本日・復活前主日は福音書がとても長いものになっています。15章は、いよいよ十字架刑に定められていく場面です。総督ピラトによる尋問がありますが、ピラトはむしろイエスを助けてやりたいと思っていたことが感じられます。支配者であるローマ帝国側からすれば、ユダヤ人が最も大切にしている過越祭(かつて奴隷とされていたエジプトから、モーセに導かれて脱出できたことを祝う民族解放記念祭)に、ユダヤ人たちに恩赦を与えて、反逆を軽減していたのです。ピラトはイエスを解放してやろうとしましたが、ユダヤ人の中で権力を握る神殿関係者たちの策謀によって、バラバという人物の名前が挙げられ、それ以上イエスに恩典を与えると暴動を起こされかねない状況の中で、ピラトは保身に走り、この2千年、ニケヤ信経・使徒信経に悪名を残すことになりました。
イエス様は侮辱されながら十字架刑にされていきます。自分で十字架を担ぎ、よろける中で、キレネ人シモンが、代わりに十字架を担がされます。十字架の上では、「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ(わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか/イエス様の日常語アラム語)」と叫んで後、息を引き取られます。人性をとられたイエス様の最後の苦しみの叫びとも重なりますが、同時にこれは詩編22編1節でもあり、その最後は勝利となる歌でもあることも踏まえておく必要もあるでしょう。そして、神殿の垂れ幕が真二つに裂け、百人隊長が「本当に、この人は神の子だった」という個所が、実はマルコ福音書のクライマックスでもあるのです。
これらの個所に、バラバやキレネ人シモンが登場しておりますが、短いエピソードのみです。一人の人の処刑に関係した彼らはその後どうなったかは記されていませんが、少なくともシモンはその家族の名前がローマ書16:13に出ており、初期の教会では知られた人物になっていたことがうかがえます。
今回の個所は比較的よく読まれますが、今回より前の14章32節から72節までも加えて朗読する選択肢もあります。ここにもまた、そっと登場している人物がいます。43節以下は表題に『裏切られ、逮捕される』となっています。ユダは裏切り、弟子の一人は大祭司の手下の耳を切り落としたりします(ルカ福音書ではその人を癒されたことが記されます)。マルコ14:51には『一人の若者、逃げる』という個所があります。こんなことをわざわざ書く必要がないような記事なのですが、実はこの若者こそ、著者マルコと見られています。“亜麻布”とは上等の布で、関西風に言うなら「上等の寝巻を着た、どこぞのええとこのぼんが、イエス様の様子を見にきていて『一体お前は何者や?』と捕まえられそうになって、掴まれた寝巻を脱ぎ捨てて逃げた」ということです。使徒言行録12:12を見ますと「こう分かるとペトロは、マルコと呼ばれていたヨハネの母マリアの家に行った。そこには、大勢の人が集まって祈っていた」とあり、マルコは大きな家の子だった。そして、イエス様逮捕の目撃者だったわけです。使徒言行録13:13では、バルナバとパウロのコンビでの伝道旅行に同行していたようで、辛い旅の途中でエルサレムに帰ってしまっています。15:37では、包容力のあるバルナバが、マルコ・ヨハネを第2回目の伝道旅行に再度同行しようと提案したら、パウロが「あんな弱虫は同行させる価値がない!」と反論して、コンビが解消したことが書かれています。しかし、そのパウロが書いた「コロサイの信徒への手紙」3:10には「わたしと一緒に捕らわれの身となっているアリスタルコが、そしてバルナバのいとこマルコが、あなたがたによろしくと言っています」と記し、テモテへの手紙Ⅱ4:11でも「マルコを連れて来てください。彼はわたしの務めをよく助けてくれるからです。」と記しています。
イエス様逮捕をそっと見に行った“ええとこのぼん、弱虫のマルコ“が、後に福音書を書くに至る。イエス様の存在は何と大きなものでしょう。十字架の死と復活はまことに真実と言わざるを得ない思いがいたします。神様は小さく弱い者をも、生かし用いて下さるのです。