監督の日本傳道の第二期大阪時代は、支那武昌より居を大阪に移せし明治二年十一月より、東京に傳道の根據を移せし明治六年十一月迄である。第一期長崎時代は開墾の時代であつて、第二期大阪時代は漸く播種の時代に入つたのである。此期間に師が曩に屢ば熱切に要請せられた宣敎師は、明治四年三月モリス氏の來任を第一に、次いでミラー、クインピー、宣敎醫師ラニング、クーバー、ニユーマン、ブランシエー諸氏派遣せられ、俄に勢力を增加した。茲に於て傳道事業は益々多事となりしが、師は尚ほ時々支那に出張し、該地の敎務をも執られた。
一千八百七十年(明治三年)三月十五日發の師の書簡には、「拙者は我が大阪の居宅の一部に小さき禮拜堂を拵え、日曜日毎に英語禮拜を行ひ候。此禮拜を始めしより以來、拙者は四人の信徒に按手致候。是れ大阪に於ける第一回の按手式にして、我が働きの初穂に御座候。遠からずして日本人の按手の數を御報告可致候」とあれば師は大阪に移りし後、直に此禮拜を開始せしものと見へる。師はまた若干の學生に英語を敎授せられつゝありしが、明治四年三月モリス氏來任したれば、一學校を組織し氏を之が主任者とした。是れ聖提摩太學校(英和學舎)の濫觴にして、聖公會敎育事業の端緒である。モリス氏曰く、「此等の生徒は最年長者も十五歳以上には無之候得共、銘々腰に一刀を帯し居り、若し敎師と爭論をなせば、如何なる振舞に及ぶやも計る可らず、されど昨今は左様な氣勢を示さず候」と。明治六年六月末に至る過去一年間の報告中、監督は曰く、「生徒は漸次に增加し四十七名に達し候。九月始業の際は若し適當なる家屋を得らるゝに於ては、寄宿生を募集する計畫に候。而して現在まで然か爲せし如く、今後も學校は自給したき希望に候。宣敎師諸氏は何れも一日一時間半若くは二時間敎鞭を執られ、聖書をも學校にて敎へ居り候。過る休暇後別に聖書研究會を開始いたし候が、七八名の學生及び敎師出席致居り候。之は我等の働き中の最も有望なるものにて、かくも聖書研究の爲に、一日一時間を過すを心快しとする多くの靑年なる敎師及び學生を有することは、小生は支那に於て無之かりし事に候」と。明治五年末より外國人の爲の英語禮拜の外に、毎日曜日午前及び午後日本語の禮拜を執行し、師が此頃譯了されたる早禱、詩頌、嘆願は使用せられ、説敎講義はなされた。而して此の禮拜出席者の數は次第に增加し、禮拜堂を增築する必要を見るに至つた。六年三月十四日モリス氏の書簡の一節には、「日本人は大なる興味を以て禮拜に列し説敎講義を謹聽いたし候。彼等は毎時同一人物に候へば、少くとも彼等の或る者の心に、善き種の蒔れたることを信ずるに足る理由有之候。彼等は聲を合せて詩九十五篇を誦し、日本語に譯されたる「Rock of Ages」を歌ひ申候」とある。明治六年十一月十六日、第一回洗禮式は執行せられ監督に依り洗禮を授けられたるもの六名あり、之れ大阪傳道の初穂であつた。更に翌年四月、第二回の洗禮式に於ては、モリス氏に依り洗禮を授けられたるものが十四名あつた、かくの如くにて、大阪に於ける傳道事業は着々進捗し、前途甚だ有望となつた。
明治六年は、基督敎禁制の高札が撤去せられ、基督敎嚴禁の時代より黙許の時代に入し年にして我國傳道史上の第二期を開き、また此年十一月監督は居を東京に移し、師の日本傳道の第三期に及ぶを以て、茲に維新政府の基督敎に對する政略、及び基督敎禁制の高札が徹廢せらるゝに至る迄の顚末に付き、以下聊か叙述することゝした。
