日本聖公会大阪教区 メッセージと祈り

長崎原爆記念礼拝 平和の同心円 証言(2018年8月9日 長崎聖三一教会にて)

司祭 ペテロ 松岡 虔一

[戦前の教会]

幼児時代に私は大村町の教会から出島に在った「みぎわ幼稚園」に通った。「憩いのみぎわに伴われる:詩編23篇2節」から園名を付けたメソジスト系の幼稚園であった。父親は聖三一教会の牧師であったが、イギリス人の信徒が多く所属しており、私はよく父のお供をしてグラバ-さん(日本名:倉場富三郎・ワカ夫人)、ウォ-カ-さん(大浦天主堂横)、カレスさん(小島)、リンガ-さん(グラバ-邸の奥)等を訪問し、イギリス直送の紅茶や金平糖など珍しいご馳走にあずかった。父は流暢な英語で会話を楽しみ、私と姉はお庭で花を摘んだり池でオタマジャクシを採ったりした。楽しい日々であった。

[戦時中の教会]

1941年、私が新興善小学校3年生の12月に第二次世界大戦が勃発し、状況は一変した。開戦当初、日本軍は東南アジアに侵攻しイギリス軍と激しく戦った。当時マレ-シア、ビルマ、シンガポ-ルはイギリス領だった。
その後インドネシアに進撃してオランダ軍と戦闘を交えた。開戦直前に外国籍の信者さんは交換船で母国に引き上げ、日本籍を取得していたグラバ-さん(倉場富三郎)のみが残った。聖公会は激戦を交えているイギリスの国教会であり、カンタベリ-大主教を首領とし、敵国式の礼拝(祈祷書)を奉げていると言うことで他教派に比べて厳しい弾圧を受けた。特高警察が度々取り調べに来るし、戦前イギリス領事館に出入りしていた父は親英米派とみなされ、スパイ容疑で逮捕されるのではと、その都度家族は心配した。父の外出には特高の尾行がつくし、手紙類は総て開封検閲された。ある日、父が信者さんを訪問したが、直後に特高がそのお宅に来て「何を話したか」厳しく尋問された。父は信者さんに迷惑をかけるからと訪問を断念した。

  

[毎主日夜の家族礼拝]

特高警察によって礼拝は事実上禁止され、礼拝堂は閉鎖状態となったので、私達家族(父母と子供5人)は毎主日の夜に牧師館の奥で密かに(夕の祈り)を守った。これは原爆投下まで欠かすことなく続いた。父の短い祈りのあと家族で聖歌を歌った。
(日暮れてよもはくらく、わがたまはいとさびし、
よるべなき身のたよる、主よともにやどりませ) 
父が幼い子供たちに配慮して毎回おなじ歌を唱和した。(主よともにやどりませ)は戦時下の家族の祈りでもあった。

                            

[父親の徴用]

40才を過ぎていた父は、兵隊に召集するには年齢が過ぎていたので、三菱電機に徴用された。毎日、連絡船で対岸の工場に勤務し、夜帰宅した。そこで得たわずかな給与で家族は戦時下の飢餓をしのいだ。

 

[鎮西学院中学校]

小学校を卒業した私は、1945年4月に爆心地に在ったメソジスト系の鎮西中学に入学した。終戦の4ケ月前のことである。6月には数十万人の犠牲者をだして沖縄が米英軍の手に落ち、特攻隊は次々と敵艦に突っ込んで爆死していった。都会は焼夷弾攻撃で焼け野原となったが、軍部は本土決戦に備えていた。当時中学校は繰り上げ卒業で4年生までであった。3、4年生は学徒動員で(井樋ノ口)の三菱兵器工場に勤務しており、多くは原爆の犠牲となった。1,2年生は3交代制で一週間は学校、一週間は駅で石炭運び、一週間は周囲の山で戦車壕掘りの作業であった。敗戦間際の大混乱期であり、学校での一週間はグラウンドでの薩摩芋作りや配属将校の指導による軍事教練で、歩伏前進や岩屋山への行軍などであった。

[8月9日のこと]

