、「ダンス教えて~」。子どもたちが列を作って私と遊ぶ順番を待っていてくれる。時折、日頃の身体の怠けを感じさせられることもあったが、次に行く時までに筋トレを増やしておこうと思ったりしながらも本当に楽しく過ごさせてもらった。

私は毎回伺わせてもらっているので子どもたちに名前も覚えてもらい、前に教えたダンスを覚えていてくれたり、別れ際に「また来てね」と寂しそうに言ってくれる子どもたちに「また来るよ。前も約束守ったでしょ」と答え、子どもたちは少し安心した顔をしてくれる。

沖縄は東北からはるかに遠く、移動に時間がかかる。しかし逆に言えば、何があってもすぐには帰れない距離であり、行く前にできる限りの準備はしておくが、行ったあとは協力してくださる沖縄のみなさんにお任せ・お願いするしかない。そこのこともあって、福島を訪れているときは100%の思いをセントポール幼稚園に向けることができる。今、目の前にいるセントポール幼稚園の子どもたちとだけ向き合う。熱中するとも言えるかもしれない。福島は今でも色々な状況があり、考えなければならないこともたくさんある中ではあるが、本当にセントポール幼稚園を訪れることが楽しくて仕方が無い。

原発問題プロジェクトからすばらしい提案をしてもらい、沖縄の職員に考えてもらい、セントポール幼稚園に受け入れてもらい、沖縄教区はこれからも職員派遣プログラム「One Family~つながる心~」を続けていく。それは私たちのことを待っていてくれる人・福島の家族がいるから。私は一人ではなかったし、福島の皆さんも一人ではない。そのことを主はわたしたちに示してくださったのではないかと思う。これからももっと多くの人と繋がることを期待して、主が示された(福島への)道を歩み続けていきたい。

ほっこりカフェのお手伝いをして

東日本大震災から5年が経過しました。節目である年を迎えるに当たり、共に歩んできた方々がこれまでを振り返り今想う事を、リレー形式で掲載します。
6人目は、福島県いわき市にある「冨岡町泉玉露仮設住宅」と、同市渡辺町「昼野仮設住宅」で毎週行われている『ほっこりカフェ』で提供されるお茶菓子をお送り頂いている、奈良キリスト教会の谷利子さんです。


東日本大震災仮設住宅
『ほっこりカフェのお手伝いをして』

奈良基督教会 谷 利子

東日本大震災から5年4カ月余り、もしあの日の出来事が無かったら・・・・。被災された方々にとって、心身共に、私が想像を絶するような不安、困難、絶望、悲しみ、寂しさ、悔しさを乗り越えて来られたのですね。御慰めの言葉も出て来ません。私たちは、このご苦労をどれだけ理解できているのでしょうか。力のなさを感じています。

遠くにいて何をお手伝いしてよいか分からない。体力、年齢のことを考えると、下手にお手伝いして邪魔になるのでは、出かけて行って足手まといになるのでは、との思いがめぐり、「私にできることは、お祈りすることしかない。」こんなことを考えておりました時、主教様方の提案で、いわき市の小名浜に「ほっこりカフェ」が誕生しました。京都、大阪、神戸の教区婦人会が協力し、お手伝いすることになり、今年で、4年目となりました。私が、ほっこりカフェの具体的なお世話をさせて頂いて2年目になります。各教会の婦人会の方々の快いご賛同・協力を頂いて成り立っております。本当に感謝です。特産品、季節の果物、手作りお菓子、そして一筆のお便りなどなどを通して、小名浜の方々とのつながりができています。

私たちの奈良基督教会では、手作りお菓子を作るため、「お手伝をお願いします」と呼びかけると、思いもかけずたくさんの方が集まって下さって、楽しくおしゃべりをしながら、お菓子作りをしています。その中には、皆のお昼を作る人、お茶の準備をして下さる方、このお菓子美味しい、甘みが足りない、塩味が少し入っている方が良いわねとか・・・。少し多めに作って、教会の皆様に買っていただき、送料・材料費をねん出し、たくさんのおつりが出て来たりして、教会に集う全ての人の協力があって、ほっこりカフェにお届けしているといった具合です。

お口に合うかしら? みんな笑顔で楽しいひと時を過ごしていただいているかしら? 語り合うということで、皆様の心が和み、笑顔になれる時があると幸いです。

担当の岸本執事と電話でお話し、「最後の一人に至るまで、お世話させて頂きたい」の言葉、そして、先日6月1~2日に開かれた京都教区婦人会の大会に、ほっこりカフェのお世話をしておられる西原千賀子さんをお招きして、感謝のお言葉を頂き、「私は、最後の最後まで仮設住宅に残ります」とのお話を伺って感動させて頂き、私も寄り添ってお手伝いさせて頂きたいと願っているのは、私一人ではないと思っております。

被災者支援センター しんちの特徴

東日本大震災から5年が経過しました。節目である年を迎えるに当たり、共に歩んできた方々がこれまでを振り返り今想う事を、リレー形式で掲載します。
5人目は、福島県相馬郡新地町の仮設住宅内に拠点を置いている『被災地支援センター しんち・がん小屋』のボランティアスタッフである北川恵以子さんです。北川さんは震災直後より南相馬市へ医療チームの一員として訪れていました。現在は、「被災者支援センターしんち・がん小屋」の水曜喫茶で開催している「ほっとコーナー♡親子タイム」で、精神科と小児科の医師である北川さん(けいこ先生)と小児科医の明城和子さん(かこちゃん先生)が交替で、いろいろなお話をしたり相談にものっています。


『被災者支援センター しんちの特徴』

支援センター・しんち がん小屋ボランティア
北川恵以子

 