幕府を打破して王政復古を宣言したる維新の政府は、外國交際の止むべからざるを看取し、攘夷論を抛つたが、基督敎に對しては、依然として幕府政策を墨守し、全國各地に「邪宗門の儀は是迄の通り堅く禁制の事」てふ高札を掲げ、禁令を嚴にして屢ば基督敎徒を迫害した。是より先、德川幕府は島原亂の後、禁敎の勵行に峻嚴を極めたるに關らず、猶ほ文政十二年に於てすら、京都に在て窃に天主敎を信ずるものがあつた。思ふに幕府の威力を以ても、基督敎を一掃し全く痕跡を勦滅するは甚だ難事たらざるを得ぬ。況んや爾來此敎の巣窟と稱せられたる長崎附近に於てをや、此地方には當初から幾世を經て信仰を渝へず、窃に家訓を奉じて天主敎を信ずる人民があつた。而して彼等は幕府の勢力既に衰へ、外國人の去來漸く繁きに乗じ、自ら基督敎徒たる事を告白するに至つた。慶応元年三月、此徒の中にて浦上に住する者は、不意に長崎居留地の天主敎會に現はれた。佛僧は之を見て直に長崎奉行に訴へたれば、浦上の敎徒は奉行所に呼出され、嚴重なる取調を受け、戸主六十名は牢獄に投ぜられた。然るに此事の未だ何等の處置を爲さゞるに、早くも幕府は顚覆して明治の新政府の世とはなつた。茲に於て新政府は直に此國禁を破りて、勃發したる天主敎徒を處分せざるべからざる任務を負ふた。明治元年四月、明治政府は、天主敎徒の處分に就き、左の文書を發して諸侯の意見を諮問した。
『長崎近傍、浦上村の住民、先年來窃に耶蘇敎を奉し候者有之哉に候が、方今追々繁茂致し、一村舉て右の教を奉戴し、殆んど三千人にも及候様相成、不容易大事の儀に付、長崎裁判所より精々申喩し候由の處、更に悔悟伏罪無之趣に候、方今大政更始の折柄右様追々蔓延致し候ては、實に國家の大害に相成、暫も難捨事件に候得者、右巨魁之者相集め、尚懇々説諭を加へ候上、速かに悔悟致し候者、右宗旨 の畫像等一切取毀ち、改て神前に於て誓約をなさしめ、若し萬一悔悟不致節は、不得止斷然巨魁の者數人、斬罪梟首致し、其餘の者は悉く他國に移し、夫々夫役相用、一時に根底を剿絶し、數年を經て悔悟の實相顯はれ候上、歸住相免し候外有之間敷く、實に不容易事件に付、聊無腹臟、各見込の程、言上可有之被仰出候事』
明治元年七月、政府は浦上及び長崎の信者百三十名を捕へ、敎を棄てざる者は慘酷なる栲門に掛け、肥前大村五島の端々まで布告し、頻に信者を捕へ、四百餘人を監獄に繫ぎ、食物を充分に與へず、笞刑に處した。大村の監獄に繫がれた百二十三名の信者の中、一年間に飢て死たる者四十五名あつたといふ。同年閏四月之等の信徒は、加賀、薩摩以下三十四藩に預けられた。明治二年十一月政府は、大村藩士渡邊昇を長崎に遣し、信徒を捕縛し禁令を嚴にせしめ、尋で議與木戸準一郎を長崎に遣し、敎徒として逮捕したる三千七百餘人を諸藩に配附し、之を説諭して信仰を棄てしめんと圖りしが、彼等は皆な刑を畏れず、一人も説諭に從ふものは無かつた。
新敎信徒にして當時捕縛せられしは、英國聖公會宣敎師エンソー氏より洗禮を受けた二川一騰(小島一騰と稱し今尚存命)氏であつた。氏は明治三年三月、入浴の歸路、突然逮捕せられ獄に投ぜられ、在監二年の後漸く放免された。また組合敎会宣敎師ギユリキ氏の邦語敎師、市川英之介氏も捕へられ入牢を命ぜられた。氏は在監中病死したさうである。
是より先、明治政府は幕府の邪宗門禁制の高札を繼承して、全國各地に掲示せしが、外國公使より、西洋一般の宗敎たる耶蘇敎に附するに、邪の文字を附するは、不都合なりと難詰せられたので、明治三年閏四月、僅に其法文を改めた、當時の布告に曰く、
先般御布告有之候切支丹宗門は、年來堅く御制禁に有之候處、其他邪宗門の儀も總て堅く被禁候に付きては、混淆いたし心得違有之候ては不宜候に付き、此度別紙の通り相改め候條、早々製本調替可有掲示候事。
一、切支丹宗門の儀は是迄御制禁の通り堅く可相守事
一、 邪宗門の儀は堅く禁止候事
