弟子たちが、はじめてイエスに出会う話です。マタイ、マルコにもこのエピソードは出てきますが、その出会いはとてもシンプルで、ただイエスの呼びかけに従って、彼らは網を捨てて従ったと書かれているだけです。
それに対して今日読まれたルカによる福音書は、その情景描写がもっと詳細です。それは、イエスがガリラヤ湖にやってこられて、舟が二艘あるうちの一艘――それがシモンの舟だった――に乗り込まれ、シモンがその指示通りに網を打つと一晩中獲れなかった魚が網いっぱいにかかった。そしてペテロは慌ててひざまずいて、「自分は罪深い者なので離れてください」と叫んだというお話です。
これと同じモチーフがもう一度出てくるのがヨハネによる福音書の最後(21章)です。ヨハネは、この弟子たちとイエスとのいちばん始めの出会いの思い出へと私たちを回帰させた後で、物語を書き終えます。それは、十字架によってイエスを失い、失望と挫折の中でガリラヤに帰った弟子たちが、そこでもう一度イエスの愛に出会うという感動のシーンです。
そこは、私たちも長い信仰生活の中で、「立ち戻れ」と言われている原点のようにも思える場所で、今日はそんなことを考えながら福音書を味わいたいと思います。
まずイエスはガリラヤ湖で、二艘あった舟のうちの一艘であるシモンの持ち船に乗りました。これはサラリと書き流しているだけですが大事なエピソードだと思います。私たちからみたら「たまたま」二艘あるうちの一つに乗られたというだけでしかありません。「たまたま近くにあった方の舟に乗られた」だけ、何人かいた漁師の中で、「たまたま目が合ったシモンの舟に乗られた」だけなのかもしれません。取り立てて理由はないのです。
これは私たちの信仰の始まりも似ているかもしれません。イエスとの出会いは「たまたま」であるといえるかもしれません。たまたま家がクリスチャンホームだった(そうじゃなかったらクリスチャンになっていなかった…)、たまたま桃山に入学した(そうじゃなかったら教会には行ってなかった…)、たまたま人生で教会に行くような出来事が人生に降りかかってきた(そういう出来事がなかったらキリスト教にふれることもなかった…)。そういう人は多いのではないでしょうか。つまり、そのような「たまたま」の出来事がなければ、自分からは選び取っていなかっただろうというようなところで、私たちはイエスと出会い、神と出会っているのではないかと思うのです。
しかし、人間から見れば「たまたま」という表現でしか言い表せないようなことが、神さまの側から見たら、それは「選んだ」ということではないか。それが今日の福音書のお話だと思います。もしも神との出会いが、教会との出会いが「たまたま」そうだったというだけなら、それは、「私でなくてもよかった」ということになります。つまり、この人生を生きるのは、別に私でなくてよかったということになるのです。私の人生は、私以外の誰が生きてもいい人生だった。私の人生は、私でなくてもよかった。「たまたま」とは、そういくことなのです。私たちはそんな人生を生きているのでしょうか?
たまたまに映ることが、神さまの側からは「あなたを選んだ」ということ。それが、二艘あるうちの一艘をイエスは選んで乗られたという出来事なのです。
ただし、「選ばれた」というのは他人との比較ではありません。他の人に比べて自分が優れていたから、立派だったから、選ばれたのではありません。これについては、ヨハネの最後のところでも、他の弟子のことを気にするペテロに向かって、「私が来るときまで彼が生きていることを私が望んだとしても、あなたに何のかかわりがあるか。あなたは私に従いなさい」とはっきりと言い切られたイエスの言葉が明確に語っています。
つまり、選ばれた理由がないから、私たちは「たまたま」とか「偶然」と言うのです。エルサレム入場の時に選ばれたのがなぜ子ロバだったのかということに理由が一切ないことも同じことです。それを人間は「たまたま」というのですが、神さまの側からはこれを「選んで」おられるのであり、それを「摂理」というのです。私たちには理由はわからないことが、他の誰でもなく、私でなければならない形でこれが起こったと受け止める時、それは「摂理」と呼ばれるようになるのです。そして摂理の答えは神さまのみ心の中に大切に守られているのです。
シモン・ペトロの凄いところは、このことを非常に深くわかっていたというところです。もちろん自覚的にそれを理解していたというのではないかもしれませんが、彼は「理由がないのに選ばれている」という真理を無意識の中に悟りました。だからイエスの足元にひれ伏して「主よ、私から離れてください。私は罪深い者なのです!」と叫んだのです。絶対的なものの前に置かれた自分の小ささ、汚れを瞬時に悟って、ペテロは選ばれる資格のない自分が選ばれていることを告白するのです。これがシモン・ペテロのすごいところです。彼は人間的な意味ではよく失敗をし、早とちりをし、自分の弱さのゆえに慟哭した人でしたが、そういう自分をイエスが選んでくださったということへの驚きを誰よりも悟った人ではなかったかと思います。
私たちも「理由がなく生まれた」「理由がなくここにいる」「理由がなく、心に神を思える人間である」と思いますが、これは「たまたま」でしょうか。「たまたま」なら、「偶然」そうだったというだけなら、誰にも感謝する必要もありません。だって、あなたでなくてもよかったのですから。
けれどももし「選ばれた」のなら、私たちは「功なきわれを血をもて贖い、イエス招きたもう われみもとにゆく」(聖歌446)と歌わねばなりません。
私たちは、「理由がない」ということの中で、神に出会うのです。理由がない場所に神の摂理があるからです。
二艘あるうちの一艘である私の舟を、イエスは選んで乗ってくださった。それだけで、私たちの人生の航海は天の港へ還ることが約束されているのです。
司祭 義平 雅夫