その日の朝、父は三菱電機に出勤した。女学校2年生の姉は勤労動員先に、中学1年の私は戦車壕掘りに「田手原」か「甑岩」(どちらかはっきり覚えていない)に出かけた。途中で警報が鳴ったので私も姉も教会に引き返した。従って母と子ども5人はそろって教会で被爆した。午前11時2分、部屋にいたらピカッと閃光が走った。畳に伏せた。ド-ンと轟音がして真っ暗になった。壁土が部屋を覆った。目を上げて驚いた。家の中がメチャクチャである。私は吹き飛ばされて腰を強打した。姉はガラスの破片が突き刺さりシャツが血に染まった。建具も食器棚もすべて倒れ、母と妹や弟は台所の食器棚の前に伏せたが、倒れた食器棚がテ-ブルに支えられ、隙間となったので擦り傷程度で助かった。ガラスは鋭く小さく割れて、その破片が畳や廊下や壁に突き刺さっていた。牧師館と教会の屋根に大きな穴が空いて、瓦はすべて落ちていた。弟は激しく泣いたが、妹たちは放心状態であった。

[日見トンネルへの逃避行]

「火災が迫って来る、早く逃げなさい」近所の人たちが叫びながら新興善小学校の方へ逃げて行く。大急ぎで瓦礫の中から履物4足を見つけ出したので、母は私に「妹弟を連れて諏訪公園に行ってなさい」と言って先に逃がした。市役所から勝山小学校を過ぎるころ一緒に逃げていた近所の叔母さんたちが「大村町の避難壕は日見トンネルの途中だ」と言う。私たちは近所の人々について蛍茶屋から目見トンネル方向を目指した。当時周囲の山肌には幾つもの避難壕が掘られていて、町内ごとに場所が指定されていた。大村町は蛍茶屋から日見トンネルを目指す途中の壕であった。
母と姉は裏庭に吹き飛んでいた履物を見つけ、かなり遅れて脱出した。すでに向かいの家の2階から煙が吹き出していた。諏訪公園には既に多くの人々が非難していた。「虔坊!虔坊!」母は避難者の中を必死に私たちを捜したが、どこにも見つからない。諏訪公園からは焼け落ちていく教会が見え、母と姉は涙を流して眺めた。「近所の人と共に大村町指定の避難壕に行ったに違いない」。母と姉は諏訪公園を降りた。馬町交差点で父と出会った。全くの偶然である。夕方に父は三菱電機が準備した臨時の連絡船で出島の岸壁に戻り、新地から浜の町、寺町を通り蛍茶屋に向かった。馬町で母と姉に出会ったのである。避難壕で家族7人は無事合流した。

                              

[浜崎サク姉宅への避難]

父は「ここは風下になるので、夜のうちに燃え広がってくるかも知れない。反対側の風上に逃げよう。東山手町の浜崎サクさん宅に避難しよう」と言った。私は猛炎に包まれた火事現場の方に行くのは恐ろしく「日見トンネルを越えて、東望の浜の知人の海の家に行こう」と言った。父は「川「(眼鏡橋のかかっている川)の風頭側は大丈夫だ。私は出島からそこを通って来た」と言った。私達は父に付いて寺町から岡政百貨店、新地、郵便局本局を通り、活水女学校の切通しをまわり、オランダ坂を上って浜崎さん宅に着いた。夜8時半頃であった。浜崎さんはなけなしの米で(おにぎり)を作って下さり、姉に血に染まったブラウスを着替えなさいと、3枚のシャツを下さった。ありがたかった。

           

[みどり寮に避難]

2晩を浜崎さん宅の壕ですごし、3日目の朝、三菱電機に出勤した父が直ぐに戻ってきた。「被災した工員や家族のために避難寮を開設する、すぐそちらに行って寮長として受け入れ準備をしてくれ」と言う辞令をもらったのだ。その家は新地に在る2階建ての大きな商家で、永年使用されていなかった。私たちは浜崎さんにお礼を述べてその商家に行った。すでに数名の工員さんが来ており、取り敢えず一階部分を片付けて住みこんだ。次の日から家や家族を亡くした工員さんたちが次々と入寮してきた。やがて70数名となった。私たちは「みどり寮」で2年間生活した。

  

[教会の焼け跡]

みどり寮で一夜をすごした朝、父が「焼失した教会を見に行こう」と言った。姉と私が同行した。母は体調をこわし寝込んでいた。県庁に着くと見渡す限りの焼け野原だ。残っているのは石とコンクリ-トだけ。教会の敷地には余熱で入れなかった。道路から一面灰となった教会跡を眺めた。祭壇付近に洗礼盤の石がころがっていた。父はそれを見て号泣した。初めて父の涙を見た。お祈りのあと父は静かに歌いだした。知っている曲だったので私たちも唱和した
愛のみ誓いの、露たがわねば、み恵みの雨の、降るも間近し
み恵みの雨よ、枯れ野の草の、色なきこの身に、ふりかかりてよ
まさに私たちは色を失った枯野の草であり、み恵みの雨を切に求めた。

[鎮西学院跡での遺体捜査]