然し是は唯だ文字を改めたに過ぎぬ。政府は依然として耶蘇敎を國禁とするの政策を墨守した。然ながら浦上の敎徒逮捕の事ありてより、佛國公使を初め英米公使等の異論抗議は、鋒鋩甚だ鋭くなつたので、遉の耶蘇敎退治に鋭意なりし政府も、是に於て餘儀なくも方針を一變して寛和政略を取るに至つた。明治参年正月十七日外務省は左の布告を發した。
『長崎近傍、浦上村之者共、外國敎師の蜜々の勸誘するに迷ひ、切支丹宗信仰致し、追々多人數に及び漸く不法之所爲有之に由り、同縣へ更に御下命有之、右切支丹宗に迷ひ候者共を各藩へ御分配相成候、抑右に付ては、是迄各國公使と文書の往復、且應接も數回に及び其趣意は、彼より我政府に於て、今度専ら嚴酷之沙汰を以て宗徒を所置し、子をも同様移轉せしめ候ては、一昨年來の約束に相違し、寛恕之所分に無之、左候ては全外國一般信仰之敎宗を侮辱するに近く、互に宗旨の論に渉候様云々申立、彼我の見込大に相違致し居、外國の交際是より敗れ、國家の御爲不容易大事をも可引興場合に立至候間、我よりは事緒萬端切に辯解し、且宗民共其儘難差置次第は、他邦の敎を信仰し我神明を侮辱し、政府之命に背叛致し、官員に對し暴動の振舞に及候事一も許すべからず、從來の法典に依て所置致し候得者、重き刑科にも可處之処、兼て各國公使へ切支丹宗門の儀に付ては、約束の趣も有之候間、御交際上に取格別の寛典を以て刑外之處置を施し、住居を移し幾重にも誨導説諭し、尊上改善之道に遷らしめんとす、尤も無罪之妻子云々之儀は、是亦我政府に於ては別段着意埀憐致し、一家別離之患なからしめんとする所にて、舊來之國法を守候時は右様之儀は無之、此上藩々預置候所にて、其者相當の産業に就しめ、田盧を與へ苦難の患なく活計不差支様可致旨、反覆説明致候處、各公使に於ても初めて了解致候旨申立候間、敎諭之儀は太政官より御布告之通り、一轍可相成候得共、右應接の趣意は、諸藩にても相違不致様可被相心得候事』
明治四年十二月、歐米の文物制度視察及條約改正談判の爲め、橫濱を出帆したる特命全權公使岩倉具視の一行は、歐米至る所に於て、日本は信敎自由を與へざるざる野蠻國なり、日本政府が無罪の基督敎徒を迫害するは、沒人道の行爲なりとの輿論の痛棒に逢ひ、基督敎を國禁にすることは對等條約上に不利と認め、匇惶留守の政府に電報を發し、基督敎禁制の高札を撤去し、各藩に預けある基督敎徒を放免すべしと通達した。明治六年、基督敎禁制の高札は撤去せられた。また各藩にありし基督敎徒を赦免し、其歸村を許し、且金を與へて家屋及田地を修復するの料に供せしめ、各國公使に基督敎解禁の事を通告した。是れ實に明治六年參月の事であった。斯の如くにして、明治政府は基督敎に對する迫害に就き、創業より未だ數年ならざるに、初心を飜して緩和政略を取るに至つた。當時政府は、曾て公然天下に布告して嚴禁したる基督敎を、解禁したる事の何等の布告を下さず、陰然たる默許の方法によりたるが、明治二十二年發布の憲法に依て確證せられたる信敎の自由は、既に此時に於て獲得せられたるものと云ふべく、而して此自由を獲るに至りしは、監督ウイリアムス師の陰然たる運動、また與つて力ありしことは、左の事實にりより知らるゝのである。
是より先、監督が米國に歸るや、當時我國にありし外國人は、監督に託して米國合衆國政府に向ひ、英國政府と協力し、日本政府に勸告して、基督敎禁制の法律を撤去せしめんことの陳情をなさんとした。監督は慶應二年十一月、米國聖公會外國傳道委員と謀り、陳情書を携へてワシントン府に至り、同市現異邦敎會牧師ホール博士と倶に、之を政府に提出した。此に對し米國政府の答辯は、國務卿より送り來つた、其文に、「此件に關して我政府は何等活動的の處置に出づるには、時期尚早しと認むれども、速かに日本在留の公使に訓令して、此問題を調査せしむべく、而して我公使が其目的を達するの見込ありと認むるに於ては、英國女皇陛下の代表者と力を戮せて、日本に於ける基督敎の禁令を撤去せしむるに努力せんことを命ずべし」と云ふにあつた。
