2015年7月5日

「主によらなければ」

マルコによる福音書6章1-6節

本日指定の旧約聖書日課はエゼキエル書2章1-7節です。エゼキエルが神様から預言者としての召し出しを受けた時、「私はあなたを、恥知らずな人々(同胞イスラエルの人々)のもとに遣わす」と告げられました。「彼らが聞いても、拒んでも、語り続けよ」というものでした。何だか今の日本に当てはめてみたら、福島原発事故が収束していないのに再稼働しようとか、外国に輸出するとか言っている、恥知らずな人々に、宗教者は発言せよと言われているような感じがします。

使徒書は、コリントの信徒への手紙Ⅱ12章2-10節ですが、パウロは先祖伝来の宗教(ユダヤ教)からすれば、けしからぬ輩(やから)――キリスト教徒――を迫害することに燃えていたそれが強い光に打たれ、劇的な回心をします(使徒言行録9章)。それ以来、幾度もの迫害にもめげずに福音宣教に励むパウロでしたが、持病があつた。発作を伴うものであったようで、彼はその弱点を取り去って欲しいと祈った。しかし、神様からの返答は「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」というものでした。弱さを負いながら、そこに神様の力が働くことを私たちも受けとめて歩みたいものです。

そして、今日の福音書はマルコ6章1-6節です。イエス様が故郷ナザレにお帰りになり、会堂で教え始められると、人々は驚くのです。「この人は、このようなことをどこから得たのだろう。(中略)この人は大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、の兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか」と。ここを見ると、もう父親ヨセフは亡くなり、その後を継いでイエス様は大工をなさっていたことが窺えます。“人々はイエスにつまずいた”とありますが、私たち多くは、自分の頭にインプットされた固定観念で人を見てしまう様をここに発見します。そこにはもはやドラマは起きないのです。

さて先週、私は京都教区・大阪教区の合同教役者会(主教・司祭・執事・伝道師)が小浜市で行われ、参加してきました。若狭湾には14基の原子力発電所が集中しています(敦賀2、美浜3、大飯4、高浜4、もんじゅ1)。そこから大阪圏へ電力が供給されています。今回、クルージングの機会があり、陸地はもとより海上からも原発を見てきました。小浜市にある名刹・真言宗の明通寺を訪ね、僧侶の小嶌哲演師からお話を聴く機会がありました。もう40年ほど前から反原発運動をなさっておられる方です。今年の4月14日に大飯原発3、4号機、高浜原発3、4号機運転差止仮処分判決が出ましたが、小嶌哲演師はその訴訟の原告のお一人でした。その反原発運動で、周辺は原発が乱立する中、小浜市には原発はありません。

原発に反対しながらも、住民は生活のために関連企業で働かざるを得ない現実と、反対運動で声を上げ続けることの難しさ、若い人たちへ運動を継承することの難しさを語られていました。そういう意味では、消費地(大阪)の皆さんからも声を挙げていただくことを強く希望されていました。先般、国会議事堂ヘドローンを飛ばした青年も、実は小浜市民だったのだそうです。よく勉強もしている人ですが、反原発運動が連携できていなかったことに忸怩たる思いをしていると語られました。一旦原発に事故が起きれば、その被害を受ける250Km圏に、琵琶湖は勿論、大阪圏も含まれていることを忘れてはなりません。

宗教者としては、最も被害を受ける人たちに危険を押し付け、自分達は少しは軽くて済む場所で安穏にしていることに、懺悔の思いを持つ視点を忘れないでほしいとも言われていました。裁判でも仏教者の視点から証言台にも立たれたのです。因みに、仏陀はインドに存在する諸部族の中で、釈迦族(後日に知りましたが、実はシャカではなくシャキャ族)は最も厳しい迫害を受けていた部族で、そこから仏陀の教えが始まったのだそうです。小嶌哲演師は「イエス様とその弟子たちも、ローマ帝国の圧倒的力と迫害の中で生まれてきた宗教のように受け止めています」と語られていました。

今回の福音書を通して、私たちは、人々の無理解の中に置かれたイエス様をよく心に留め、その教えと歩みをしつかり心に留めて、現実の中に生かし、神の国が来ますように祈りつつ歩みたいと思います。