原爆から6日後(8月15日)、日本の無条件降伏で戦争が終わった。私たちは安心して野外作業が出来るので、爆心地での遺体捜査も本格化した。7万人が犠牲になったのである。(5年以内に原爆後遺症のため更に7万人が犠牲となり、長崎の犠牲者は計14万人)
瓦礫となった鎮西学院から「遺体捜査のために集合せよ」との連絡が入った。翌16日の午後、新地近くの先生(銀屋町教会の信者さん)が「みどり寮」に数名の学生を連れて誘いに来られた。初めて爆心地の光景を目にした私は言葉に出ないショックを受けた。まさに地獄である。身元不明の焼死体はまだ放置されていたし、馬や牛の黒こげ死体が数多くころがっていた。当時の運搬手段は馬車であった。校庭から遠くに崩れ落ちた浦上天主堂や長崎医大を見た。私は心の中で歌った。
み恵みの雨よ、枯れ野の草の、色なきこの身に、ふりかかりてよ。
崩壊したコンクリ-ト校舎は人の手で動かすのは不可能だった。私たちは校庭の隅にある木造2階建ての寄宿舎を捜査することにした。焼けた柱を一本ずつ抜いて、ようやく2人の遺体を見つけ出し、戸板に乗せてグランドに運んだ。その夜救援隊の手で荼毘に付された。後日この寄宿舎で22人が亡くなったことを知った。多くは五島や対馬などからの寄宿生であった。

[残留放射能]

遺体捜査に参加した私は土ぼこりと共に残留放射能を大量に吸い込んだ。政府も原子爆弾のことを「特殊爆弾が広島・長崎に落ちた」と報道していて、放射能のことは全く知らなかった。安心して土ぼこりを浴びたのである。

[県立瓊浦中学校への再入学]

終戦の翌年4月、私は県立瓊浦中学一年生に再入学した。この学校は鎮西中学校の左隣りに在り(現、長崎西高校)、犠牲者420名を出したのであるが、戦後中川町を少し山に入った某学校を午後だけ借りて再開した。私は残留放射能の影響で体調をこわし、鎮西中学の後半を休校した。みどり寮で寝込んでいる日が多く、母や工員さんのご家族も下痢で苦しむ人が増え、トイレのそばの部屋は満員で、まるで病室であった。私は庭の土蔵で寝ていたこともあった。そのようなことで翌年に再度の一年生となったのである。

[進駐軍が長崎へ]

9月に長崎にもアメリカ軍が進駐してきた。その数日前の8月26日にグラバ-さん(倉場富三郎)が南山手の移住先で自殺した。父が駆け付け葬儀を行った。立ち合ったのはわずか2名(グラバ-邸を接収していた三菱造船所の総務部長と隣の叔母さん)の寂しい葬儀であった。
進駐軍に備えて長崎県庁は大急ぎで通訳を集めた。父は教育官ウインフレッド・ニブロ師の専属通訳となった。司祭であったので教育顧問の肩書であった。民主主義教育、6・3・3制の教育改革、公立校の男女共学化など、次々に米軍は要求した。父はアメリカ軍と県教育部の間で多忙を極めた。もはや「みどり寮」の寮長をつとめる余裕はなかった。米軍教育官は接収している税関の一室に移転せよと言う。こうして私たち一家は2年間の「みどり寮」に別れを告げ、出島の税関に移ったのである。

[図書室での礼拝]

父は「日曜日の朝だけ税関の図書室を貸してくれ」と司令官に頼んだ。許可が出たので図書室での主日礼拝が再開された。開戦以来じつに6年半ぶりであった。携帯もスマホも無い時代、電柱も電話線も焼失し、連絡の手段がなかった。なんとかお知らせできた信者さん達は喜んで集まってくださった。ある主日、町島甚兵衛主教が小倉から来てくださった。堅信式が行われ、姉と私ともう一人の人が堅信の恵みにあずかった。私は図書室で受聖餐者となった。ここでの礼拝は1年半ほど続いた。

[牧師館兼仮り礼拝所]

西高校1年生の秋(昭和24年:1949年)、アメリカ聖公会の支援で大村町の換え地に平屋の家屋が完成し、私達は出島の税関から引っ越した。6畳と8畳の間のふすまを取り外して日曜学校や主日礼拝を行った。父は通訳を辞し長崎西高校の英語の教師となった。生活のためである。牧会に専念したかったが、戦後は皆が貧しく、食糧難で苦しかった。6年半の無給状態がつづくのは当時やむを得なかった。西高、活水等の高校生や、台湾・中国・朝鮮半島から引き上げた信者さん、図書室時代から礼拝を守っておられる信者さん。疎開先から戻られた方など次第に活気が出てきた。