左に掲ぐるものは、監督が支那日本傳道監督として、支那に歸られた後に認められた書簡であつて、中に日本駐在米國公使ヴアン、ヴハルケンボルグ[#ハは小文字]將軍が、監督の書状に對して送られた答書が記載されてある。此問題に關する消息を知るに足るものである。
『余は我公使に向つて、曩に大統領に提出せられたる情願の結果として、日本に於て執られたる處置如何を問ひ、且同國に於て傳道事業の活動を始むるの可否に關して、公使の意見を求めしに公使は十二月廿八日(千八百六十八年)附を以て、左の如き返信を送られたり。
「汽船コスタリカにて御手紙正に受取候、御尋ねの事柄に就きては、余は貴下の御申越の傳道會社の請願を載せたる、セワード氏の手紙を受くるに先ちて、既に日本の先帝陛下の政府に對して、基督敎迫害の問題及基督敎を禁ずる法令に關して一書を致し、爾來今日に至る迄、數回此國の官憲と商議し、更に近日は新政府に向つて、此問題の協商を開き居候。最近の會見は余が貴下の書を受けたる僅か二日前に有之候。余は今日迄此問題に對して數通の書を日本政府に致し、以て彼等の偏見を解く爲めになし得たる處、既に少からずと信じ候。彼等は甚だ公平なる約束をなし、愈々茲數日の中に最後の回答を送るべく同意致候。余は其結果の良好ならんことを希望致候得共、彼等の偏見と頑冥に打勝つことの困難なるは、何人も知る能はざる所に候。余は此努力に於て大に我が同輩なる諸外國公使の援助を得候、諸氏亦等しく此事件に關心せられ候。
若し夫れ貴下の滯在地に於て、何等かの新しき事件生ずる時は、其事實を拙者に御報道相成度、余は事實に基いて談判致さんと欲し候(氏が斯く云はるゝは余を長崎に滯在すと信ぜられしに由る)差當りては各地に於て、貴下の所謂傳道事業の活動を始むることは、安全ならずと信じ候。此問題の解決せざる間は、進撃的傳道は偶々以て焔に油を添ゆる如きものに可有之候、且つ恐らくは人民をして、信敎の全き自由を得せしむる希望有之候に付き、其時こそ貴下等の働をせらるべき時と存候。此最も望ましき状態に至らしめんが爲めには、余は有らゆる方法を盡すに吝ならざることを御信用被下度候」
右の次第なるを以て、久しからずして日本に於ける基督敎の解禁を得べきことを望むに、最も有力なる根據有之、我が公使が之が爲めに努力せらるゝことは、確かに全基督敎徒の感謝を受くるに値することに候、我が公使は此協商に於て必ず成功せらるべし』
監督は斯く前途の有望を報じ、更に熱烈の語を以て日本傳道を訴へられた。
『乍去、解禁の曉に於て日本に渡り、十字架の旗を其土に立て、我等の主の名に於て此國を占領する爲に、往くべき人は果して誰なりや、我が敎會は此善き働きを助くる爲めに、何の爲す所なかるべきか、我が外國傳道委員は、有力なる奬勵の檄を發して、一個或は數個の敎會が、日本に於ける一宣敎師を支持することを企るを奬めざるべきや、一人の宣敎師及一人の醫師にして、妻子なき人を支持する如きは、何等の苦痛をも感ぜざる敎會尠からず、否な斯の如きは紐育の富豪に取りても、極めて些々たることにあらずや。願くは此最も興味深き國民の爲めに、爲し得べきことあらば、次便の書簡にて余に申越されんことを。』
更に師は一千八百七十年(明治三年)一月、此問題に就いて大阪に於て、英國公使パークス氏と會談せられた。
