2022年3月6日

「広い大地のちいさな花」

ルカによる福音書4章1-13節

40日間の荒野での試みの中で、サタンはイエスに向かって、「神の子なら、この石にパンになるよう命じたらどうだ」と語りかけました。イエスは「人はパンだけで生きるのではない」(口語では「人はパンのみにて生くるにあらず」)と答えました。これはどういうことでしょうか。

ギリシャ語では「いのち」を表す言葉が二つあります。一つは「ビオス」という言葉です。実際に日々の生活していくことに関わるもので、人間の生命もこの「ビオス」ですし、毎日の暮らし、日々の生活も「ビオス」です。英語のlifeに近いでしょうか。一定期間活動して、やがて活動を停止する、いわば「生物としての命」を指す言葉で「バイオロジー」(生物学)の語源になった言葉がこの「ビオス」です。

それに対して「いのち」を表すもう一つのギリシャ語は「ゾーエー」です。これは「永遠のいのち」「神の前に置かれたいのち」とでも言い得ましょうか、人間が自分たちの知識・理解できる範囲のいのちではなく、神によって支えられている命、あるいは、神と向き合っている命というような言い方ができるのかもしれません。要するに私たちから見れば、一定期間この世に存在してやがて消えて無くなってしまう、無になってしまう、そのような命――ビオス――ではなく、神さまの側から見ているいのちがあるんだ、ということを、このゾーエーという言葉が表しているのです。それは永遠のものが見ているいのちですから、たとえ有限なわたしたちの目に見えなくなっても、有限な私たちの知恵が理解できなくても、永遠で無限の神の側からは見えているし理解もされている、そういういのちがあるということなのです。このように、私たち人間に見えたり理解出来たりするいのちの在り方と、永遠なる神さまの側から見ていただいている永遠に基づけられたいのちがあるということを、ギリシア人たちは「ビオス」という言葉と「ゾーエー」という言葉で言い分けました。

わたしたちにとっては、みんな限りあるいのちを生きています。それは一定期間この世に存在し、活動し、やがて消滅するいのちです。大切だし、かけがえのないものだから、それを保たせるためにパンを食べて、つまり日々の生活の糧を得て少しでもこれを生き長らえさせようとします。それは当然大切なことであるには違いないのですが、イエスは、いのちはそれだけで終わるものではなく、神の側から見られているいのち(ゾーエー)があり、そのいのちを知って生きることが大事なのだと教えられました。

わたしたちが心疲れた時に、遠い山並みを眺めていると、なんだか心が落ち着き、穏やかになったという経験はないでしょうか。山はわたしが生まれる前からそこにあり、わたしが死んだ後もずっとそこにあります。わたしという存在は小さいけれども、その小さい自分が永遠に思えるような大きなものの前に置かれている、そのような安心感を感じて、心が落ち着くのだと思います。神の前に置かれたいのちも同じであり、これが「ゾーエー」のいのちです。

今日読んでいただいた旧約聖書(申命記26:5-11)には、モーセによって語られたイスラエルの歴史が書かれています。これまで自分たちがどういう民族であったか、そしてどのような旅をして、どのような歴史を生き抜いてここにいるか、ということがモーセによって語られています。けれども読んでいくと、モーセが語りたかったのは、それら一つ一つの出来事それ自体ではなかったのではないか、という気がします。そういう一つ一つのことがあった、こういう歴史を生き抜いてきた、でも、わたしが言いたいのは、それら一つ一つを通して、神がこのわたしたちを愛していてくださったのだということを、彼は書き残そうとしたのだと思います。ここを読むと確かにそのことが書かれていると分かります。

今日の聖書は、わたしたちの有限ないのちが、永遠なものによって見つめられているということ、悠久の御手によって支えられ、導かれているということを伝えているのではないでしょうか。わたしという小さい花が、神という雄大な大地に咲いている、そのことを忘れてはいけないよ、とイエス・キリストは教えてくださっているのです。

司祭 義平 雅夫