今回の聖書個所は「『ぶどう園と農夫』のたとえ」と題されていいます。2千年前のこのお話は、「広大なぶどう園」を所有する主人と、そこに雇われている小作人と呼ばれる人たちがいた時代が舞台です。この話を読みながら、以下のようなことを思い出しました。
大阪教区には小川博司司祭という方がおられました。2001年以前に教会生活を始められた方ならご存知でしょう。親切で、大食漢で、元気者でしたが、大変残念なことに、2002年1月12日に54歳で静脈瘤破裂で急逝されました。彼は私が神学校を卒業して聖贖主教会に赴任しました時、そこの信徒としておりました。大阪聖パウロ教会におられた浦地洪一司祭が、聖贖主教会へ異動となった時、浦地司祭を慕って、他の青年たちと共に聖贖主教会へ移ってきた一人でした。数年後に浦地司祭が更に尼崎聖ステパノ教会に転任となり、その後2年半、聖贖主教会には定住教役者がおらず、信徒は徐々に減り、私の赴任とともに戻ってきた青年の一人が彼でした。
彼はやがて聖職志願をし、志願が許されるまでの1年半ほどを、なかなかインテリの叔父さんが経営されていた新聞販売店で働いておりました。塚本にお母さん(安子さん)がお住まいで、ある時住所録を片手にお訪ねすると、そこはアパートの2階で、ノックに応えて出てこられたのは老婦人でした。彼のお祖母さんかと思いましたら、後で知らされたのは身寄りのないお知り合いの方で、親しくなられて一緒に住まわれていたのです。なかなか人には出来ないことをなさる肝の据わった御婦人でした。既に日本キリスト教団で入信され、後にご子息・博司司祭の聖公会への転会・堅信を機に、ご自身も転会して来られたのです。教会で時に騒がしくする子どもを叱る大人たちに、「昔から言うとるでしょうが、“子ども叱るな来た道じゃ、年寄り叱るな行く道じゃ”と。大人がちょっと我慢してやらにゃ子どもは育たんですよ」と仰って、説得力のあるものでした。
安子さんは岡山のご出身で、結婚されたご主人は洋服の仕立屋さんを営んでおられましたが、中年で亡くなられ、安子さんは保険の外交員をなさって博司さんと、弟さんを育てられたのです。その実家は岡山で、地主の家で育たれましたが、敗戦後の「農地解放」で逼塞状態を経験されたのですが、戦後20年以上も経つのに、秋になると、「自分の親たちが小作人さんたちにいつも心をかけていたからでしょう、今になっても年に1回、秋になると小作人さんたちからお米が送られてくるのです」と嬉しそうに話しておられました。
えらく長い話になってしまいましたが、イエス様が話される“ぶどう園の主人と農夫たち”のことは、小川さんがお話しくださったことを挙げると、その関係がどういうものであったかが少し分かる気がするのです。
ぶどう園の“主人”で譬えられているのは神様で、その配慮を理解せず、差し出される関わりを拒絶した心ない農夫たち、つまり預言者たちを拒絶したユダヤ人の先祖たちがいたこと、そして一人息子をさえ、ぶどう園から放り出して殺す愚かさを提示し、主人・神様からの配慮と、良い関係の中に生きる存在として、救いは非ユダヤ人(異邦人)へと移ると言われたのです。古い契約の民・ユダヤ人から、新しい契約の民としてキリスト教会が建てられた。そのことの自覚を私たちは持ちたいと思います。
先般もイスラエルによるガザ空爆が激しく行われ、心が痛みました。1948年のイスラエル建国は、そこに2千年も住み続けてきたユダヤ人も含めた様々な人々を、武力によってユダヤ人単一の国を造ろうとしたものでした。私たちはそんなこともよく理解し、真の平和がそこに実現していく力になっていくこと、それも現代のキリスト教会と信徒に負わされている課題とも言えます。
本日の特祷をもう一度いたします。
「主よ、主の家族である教会を、絶えることのない恵みのうちにお守りください。どうか主の守りによってすべての災いを免れ、良い行いをもって熱心に主につかえ、み名の栄光を現すことが出来ますように。主イエス・キリストによってお願いいたします。アーメン」