『我が傳道會社最近の會議に採用せられたる決議の條項中に、「日本政府が公然基督敎を信ずる者を死罪に處することに關する法律の撤回せられんが爲め、日本に於ける合衆國の代表者を通じて、適當と認むる方法を執らんことを、外國傳道委員に要求す」との一項あるを見て、拙者は喜び禁ぜざる思ひに候。必ずや我外國傳道委員は、此勸告を容れて該法律の廢棄の爲めに、再び請願を我大統領に致し、或は更に適當と認むる方策を執らるゝことゝ信じ候。曩に提出せられたる請願は必ず善き效果を有したりとは信じ候得共、我等は其儘にて止むべきに非ず、我等は更に現政府に請願して、p>
日本に於ける排基督敎の法律の廢棄を日本政府に要求することを繼續する樣、我が新公使に訓令せられんことを請ふべきにて候。拙者は前週英國公使パークス氏が大阪に來られし際之を訪問し、日本に於ける外敎寬容の問題に就て、同氏と凡そ一時間の最も興味ある會談を致候。パークス氏の云ふ所によれば、日本の現政府は、之を以て其處理すべき最大難問の一と思惟する樣子に候。即ち日本人中外人及び外國貿易に對して厚意を有する人々すらも、基督敎に對しては痛く反感を抱き居候、勿論、彼等の反對は理由なきことには候得共、彼等は今尚第十六世紀に於て、羅馬得力敎徒が此國の政治に干渉したるが爲めに、此國より驅逐せられし顛末を昨日の如くに考へ居候。彼等の基督敎を嫌惡するは、全く傳説的のものなれども、而も甚だ強き反感に有之候。パークス氏は或日本人の出版したる一小書子を有し居られ、其著者は主義に於ては自由貿易論者たり、外國との交際に反對せざるものなれども、只茲に一事の好まざるものあり、他なし外國人が彼等の宗敎を持ち來らんことなり、之れ我が全力を以て反對せんとする處にして我は決して外敎の此國に入ることを許す可らざるなりと申居候。
パークス氏の意見にては、未だ公然此敎を宣傳せざるを可とし、只靜に此國語を學び、且つ議論にて佛敎僧に會するの準備をなすに止まるを得策とすとのことに候。然れば吾人は此國人の精神が基督敎に對して、好意を有するに至る迄には、更に若干の時日を假さゞる可らず。パークス氏の意見にては茲一二年を出ずして、政府は基督敎を寬容するに至るべき見込に候。而して又一方に於て、吾人は聖書其他の書籍を頒布して、彼等の心を醒覺し得べく、且つ我等に接觸し來る人々を竊かに敎訓し得べく候。十人二十人の日本人の怩懇者を拙者の宅に招きて、禮拜をなし、且つ彼等に敎ふることは、何の差支も無かるべしとのことに候。パークス氏は去るに臨みて、此問題に最も深き關心を有することを告げられ、且つ基督敎の寛容を得んが爲めに、自己の權内に於て有らゆる手段を盡すべきことを、其後書面にて申來られ候。然ればパークス氏の盡力にして若し合衆國公使の援助あらば、更に成功の見込多かるべしと存候』p>
明治六年二月十九日、政府は基督敎禁制の高札を撤去し、同三月各藩にありし基督敎徒を赦免したるが、此は政府當局者が基督敎に對する偏見誤解が氷解したるが爲ではなく、全然國際的政治的の意味よりかゝる緩和政略を取るに至つたのである。當時政府は外國に對しては、日本は基督敎を寬容したるものゝ如く修飾ひ、基督敎其ものに對しては、依然として邪宗門禁制の心を有したのである。さればかく基督敎に對し口是腹非の政略を取つた政府は、當時基督敎公認の何等の布告も發せず、極めて曖昧糢糊のうちに、禁制の高札を撤去した、明治六年八月の報告中、師は當時の事に就て記して曰く。
