2015年11月1日

「幸いの基準」

ルカによる福音書6章20-26節

この数年、10月の末になりますと“ハロウィーン”のことがテレビでよく報道されています。日本ではクリスマスとかクリスマス・イヴのことはもう人々に良く知られるものになりました。そこに“バレンタインデー”も加わってきましたが、近年の“ハロウィーン”は、それを凌ぐほどで、お商売をしている人々には有り難いことでしょう。

ではその行事の由来を認識している人はどれほどでしょうか。"ハロー(Hollow)"は、古英語で"聖人"とか"聖職者"の意味で“ウィーン(Ween)"も古英語で"前夜祭(イヴ)"のことです。つまり、私たちが今日守っている「諸聖徒日」の前夜祭という意味です。クリスマス・イヴがクリスマスの前夜ということは知られるようになっても"ハロウィーン(前夜祭)"の本番はまだ知られていないという現象は、日本的と言えば日本的かも知れません。私はキリスト教徒ではない人に説明する時「『諸聖徒日』は“キリスト教版のお盆”です」と言うことにしています。

その日に聖餐式の福音書で読まれる一つの個所が、今日のルカによる福音書6章20-26節です。これはイエス様の最も有名な説教の一つでマタイによる福音書にも類似の説教が載せられており、マタイ版では山の上で語られているので、ご年配の方々には「山上の垂訓」として知られていました(マタイ5章3節以下)。少し抽象的な表現で「心の貧しい人々は、幸いである」となっています。ユダヤ人向けに書かれているマタイ福音書は「モーセの十戒」がシナイ山で神様からモーセに授けられたことを意識して、山上でイエス様が語られた構成になっています。マタイより前に書かれたルカ福音書は、マタイよりはもっとストレートに「貧しい人々は、幸いである」となっています。

初めてこのルカ版が示すイエス様の説教をご覧になった時、どんな感想を持たれましたでしょうか。"貧しい、泣いている、飢えている、憎まれる人々は幸い"なんて、なかなか受け入れられない教えではないでしょうか。反対に、"富んでいる、満腹している、笑っている、褒められている人々は不幸……"なんて、その状態こそ幸せなのではないかと考えたくなります。そういう意味からすれば、イエス様は私たちの価値観に問いかけてこられている非常に挑戦的な教えです。私は小学校3年生の時から教会学校へ通って、何度もこの個所に出くわしましたが、果たしてどれぐらい理解していたか、危ういものです。しかし、何とか教会から離れずに信仰生活を続けてきまして、ここの個所はやはり意味深いものがあるな、とつくづく感じるようになっています。

今日は、先に亡くなった家族を覚えて、神様の元で安らかに憩われることを祈る日ですが、皆様にとって思い浮かんでいる人はそれぞれ様々なことでしょう。順番で行けば親とか兄姉となりますが、子どもに先立たれた方のいらっしゃることでしょう。今、こうして生を与えられて存在する私たちが、より良く生きることが大きな務めではないかと思います。

時々話しますが、私は父を知らずに育ち、母とその両親の元で大きくなりました。祖父は大工の棟梁で、戦前・戦中は羽振り良く生活していたようですが、戦後は逼塞(ひっそく)状態でした。里帰り出産で戻って私を産んだ母は、母なりの事情があって夫の元に戻らなかったわけです。

祖父は技術的には優れた大工で、阪神淡路大震災の真っただ中でも、少なくとも戦後建てた家は倒壊していませんでした。出入りする男の人たちも多種多様でした。祖父は男っぷりの良い江戸っ子で、人情熱い人でしたが、同時にギャンブル好きで、祖母を泣かせていました。祖母に促されてたまに私を遊びに連れていく先は、競馬場、競艇場、競輪場でした。お酒が入ると時によってDV状態になる。家庭環境からすると良い状態ではありません。

不思議なことですが、今、神様に導かれて牧師をするようになって読むルカの「平地の説教」は、心に良く響きます。そういう家庭に育っていたから、イエス様の言葉が福音となったのだと思います。そして、不思議なことに、母が洗礼を受け、やがて祖父母も洗礼に与りました。私にとっては、そんなことを思い返しながら、今日の諸聖徒日の礼拝を捧げています(家族で属することになった芦屋の教会の人たちはこういう話をご存じありません。穏やかになっていた時代の祖父しかご存じありませんから。神様は不思議なことをなさるものです)。