私は、東日本大震災が起きた翌月から釜石市へ、その年の8月から福島市へ、精神科医として毎月支援に行ってきました。

キリスト教や仏教等の宗教団体やNPOや地元医療機関を通じて、仮設住宅、地元の学校、保護者の相談会、疎開をしている子どもたちの寮、クリニックなどで、傾聴をしたり、医療的なご相談を受けてきました。

「被災者支援センター しんち(新地ベース) 福島県相馬郡新地町」へは2012年から行き始めました。かつて国道6号線沿いにあり、今はがん小屋仮設住宅にある新地ベースの中で、地元の被災者の方々と交流を持ったり、新地ベースや仮設住宅で開かれるお茶会で傾聴をしたり、仮設住宅を訪ねたり、生徒さんについてのご相談で近くの小学校へ行ったりしました。他のボランティアとして、マッサージやヘアーカットや居宅訪問などをなさる方々ともお会いしました。

今まで色々な支援機関、そこで働くスタッフ、仮設住宅の住人、地域の人々に関わってきましたが、新地ベースには他の組織にはない特徴があります。

まずスタッフである松本普さんは、震災直後から新地町に入って支援をし、新地ベースができてからはまるで地域の住民のように被災者の中にとけ込んで共に生きてこられました。支援者から被支援者への一方的な働きかけや、いつの間にかできてしまう上下関係のようなものは感じられません。昨年松本さんが中越地震のあとに数年間長岡市に住んで支援をされた(旧)山古志村に連れて行っていただきました。松本さんがなさる新地町の人と共に生きる支援の仕方は(旧)山古志村での支援の延長であると思いました。

定期的に新地ベースに来られるスタッフの高木栄子さんも土地の人々の中にとけ込み、次に述べる被災者の加藤和子さんや三宅友子さんと家族のように付き合っておられます。

加藤和子さんや三宅友子さんは津波で大切なご家族や隣人をそして家を失い、仮設住宅を経て新しく建てた家に住んでおられます。加藤さんはお茶会を主催し、三宅さんは仮設住宅の訪問をされています。被災者が支援者となり、またお二人はときに被災者として辛い経験を話されます。このようなことは他の支援団体では経験したことがありません。

今お茶会に来られているご高齢の被災者は、センター新地がお茶会を始めたときから来られている方々です。津波で家を失ったり、原発事故で自宅に戻れない方々で、避難先の新地で新しく家を建てたり家を借りたり仮設住宅に住んでおられます。三世代四世代で一緒に住んでいた家族が震災でばらばらになり、家族の関係にひびが入り、多くのものを失い、人間関係が変わりました。その話をしたあと視線を落とし深いまなざしをしてもの思いに沈まれます。震災5年が経った今も、何度話しても被災者の苦しみに答えは出ませんし心は癒えません。支援者にできることはともにたたずみ、ともに悲しむことではないかと思います。

先日、福島県から北上して宮城県と岩手県の沿岸へ行きました。この数年は福島県にだけ関わっていましたので、今仮設住宅に住んでいる人々は原発事故のために自宅に戻れない人々がほとんどだと思っていました。しかし5年が経った今も宮城県や岩手県での津波の被災者の多くが不自由な仮設住宅で生活されていることに驚きました。土地のかさ上げ工事などにまだまだ時間がかかるようです。東京オリンピックの工事に多くの働き手が行き、建築資材が高騰し、震災の被災者はなかなか家を建てることができず、復旧復興が進みません。福島県では、原発事故の被災地で放射線量が高くても避難解除がされると、帰還が促され補償金が打ち切られるので帰らざるを得ない状況があります。

新地ベースの働きは広く浅く支援するのではなく、身近な人一人一人と向かい合い、ともに痛みを分かち合い、ともに重い荷を負って歩む働きなのではないかと思います。そして現実の矛盾を声高にではなく存在をもって訴えておられるのではないかと思います。

新地ベースの働きを見ていますと「ひとりの人間を救うものは全世界を救う」というユダヤ教の言葉を思い出します。

 

 

福島を忘れない車の旅

東日本大震災から5年が経過しました。節目である年を迎えるに当たり、共に歩んできた方々がこれまでを振り返り今想う事を、リレー形式で掲載します。
4人目は、『福島を忘れない車の旅』で、被災地巡礼の活動を続けてきた小川昌之さんです。『福島を忘れない車の旅』では、冨岡、大熊、双葉、浪江の各町を訪問し、被災地の現況に触れています。また、南相馬郡新地町にあるがん小屋仮設住宅でのお茶会に参加し、仮設に住まう人々との交流も重ねてきました。原発事故の風化が進む中、いつも心に留めて頂き、訪問して下さることは、大きな喜びであり、励ましでもあります。


福島を忘れない車の旅         

東京教区月島聖公会:小川昌之

東北大震災後、「福島を忘れない車の旅」を月2回ペースで呼び掛けてきた。ワンボックスカーを駆って行う1泊2日・2万円・800キロの旅である。

郡山・新地・小名浜の各センターを訪問し、スタッフのお話を聞くと共に、お茶会に参加して被災者との交流を行う。被災地を巡り、被害の実態と復興状況を目の当たりにして、震災と原発事故の核心に迫り、原発立地の相双地区では放射線量の測定も行う。

東京・横浜・中部教区の皆さんを案内したが、車中での教会間・教区間の情報交換も有意義であった。

「行って被災者の何の役に立つ?自己満足だけでしょ」と言われながら続ける旅。自己満足の誹りを免れないかもしれないが、自分のためだけではなく、他者が視野に入った自己満足。

訪ねた相手から「又来てね。あなたの優しい笑顔を又見せてね」と言われたら、800キロなど何ともありません。健康が許す限り、神様の祝福がある限り、私の「福島を忘れない車の旅」の運転ボランティアは続く。