『日本に於ける宗敎寬容は、我等が福音を宣傳するに全く自由ならざる故に、願望せし所のものにあらず候へ共、なほ前年に比較せば、人意を強うするに足るもの多く有之候。去る三月中、橫濱よりの電報は、政府は基督敎を解禁し寬容したりと報じ來り、又た同一の通信は本國の諸新聞紙に發表せられ、此國に於ても本國に於ても大なる歡喜を喚起致し候。乍併此は大早計の事と存候。かゝる通信は政府が彼の邪宗門信奉を嚴禁したる基督敎に對する法令中、最も顯著なる舊き禁制の高札を撤去したるより、由來したるものに候。禁制の高札を撤去したることは之れ正當なる方向に一歩を進めたる事に候得共、信敎自由を公認することゝは全然異なるものに候。然ながら其後間もなく政府は他の布達を發して、制札を撤去したる理由を公示したるには人々驚き入り申候。該布達によれば、禁令は長き間公示せられ、今や人民の熟知する所なれば、最早掲示の必要なしと云ふ事に候。
或る人々は、政府は基督敎奉信自由を許す第一歩として、禁制の高札を撤去したるが、後ち佛敎家及反基督敎家の反對攻撃を恐れて、更に第二の布達を發して、反對家の要求を滿足せしめ、彼等に對する恐怖を安んぜんとしたるなりと思惟致し候。また他の人々は、彼の嫌惡すべき禁制の高札を撤去したるは、之を以て外國公使の心を動かし、日本人が最も切望する條約を改正して日本在住の外國人は日本の法律に服從すべしとの件に、同意せしめんとする策略にあらずやと、深く疑念を懷き居候。
基督敎に對する舊き禁令は效力を有すと布告しつゝ、同時に外國使臣をして日本の法律の下に外國民を置かんとの彼等の要求に、同意せしめんと望むも、到底能はざる事に候。然ながら是等は何れも臆説に外ならず候。何となれば政府は其閣議を秘密にし、此件に於ける信據すべき説明を與ふるを、至當と思考せざる故に候。去りながら、其説明は如何にあれ、その取られたる政略は、寧ろ日本政府の善き信用を毀傷するものに候。禁制の高札を撤去したることは、政府は、基督敎を奉信するを以て、大罪と見做す法律を廢棄する意向ありと、人々に思はしめ、而して第二の布達は、政府の善意に於ける或るものゝ信任を、尠からず損じ申候。』
基督敎禁制の高札を撤廢したるは、政府が外交上の政略に由るものなりとはいへ、實際に於て茲に嚴禁の時代終り、自由に福音を宣傳し得る時期となりたれば、日本の基督敎傳道に取つては、正に一新紀元を開かれたのである。是より、各派の外國傳道會社は續々男女の宣敎師を我國に派遣した。安政六年より明治五年迄の十四年間に、來任せし宣敎師の總數は三十一名なりしが、基督敎解禁の此年中に、新に來着したる男女宣敎師の總數は、十九名の多數であつた。米國聖公會傳道會社よりは、五年十二月ミラー、クインピー、六年七月宣敎醫師ラニング、六年九月ニユーマン、同十二月クーバー、ブランシエー諸氏を派遣せられ、是等の諸氏は大阪或は東京に於て傳道に從事せらるゝことゝなつた。
基督敎嚴禁の時代は已に去り、日本の傳道界は色づきて利鎌を俟てり、而して美しき成果を收穫するの希望洋々たる際、新に働き人の來り加はりたれば、今や此好機を逸せず、全力を傾注して日本傳道の爲に盡さゞるべからずとは、ウイリアムス監督が當時切に感じたる所である。故に師は、此年九月本國に致したる報告と共に、此時に當り日本支那兩國の諸敎會を管轄せんとせば、徒に時日を長距離の旅行に費し、而かも何れの職責をも全ふする能はざれば、宜しく傳道管轄區を分割して、日本專任監督とし、支那の爲に新に監督を任命すべしとの意見を具陳し、切に傳道委員に訴へられた。然るに本國に於ても、此年十月の傳道局會議は、「日本支那兩國の傳道管轄區分割の便宜に關し、外國傳道委員と商議の上、次會に報告せしむるために、委員を擧ぐる事」を決議した。之は監督の請願に全く關係なく決議されたのであつた。斯くて監督は愈々專心日本傳道に從事すべく、明治六年十一月居を東京に移された。翌年米國聖公會總會は、監督の請願を容れ、傳道敎區を分割し、江戸監督の名稱を以て、師を日本專任監督とした。