(2015年5月5日中日新聞・8月3日朝日新聞掲載記事より)
鹿児島県薩摩川内市にある九州電力川内原子力発電所1号機が2015年8月11日に再稼働しました。
東京電力福島第一原発事故を受けて、原子力規制委員会が原発推進の官庁から独立して安全対策を審査するようになり、審査を通った原発の再稼働第一号となります。
これを機に、国内でほぼ2年ぶりに「原発ゼロ」が終わりました。
福島第一原発事故では、避難の混乱で入院患者や高齢者が死亡する例が相次ぎました。原発から4.6㎞離れた双葉病院では、入院患者と系列の介護施設入所者の計約230人が取り残され、搬送の混乱などで19人が死亡しました。
これを受け、国は2012年に防災重点地域を8~10㎞圏から30㎞圏に拡大。災害対策基本法などに基づく自治体向けの手引で、30㎞圏の医療機関や特別養護老人ホームなどの社会福祉施設に避難先や経路、移動手段の計画を作るよう求めました。
川内原発の30㎞圏の医療機関85施設のうち策定済みは2施設。159の社会福祉施設で計画を作ったのは15施設でした。10㎞圏では対象の全施設が計画を作りました。鹿児島県伊藤祐一郎知事は「10㎞で十分。30㎞までは不可能だ」と発言し、今年3月に計画作りを求める範囲を独自に10㎞圏に限定。10㎞以遠の施設は、事故後に風向きなどに応じて県が避難先を調整することにしました。原子力安全対策課は「国の了解を得て決めた」と言っています。
原子力規制委は「(避難計画を)評価する立場にない」(田中俊一委員長)とし、避難計画は再稼働条件になっていません。再稼働への自治体同意についても、立地する道県と市町村だけに限定。他の周辺自治体は避難計画作成を強いられながらも、再稼働に何ら影響を行使する立場にはいません。
福島第一原発事故では住民避難は30㎞圏を超える地域にも及び、様々な情報が飛び交う中で住民は混乱し、心身ともに疲弊しました。その過酷な体験が、今でもトラウマとなっているという方も多くいます。
事故当時目に見えない放射能が迫る中、国の不誠実な対応に何を信じて良いのか誰もが不安でした。避難すべきか留まるべきか、それぞれが決断を迫られました。しかし交通は麻痺、ガソリンも不足し、避難できる人と出来ない人の間で格差が生じました。その時、女性や子ども、病人など弱い立場にいる人ほど、困難な状況に迫られるのを目の当たりにしました。
今、健康被害は事故直後の被曝量が全てだと言う専門家もおり、避難しなかった事で自責の念に苦しむお母さんがいます。また、避難した事に負い目を感じている人もいます。それぞれが、自分の選択が正しかったのか今でもわからず、葛藤を抱えたまま生活しています。
避難弱者が置き去りにされたままの再稼働は、事故の教訓から学ぼうとしているとは到底思えません。「天災は忘れた頃にやってくる」ということわざがあります。私たちはいつまでも、福島第一原発事故を決して忘れてはいけないのだと思います。