2022年1月2日

「どしゃぶりの中で、私は何に包まれて生きるのか」

本日は三一教会の方に「誕生感謝の祈り」がありまして、アンデレ教会のものとしてもご一緒させいただくことができ、とても嬉しく思いました。まだ赤ちゃんですので、自分がここで祝福を受けたということは覚えていないかもしれませんが、ご両親に抱かれて祭壇の前に進み出る幼子を見ながら、人は、自分で気づくと気づかざるとにかかわらず、自分の知らない多くの恵みの中で生まれ育てられているのだということに、自分自身のことも振り返りつつ、思いを新たにしたことでした。

たしか聖アウグスティヌスが、幼児洗礼をめぐって「親の信仰の中で幼子に与えられる恵み」というような意味のことを言っていたように思います。一人の親の信仰の中で幼子が神の恵みの中に置かれているということは、本人が恵みを自覚しているかどうかに拘わらない神の愛の真実であると言われているようです。そして大人になった私たち一人ひとりもそのような多くの人の愛と配慮を、自分がそれを自覚する前から与えられて存在していることを今日あらためて思い起こしたいと思います。

昔、病院での研修(臨床牧会訓練)をさせていただいた時、小児病棟に4歳くらいの男の子が点滴台をガラガラと押しながら病棟の廊下を歩いている姿を見かけました。点滴の長いチューブが手や体に絡まっているのですが、本人はいたって気にしていない様子で、お母さんに抱きあげられる時には、器用に、腕や体に巻き付いた点滴チューブを、体をひねりながら慣れた手つきでうまい具合にほどいて、点滴につながれているかどうかなど自分にはまったく気にしていないような顔つきで、お母さんの両手に抱きしめてもらっていたのでした。お母さんの腕の中で、この子にとっては、自分が病気であるかどうか、将来どうなっていくのか、そんなことは問題ではなく、ただ母親に抱っこしてもらっているという事実だけが大きな意味を持っている、そんなふうに思えたのでした。

今日の聖書は、イエスが、両親に連れられて、ベツレヘムからエジプトへ、そしてイスラエルからガリラヤへと追っ手から逃れるように旅した様子が描かれていました。父ヨセフが、夢のお告げに従って、妻マリアと幼子を連れてエジプトに逃げ、ヘロデが死ぬと再びイスラエルの地に赴いたというのです。しかしヘロデの息子アルケラオが再びユダヤを支配していると聞くと、また夢のお告げによってガリラヤに移動し、ナザレの町に住んだと言われています。このように、ヨセフは、夢に従ってマリアと幼子イエスを連れてあちらこちらに移り住まねばなりませんでした。

しかしおそらくこの時の幼子イエスは、それが自分に降りかかる苦難の人生の一端である、などと考えてはいなかったでしょう。病棟の廊下でお母さんに抱きしめられていたあの子のように、ただ両親に手を引かれ、両親と共に、両親の愛情の温かみの中で、両親に手を握ってもらって自分も一緒に旅したというそのことが幼子にとって重要なことだったのであって、その外側に迫る危機などは、幼子であったイエスにとっては問題ではなかったのではないかと思うのです。

私たちも人生の中でたいへん不安な、不条理な出来事に遭遇することがあります。できればそういう苦しみからは遠ざかりたい、そういうことに出くわさないで生きていきたいと願うことは当然です。しかしその願いとともに、もしそういう場面であっても、もっとも大切なことは、その苦しい道を、私たちは天の父に手を引かれながら、その背に背負われながら、歩いているのだということを忘れずにいられるようにいたいと思うのです。

司祭 義平雅夫