今日指定の福音書は、ルカ版「イエスの姿が変わる(“変容貌”)」の個所です。
この個所に至るまでの9章を見ますと、1節からは「12人の派遣」があります。イエス様から力を受けた弟子が福音を告げ知らせ、病気を癒すのです。7節からは、そうした活動の様子を聞いた「戸惑うヘロデ」の話が出てきます。ヘロデ(アンティパス)は、イエス様を敬いながらも、兄弟の妻ヘロデヤを奪ったことでバプテスマのヨハネから批判を受け、妻ヘロデヤからの恨みを買ったヨハネを殺害する結果となって自責の念に駆られていたが故に、噂に聞く“イエスはバプテスマのヨハネの再来だ”との話に、ヘロデは“イエスに会ってみたいと思った”というのです。10節からは、イエス様から派遣されて出かけた12弟子が戻って来て、イエス様に報告をします。次は、イエス様は彼らを連れてベトサイダに退かれますが、後を追ってきた人たちに神の国について語り、病人を癒し、更に「5千人に食べ物を与え」られます。こういう経緯を経て、ペトロがイエス様のことを「神からのメシアです」と信仰を言い表すのでした。その応答に応えられるかのように、イエス様はご自分の「死と復活」を予告されました。
以上のような出来事の後、8日ほど経って、ペトロ、ヨハネ、ヤコブを連れて山へ行かれた。そして祈っておられるうちに、顔の様子が変わり、服は真っ白に輝きます。イエス様の傍らには”二人の人がイエスと共にいて語り合っていた“と聖書は記します。面白いのは、弟子たちが大事な場面で、よく居眠りをしていることを知ります。何だか自分の姿を見るようでホッとします。その時の彼らには、それが幻なのか現実かが分からなかったのではないでしょうか。それが、きっと後になって意味を知ったのでしょう。二人の人とはモーセとエリヤとここで記されています。旧約聖書のことを、別名で”律法と預言者”と言います。この律法と預言者の代表が、モーセとエリヤです。弟子たちが夢うつつのようになり、二人が雲に包まれていく中に声が聞こえました。それは、「これは私の愛する子、選ばれた者、これに聞け」(マタイ17章,マルコ9章)という言葉でした。これらは福音書の中間に記されています。
因みに、共観福音書(マタイ、マルコ、ルカ)には、イエス様がバプテスマのヨハネから洗礼を受けられた時、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。」(マタイ3:17、マルコ1:11、ルカ3:22)が記されています。
そしてイエス様の十字架刑の時に、百人隊長の言葉「本当に、この人は正しい人だった」(ルカ3:22)を通してイエス様の何者であるかが3回に亘って示されています(マタイ27:54、マルコ15:39)。
弟子たちは大事な場面にイエス様とともにいるのに気づかない。実は、私たちも大事な時に、その意味合いを知らずにいることがあるもので、弟子たちがいてくれて慰められる思いがします。
私は小学校3年から日曜学校に通い始め、ずっと続き、内容の程は別にして、大学生になった時には日曜学校の先生に任じられ、お歳暮とお中元の時期に、デパートのアルバイトで休む以外には日曜日には礼拝を欠席することはありませんでした。そんなことの延長線上にあったのでしょうか、就職を考えなければならない頃になって、牧師さんから神学校へ進まないかとお誘いを受けました。何か認められたような気分になって、その気になりました。そして家族に相談しましたら、待っていたのは猛反対でした。不甲斐なく諦め、就職先を探しました。卒業前の春、これも何かの記念にと、栃木県の小山市にありました聖ヨハネ修士会・小山修道院に1週間ほど滞在させて戴いたことがありました。前もって連絡しておいた日に到着したのがお昼少し過ぎでした。挨拶を交わし、家屋の中に入り、個室に通されましたが、「昼食は済ませましたか?」などの何のお尋ねもありません。立教大学の学生もいましたが、何も案内もなし。「関東の人って、不親切やな~!(誤解!)」。これが第一印象でした。ところが後日知ったのは、その日は「大斎始日」でした。断食日です。夕食は出るのやろか?と心配していましたら幸いにも出ました。恥ずかしい話です。
それから一年後、再決断して神学校に進みました。更に2年後、その時の不親切な立教の学生が新入生で入ってきました。
神学校卒業後、苦労もしましたが、そうしたことを通して、人間関係のことを学ぶ、1週間缶詰状態のワークショップに参加して、私にとっては”生まれ変わり“の体験をしました。一人っ子で育ち、いつも良い子で生きてきた自分に気づかされ、それ以後改めて、”イエス様の十字架を担う”意味合いが判り始めました。
あまり”行“をしないキリスト教ですが、それでも、例えば何らかの“好きもの断ち”なども「それをしてみながら、”イエス様に聴く“姿勢を確認しながら、この大斎節を過ごしたいと思います。
今日の特祷の一部を唱えます。
「どうかわたしたちが信仰によって神のみ顔を仰ぎ見、自分の十字架を負う力を強められ、栄光から栄光へと主と同じ姿に変えられますように。主イエス・キリストによってお願いいたします。アーメン
司祭 齊藤 壹