[後藤かおるさんのこと]

浜口町に後藤義一郎:輝子夫妻が住んでおられた。息子さんが一人いて、父が紹介した熊本在住の関口かおるさんと婚約していた。その息子さんに召集令状がきたので、父は急遽、長崎聖三一教会で結婚式を行った。息子さんは出征し東南アジアで戦死した。かおるさんは浜口町で後藤さんのご両親と住まわれた。原爆当日(かおる)さんはたまたま熊本の実家に帰省していて難を逃れた。さて、父は進駐軍の通訳に駆り出されるまでの数週間「みどり寮」の世話をしながら被爆地を駆け回った。時々姉と私はお共した。電柱も電話線も焼失し、教会も焼失、連絡手段が断たれた当時、被災信徒の消息は足で得るしか手段がなかった。しかし一面の焼け野原、電車の停留所も無ければ目印にしていた煙草屋さんもお風呂屋さんもない。焼け跡を捜すのは至難であった。父は川やコンクリ-ト橋や崖を手掛かりに後藤さんの焼け跡を捜し出した。座敷跡から義一郎さんの遺体を見つけ出した。救援隊の手を借りて荼毘に付し、遺骨を箱に入れて「みどり寮」に持ち帰った。数日後(かおる)さんが大きなリュックに食糧を詰めて「みどり寮」に訪ねてきた。教会跡地の案内板を見て新地に来たのである。当時汽車の本数は極端に少なく、しかも超満員、乗客は窓から乗り降りした。乗車券が手に入らないのである。父は(かおる)さんに骨箱を渡した。(かおる)さんは激しく泣かれた。10年程前、熊本の山崎司祭さんから「かおるさんは健在である」との連絡を受けた。やがて分厚い手紙が届いた。裏面に(松波かおる)と記してあった。90才を過ぎた元気なお写真と長文の手紙が入っていた。数回の手紙のやり取りを楽しんだが、プッツリ返信が来なくなった。九州教区報の死亡者覧に(松波かおる)と記されていた。後藤家跡を捜索した後、浦上刑務所の塀の横で泰民江、フジ子さんを捜したが、手掛かりを得られなかった。

[宮本文甫さんのこと]

出島税関の一室で生活していた昭和23年の初頭、父は神代の避難先に宮本文甫さんを見舞った。原爆で富士夫人と5人の息女を亡くされ、ご本人も原爆症で病んでおられた。文甫さんは父に語った。「先生、イエスさまは十字架上で祈られましたね。父よ、彼らをお許しください。自分が何をしているのか知らないのです。ルカ:23:34)。この祈りは今の私の祈りです。文甫さんは原爆を投下した米兵のために祈った。数日後、文甫さんは家族を追って神さまのもとへ旅立たれた。

[立教大学入学と母の死]

昭和24年秋に大村町に平屋の家屋が完成してから、わたしは西高時代を日曜学校教師や礼拝のオルガニストとして頑張った。長崎YМCAにも通い、毎水曜日夜には飽ノ浦教会で行なわれていたボイヤ-先生(活水女学校の宣教師)のバイブルクラスにも皆出席した。西校3年生の秋、父と家族は大阪(母の故郷)に転任したので、私は浦上の信者さん宅に残り数ケ月を下宿し、翌春に東京の立教大学に進学した。ここで修士課程までの6年間神学を学んだ。チャペルのオ-ガニストも務めた。1年生を終える頃、下宿で夜、ヨハネの手紙
を読んでいたとき、父から至急電報が届いた。「ハハシス、スグカエレ」。母は3度目の原爆病を乗り越えられなかった。43才の生涯であった。葬儀を終え、悲しみと放心状態で東京に戻った私は、直ぐにチャペルに行き一人オルガンを弾き歌った。
愛のみ誓いの、露たがわねば、み恵みの雨の、降るも間近し
み恵みの雨よ、枯れ野の草の、色なきこの身に、ふりかかりてよ。

[追記:阪神大震災のこと]

西宮聖ペテロ教会の牧師と幼稚園々長を勤めていた1995年1月17日の午前5時、私はまだぐっすり寝ていたが、突然震度7の地震に襲われた。冷蔵庫、家具、食器棚、すべて倒れ、天上に穴が開き、瓦が落ちた。いつかの光景である。近くの体育館に避難したが、神戸方面から煙に追われ、毛布を被って逃げてくる人々に、蛍茶屋に逃げたあの日の私が重なって見えた。

            

(まつおか けんいち・大阪教区退職司祭)