ボランティアを始めて3年 ~今思うこと~

東日本大震災から5年が経過しました。節目である年を迎えるに当たり、共に歩んできた方々がこれまでを振り返り今想う事を、リレー形式で掲載します。
1人目は、福島県相馬郡新地町の仮設住宅内に拠点を置いている『被災地支援センター しんち・がん小屋』のボランティアスタッフである秦純子さんです。


 

『ボランティアを始めて3年 ~今思うこと~』

支援センター・しんち がん小屋ボランティア
秦純子

私は、ボランティアとして毎月「支援センター・しんち がん小屋仮設」に関わるようになって3年経ちました。この間、主にブログの作成、写真や文書の整理など事務的な仕事の他に居宅訪問もさせて頂いています。水曜喫茶や指圧・マッサージなどイベントのお手伝いもします。いろいろな活動を通して、仮設住宅に住む人たちと過ごす時間は、私にとって何にもかえがたい大切なものです。

震災から5年、私が関わり始めてから3年経って、やっとボランティアの意味が少しずつ分かるようになってきました。先ずは、「ボランティアとして受け入れていただきありがとうございます」というのが、今の私の率直な気持ちです。
震災から5年の時を数え、初めて新地に伺った頃のことを、あらためて思い出しています。
自分としては、支援をしているつもり、わかっているつもりで伺った新地で、現実の被災者の姿に触れ、実は何もわかっていなかった、自己満足の支援であったということを思い知らされました。帰りの新幹線では涙が止まらず、聖公会東北教区のH司祭にメールしました。そのとき司祭から、「純子さん、良い経験をなさいました。支援とは、ただ傍にいることです」との返信がありました。
その時、私には何を言っているのか、さっぱり分かりませんでした。毎月新地に通うようになって3年、やっと、あの時H司祭が教えてくださったことが分かるような気がします。ただその場にいるというのは、誰にでもできることのように思うかもしれないけれど、誰にでもできない事でもあります。そして拠点がなければそれもできないことです。

ランソン女史(※)は多くの種をまいていらっしゃいました。これから種が育つのを願うものです。アッシジのフランチェスコは、崩れた教会を建て直すときに、自ら1つずつ石を積んだと本で読みました。磯山聖ヨハネ教会も、建物だけでなく教会としての働きもこれから1つずつ積み上げていくのだろうな、と思っております。支援センターの働きが磯山聖ヨハネ教会の隅の頭石になることを信じております。そして、聖公会の関係者の方々と共に居られることへの感謝と共に、これから建つであろう磯山聖ヨハネ教会の未来を信じて活動を続けたいと思っています。


 

(※)アンナ・L・ランソン女執事

磯山聖ヨハネ教会の伝道は、1920年の夏に青葉女学院長アンナ・L・ランソン女執事が病後保養のために磯山に来て、林間日曜学校を開いたことに始まります。

ランソン女執事が休暇でアメリカに帰郷している間はカールセン女執事がその後を引継ぎ、種まきの家を建設しました。カールセン女執事の逝去後には、ランソン女執事が再び磯山で伝道を開始します。

1928年にはランソン女執事の住まいであった星見荘にて初めての洗礼式、1932年には初めての信徒按手式が執り行われました。

1936年には礼拝堂兼会館が新築され、同年12月27日聖ヨハネ日に聖別式が行われ、同時に従来仙台聖公会の会衆であった信徒56名を分割して、磯山聖ヨハネ教会員とされたのです。(東北教区成立80周年記念誌より)

東日本大震災5周年記念聖餐式が行われました。

2016年3月11日(金) 日本聖公会東北教区「東日本大震災5周年記念聖餐式・黙想」が行われました。
いまだ困難にある人 を覚 えつつ、召 された人々の鎮魂の祈 りの時 を持 ちま した。また、黙想の中で体験された3名の方の証を聞き、分かち合いました。そのうちの一人として、スタッフが以下のお話をさせて頂きました。


2011年3月11日、被災地では暗闇の中、とても未来へ希望を持つことは出来ませんでした。地震と大津波と原発事故により変わり果てた東北が、ここまで再生出来ると、誰が想像出来たでしょうか。共に歩み続けて下さった沢山の方々の存在無くして、今の復興は無かったでしょう。
その一方で、解決し難い問題も残っています。福島原発事故の収拾も、放射能汚染による問題の解決も、未だに見えていません。このまま時間の経過と共に風化が進み、被災者が取り残されていく事を心配しています。

震災が起こったあの日、私は宮城県仙台市、夫は福島県郡山市と、離れて生活をしていました。ライフラインが途絶え電話もほとんど繋がらなかったため、一人暮らしの夫の状況がまるで分からず、私はすっかり平常心を失っていました。日に日に原発事故の報道は深刻さを増し、状況は悪くなるばかりでした。
そして震災から5日後には、遂に夫の住む郡山市を、日本政府からの避難指示のない中、アメリカ政府は避難区域の対象にしました。日本政府の対応から、国民の命を軽視している事は明らかでしたので、避難するか留まるか、一人一人の判断に委ねられている状況でした。不安に押し潰されそうだった私は、夫に例え仕事を失っても構わないので避難して欲しいと懇願しました。その結果、夫は職場の避難指示が降りる前に福島県外へと避難しました。
日常が戻った今、夫はその代償を支払っているのではないかと思う事があります。あの時避難を勧めるべきではなかったのではないかと、自分を責める気持ちは今でも消えません。

