「皆はイエスをほめ、その口から出る恵み深い言葉に驚いて言った。『この人はヨセフの子ではないか。』」ルカ4:22
シューベルトの「アヴェ・マリア」の歌詞をお聴きください。
アヴェマリア 慈悲深き乙女よ
おお 聞き給え 乙女の祈り
すさんだ者にも汝は耳を傾け
絶望の底からも救い給う
汝の慈悲の下で安らかに眠らん
世間から見捨てられ罵られようとも
おお 聞き給え 乙女の祈り
おお 母よ聞き給え 懇願する子らを
先日来のオミクロン株の感染拡大や、世界各地の紛争、痛ましい殺人事件の報道が続き、私は、何か心が渇くと言いますか、心が沈んでしまいそうな気分になりました。そんな時、偶然ヴェルディのアヴェ・マリアを聞き、神さま、主イエスが、すべてを受けとめてくださっている感じがして、とても癒される経験を致しました。音楽はわたしたちの心をいやす力をもっています。
今から30年も前、私はイスラエルの聖ジョージ神学校で3か月学ぶ機会を与えられ、バイブルランド、聖書の地を巡る機会を与えられました。エルサレム周辺はもちろんオアシスもあるのですが、荒れ野が多く、印象としては白い世界。厳しく、砂漠の神さま、裁きの神ということを強く感じました。そしてガリラヤ湖周辺を訪れた時、私は大変うれしい気持ちになりました。豊かな水、緑があり、原色の美しい花が咲いておりました。夕暮れになると、鳥たちが湖の上を。お家へ帰るのでしょうか、群れをなして飛んでいく風景を見、日本の風景に似ているなと、懐かしく思いました。主イエスの心の中には、荒れ野の情景と、お育ちになったガリラヤ地方の豊かな水と緑、美しい草花の情景が混在しておられるのかと考えました。主イエスの優しさ、愛、平和への思いなどを思うと、ガリラヤ地方の方が優勢かなどと考えました。
日本に戻りまして、カトリックの神父で遠藤周作の友人でもあった井上洋治先生の著書と出会いました。井上神父は主イエスの愛は「悲愛」だと言われ、次のように主イエスのことを書いておられます。
「祈りができないのならそれでよい。悲愛(アガペー)の心がないのならそれでよい。泥まみれの生活から抜け出られないのならそれでもよい。ただ手を合わせて私の方を向きなさい。私はアッパからいただいた私のすべてをこめて、私の方からあなたの方に飛び込んで行ってあげる―それがイエスの思いでした。」
(井上洋治著作選集1 日キ教団出版局 「第9章 悲愛の突入」より)
私はというのは「イエス」のこと、アッパ(アラム語でお父ちゃん)はイエスの神さまことです。井上神父は主イエスの神は、裁きの神ではない。荒れ野の神ではない。ヨハネ8:15「あなたがたは肉に従って裁くが、わたしはだれをもさばかない。」神は誰も裁かない。誰も裁くことのない神を、井上神父は生涯語り続けます。ついには、主イエスは、マタイ5:43「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかしわたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」自らを苦しめる者たちのためにも祈れということ。誰かを苦しめることで、自分の立場を確かにするような、この世の有り様に変化がもたらされるように祈れというのです。
何かが実現されると言うよりも、すべてを神の手にゆだねることを指しています。怒りの対象になる人を嫌悪し、怒り、憎み、時には抹殺してしまおう、そういう人間の悪弊からわたしたちを遠ざけるように主イエスは導かれます。
私たちは嫌悪、怒り、憎悪を手放し、それを神の前に差し出す、そしてその先のことは神に任せよ、それが主イエスの悲愛だと井上神父は言い続けられました。宗教の世界だけではありませんが、争いが絶えませんし、時には戦争すらなります。
本日の福音書で、恵み深い主イエスのことばに驚きつつ、貧しい大工ヨセフの子だといぶかり、見下げる主イエスの故郷の人々が登場します。主イエスが、神さまは異国人のやもめやシリア人アナアマンを愛し、癒されたと聞き、自分たちには神の愛、癒しはないと受け取り、人々が激怒し、主イエスと亡き者にしようとした群衆の姿が描かれています。
主イエスは、この時、憎しみの嵐の中を、何もなかったかのようにすり抜けて去って行かれます。しかし、イエスの本心はどんなに悲しかったでしょうか。
主イエスはこうした悲しい体験、心痛む体験をされながら、しかし神さまは,裁く神ではなく、相分かれたものを共振させ、共鳴させるところへ導かれる方である、恵み深い方であると確信していかれたのであります。相分かれたものが、神さまにすべてをゆだねると言う境地に導かれて、和解、シャロームへと導かれる神さまを示そうとされました。
神さまはすべての人、そして一人一人の悲しみや苦しみを受けとめ、いやし、愛される優しい神さま、それが主イエスの神さまでありました。神の子主イエスも、神さまに倣って歩まれましたので、裁きの方ではなく、やさしい方でした。
主イエスの神さまは裁きの神さまではありません。そして主イエスは優しい方です。
皆さまはどのような神さま、主イエスを信じておられますか。
父と子と聖霊の御名によって アーメン
主教 磯 晴久