今年は教会暦B年で、復活節はヨハネ福音書が用いられてきました。イエス様最後の説教に続いて、今回の個所は「イエスの祈り」と題されているところです。ここは「大祭司の祈り」とも呼ばれたりします。大祭司は神様と民衆の間に立つ人で、“取りなし”の役割を負ってくれる存在です。イエス様は弟子たちが自分を見ることができなくなる事態を前にして、弟子たちのために父なる神様に祈られたのでした。
イエス様の祈りを耳にした弟子たちが、後に情報を持ち寄ってこういう祈りをまとめて残したということは考えられますが、それ以上に、弟子ヨハネとその後継者たちがまとめたイエス様の捉え方・つまり神学がここに集約されているということになるでしょう。そしてそれは何も難しいことではなく、初代教会と、そこに繋がる私たちへの強いメッセージとして伝わってくるものでもあるのです。
「聖なる父よ(中略)わたしたちのように、彼らも一つとなるためです」の“わたしたち"は父なる神とイエス様とが1つという意味合いのあることばです。そこから弁護者・真理の霊(ヨハネ14:16、17)、つまり聖霊が送られるということに繋がっていきます。14節「わたし(イエス)は彼らに御言葉を伝えましたが、世は彼らを憎みました」という部分を見ますと、弟子がイエス様といた時には、彼らは迫害を受けていません。迫害はイエス様を見ることができなくなってから起こってきました。
このヨハネ福音書が執筆された紀元90年以降には、70年のエルサレム陥落以来、ローマ帝国からの迫害に加えて、ユダヤ教会側からの迫害が加えられることになっていた。その時代を背景にして、イエス様が十字架刑以前に、後に迫害を受ける弟子たちのために祈っていて下さったことを著者ヨハネは「イエスの祈り」として残していると思えます。
この世に生きているが、この世に属してはいない。それが弟子であり、また教会ということになります。いずれにしても、弟子とそれに連なる教会、私たちは、イエス様からずつと祈られている……何と有り難いことでしょう。19節「彼らのために、わたしは自分自身をささげます。彼らも、真理によってささげられた者となるためです」。実にイエス様は十字架にご自身をささげられましたが、その弟子であるわたしたちも、ささげていくことが促されています。
これらの言葉を読みます時、私はマザー・テレサを思い出します。インド・カルカッタ(コルコタ)の貧しい人々の中で暮らすマザーは、「私の支えは、故国(ポーランド)で私のためにずっと祈り続けている友の存在です」と言っておられました。その友は、難病のためにベッドから出られない人でした。その人の仕事は祈ることでした。マザーは、その彼女の祈りが自分の支えだと言っておられたのです。
この私でさえ、私のことを祈っていてくださる方によって今を生きることが出来ていると感じています。今度は私が他の人々のために祈る者になる。それが大切なことでしょう。今日は、私たちのために祈って下さったイエス様のことをしっかり心に留め、感謝し、イエス様のように祈る者になりたいと思います。祈りつつ、この世界を神様の御心に適うものとしていく。それが私たちの務めなのです。