2022年2月20日

「敵を愛せよ」

ルカによる福音書6章27-38節

本日指定の福音書は、ルカ6章27-38です。マタイ版の並行個所(マタイ5章)は「山上の説教(以前は“垂訓”と呼ばれた)」と呼ばれていますが、今日の個所は、ルカ版「平地の説教」と呼ばれている個所に続くところです。イエス様の教えの真骨頂と言ってよい個所です。何らかの宗教的素養に触れたことがない人にとっては「ありえない!」と反発が出そうな個所でもあります。この世的価値観とは正反対の在り方が示されています。

私は小学校3年生の時から日曜学校に通い始めるうちに、こうした個所を目にしました。
なかなか難しいな!そんな風にはできないけれど、イエス様って、すごいな!と思いました。非キリスト教徒の家に生まれ育った者としては、「う~ん!」と唸(うな)る個所です。でも、これらの言葉に触れたということは、凄いことだと思います。

一人っ子として生まれ育った私ですが、幸いにもいじめられたことはなく、敗戦後の、子供が群れて遊ぶ時代に、“やんちゃな(いたずらっ子)子ども”は一杯いましたが、近所の子どもたちの中で楽しく過ごしました。そんな中で、一つだけ思い出にのこる嫌な話があります。
中学生の頃だったと思います。夏休みのある日、歩いて10分もかからない近くの海へ、近所に住む年下の子たちを連れて遊びに行った時、地元の子どもではない、少し年上の数人の、不良っぽいに少年に「帽子の徽章をよこせ!」と因縁をつけられ、拒絶した時に殴られる事件に遭ったことがありました。不当な暴力が悔しく、その時思ったのは、家に帰って、大工の祖父が持っている多種多様な刃物の中から1本を持って来て、「そいつらを脅してやろうか」ということでした。幸いにも、理性が働いてストップしましたが、下手をすれば脅すつもりが、相手に怪我をさせたり、命に関わることになりかねなかった事態でもありました。理性が働いたのは、教会に行っていたからだろうと思いました。“敵を赦せ”とは難しいことだなとも思いました。その時の屈辱感が、後に大学生になってから合気道を始める動機の一つでもありました。人に暴力などを振るうことなどは思いも寄りませんが、護身術を身に着け、自分も守るし、人助けもできると思いました。それはそれで良かったですし、人助けもできました。

イエス様の教えは、すぐには受け止められないことがたくさんあります。そして、長い人生を過ごしていく中で、本当にそうだなと思えてくるものなのではないかと考えています。じっくりと、よく味わいたいものです。
そうしたことを教えてくれる聖書の話の一つが、本日指定の旧約聖書「ヨセフ物語」(創世記45:3-11,21-28)と言えます。

神様から選ばれたアブラハム、その後継者イサク、更にヤコブと繋がっていきます。ヤコブも数奇な運命を辿ります。ヤコブは自分からそうしたわけではありませんでしたが、様々な経緯があって、二人の妻を持ち、妻の召使2人をも第2夫人とし、4人の女性によって12人の子どもを持つことになりました。皮肉なことに、最愛のラケルには子どもが与えられず、ほかの女性には次々と子どもが生まれます。そして、年月を経て、やっとラケルにヨセフという子供が与えられました。ヤコブが年をとってから生まれた故に、ヨセフは可愛がられて育つ、傍(はた)から見れば「ヨセフはよかったね~」となりますが、「それが悪かった」という結果になります。ヨセフは異母兄弟からの嫉妬を買い、ヨセフは兄たちからイシュマエル人に奴隷に売り飛ばされ、更にエジプトのファラオ王の高官のところの奴隷に売られます。(創世記37章以下をお読み下さい。)

横道にそれますが、私の青年時代まで、中田ダイマル、ラケットという漫才師がいまして、「良かったな~」と言うと、「いやいや、それが悪かったんや」と話が続き、「それは悪かったな~」というと、また逆転して「それが良かったんや」とコロコロと変わってゆく。まさに中国の故事にある「人間万事塞翁が馬」の話(インターネットででもお調べ下さい)が展開するのですが、ヨセフ物語はまさにそれに似ています。

今回の福音書「平地の説教」で述べられるイエス様の教えも、いささかそれに似て、目先のことだけ考えていると到底理解できない“真の幸い”というものが示されているように思えてなりません。
イエス様の眼差しを通して見えてくる真の幸いを、私たちはしっかり見据えながら人生を歩んでいきたいと思います。

司祭 齊藤 壹