そして震災から4か月後に、私は宮城県仙台市から福島県郡山市へと引っ越しました。なぜ、敢えて危険なところへ行くのか?家族は止めないのか?などと周囲の人達から問われましたが、私には、夫一人を危険なところに置き、自分だけ安全な場所にいるという罪悪感に耐えられませんでした。福島に来てからは、目に見えない放射能からどうすれば逃げられるのかいつも考え、毎日を緊張感を持って生活していました。被ばくを避けるために窓を閉め切り、食べ物や飲み物にも細心の注意を払っていましたが、その一方で、夫はある日を境に開き直ったのか、放射能を気にする事がなくなりました。
放射線量の高い所をマスクも付けずに平気で散歩する夫に、私は何も言いませんでした。彼の置かれている立場や状況では、開き直らなければここでの生活に耐えられないのだろうと思ったからです。家でも外でも放射能の話題はタブーであり、明確な答えの無い中、誰しもが各々で放射能へのルールを作るよりありませんでした。ここで暮らしていく事を選択したからには、放射能について自分で独自に調べ、妥協点を見出すより他に無かったのです。当時『絆』という言葉が盛んに使われていましたが、こうした状況の中、境遇を同じとする仲間の存在は私にとって何よりの心の支えでした。

そして震災と原発事故から5年が経った今、私の住む福島県郡山市では、当時の殺伐とした空気がウソのように、一見すると平穏な日常が戻っているように思われます。しかし、ここで暮らす誰もが多かれ少なかれ心のどこかに放射能への不安を抱いています。

政府は、福島の復興や帰還を推進するために『安全・安心』をうたっていますが、実際に放射線測定器を使って計測してみると、街中の至る所で除染対象となる毎時0.23μ㏜を超えます。それどころか毎時1µ㏜を超えるようなホットスポットが点在しているのです。このような現状ですが、子ども達はマスクも付けずに毎日放射線量の高い通学路を歩き、粉塵が舞い上がるグラウンドで部活動に励んでいます。給食では福島県産の利用を推進しており、普段県外産の飲食物しか購入していないお母さんも、我が子に1人だけ弁当を持たせる訳にはいかないので諦めていると言います。その様な不安を、軽々しく口に出す事も出来ません。ママ友同士でも子ども達の間でも、放射能を気にしている様子を見せるといじめの対象になってしまうのです。

福島県では、震災時に0歳から18歳だった福島県民を対象に、20歳までは2年ごと、それ以降は5年ごとに甲状腺のエコー検査を実施しています。
今年の2月時点で、116人の子ども達に甲状腺がんが見つかっており、その子ども達の多くは既に手術を受けています。このエコー検査は、1人当たりに費やされる時間が3~5分の流れ作業で行われ、特に検査の前後に詳しい説明があるわけでもありません。不確かな検査に親子共に不安を抱きながら、2年後の次の検査まで待つ事になるのです。
もしも検査の結果がんが見つかり、手術をすると首に傷跡が残ってしまいますが、私はそれ以上に心の傷の方が気がかりです。その子はきっと、進学や就職、結婚など人生の様々な重要なステージで、自分が甲状腺がんの手術を受けた事を説明しなくてはならないと思います。そのたびに、福島に対する差別や偏見と向き合う事になるのではないでしょうか。又、その子の親も、我が子を想う気持ちが強ければ強いほど、責任を感じ苦しむのではないかと思います。小児甲状腺がんの多発について、原発事故との因果関係をまだ公に結論付けられてはおりませんが、大人の都合で犠牲になっている子どもがいるという事を忘れてはならないと思います。

私はこの原発問題プロジェクトに携わる事で、福島で暮らす人が心の奥にしまっている、放射能に関する様々な想いに触れる機会を頂きました。一人で抱え込んでいた胸の内を聞き、いつも元気に笑っている方が福島で暮らす事にこれほど葛藤を抱えていたのかと驚く事も多々ありました。暗闇の中にいながら声に出せずにいる人の存在に気がつき、明るい方ばかりに目を向けている自分の能天気さを情けなく思いました。振り返ると、その人達へどうすれば光を届けられるのか、いつも仲間と話し合い試行錯誤していたように思います。そして誰よりも私自身が、共に悩みを共有してくれる人達に支えられ、今日まで歩いて来る事が出来たのです。

『もう二度と、こんな事が起きてはいけない。自分たちの苦しみを平和への礎として欲しい―』それが震災と原発事故で犠牲となった人達の何よりの願いであると、今も福島で暮らす私は思います。