2014年9月7日

「見張り人」

マタイによる福音書18章15-20節
(旧約聖書・エゼキエル書33:1-11、使徒書・ローマの信徒への手紙12:9-21)

旧約聖書は、神から選ばれた者は、過ちを犯す人々(国々)に対して、“見張り人”とされていることを自覚すること、そして神の求められていることは“罪人の回復”であることが述べられています。(日本聖公会の総会が、原発に反対の声明を出したり、ヘイトクライム<憎悪犯罪-人種、民族、宗教、性的指向などに係る特定の属性を有する個人や集団に対する偏見や憎悪が元で引き起こされる暴行等の犯罪行為>に批判の声明を出したことは、生命の尊厳を大切にする意味合いからすれば、“見張り人”の務めを果たしていると言えるでしょう) 

使徒書は「兄弟愛をもって互いに愛し、・・怠らず励み、・・苦難を耐え忍び、たゆまず祈り・・」と勧めます。この聖句、実は私の執事按手式で戴いた聖書に小池主教が揮毫してくださり、励まされる言葉でした。その後にある「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」も牧師をしていく上での基本となる言葉で、牧師のみならず、信仰者の指針とも言うべき言葉です。更に、「自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。『復讐はわたしのすること、わたしが復讐する』・・」というのも、非常に印象的な言葉です。昔、『復讐するは我にあり』という映画があって、緒方拳という俳優が出ていましたが、ここでの“我”は“神”のことを言っているのであって、聖書の言葉を知らなければ誤解しかねないものです。

今回の福音書は私達が生きている中で起こってくるトラブルに対応する姿勢はどうあるべきかを示唆してくれる言葉です。まず、二人だけのところで忠告せよ!聞き入れたら兄弟を得たことになる。これはエゼキエル書が示す大切なポイント、“罪人の回復”という視点です。

しかし実際、二人だけのところで忠告することは本当に勇気がいるものです。以前少し話しましたが、私の最初の赴任地(教会と福祉施設)で数年を経る中で、一部指導員が児童に対して体罰を行っていることが耳に入り、手順を踏もうと当の指導員に声を掛けました。しかし、そんな簡単には応じない。はぐらかす。下手に深入りすれば、私の耳に入れた当人や職員が非常な不利益をこうむる事態になる。職員が私のようなことをすればたちまちいられなくなる。もう既に何人もの人が次々辞めていました。若い職員の入れ替わりは、人件費が安くあがり、施設運営には有利でもあるのです。

犠牲者は子供です。それで手順は踏んで次のステップに進む。学生運動で苦労した経験のある友人信徒の意見も聞きました。有力新聞の論説委員にも知り合いがあり、相談しました。「記者としては喉から手が出るほどの案件だけど、私も昔、前の理事長には世話にもなった。まずは理事さんに相談をして善処しなさい」と諭されました。弁護士さんにも相談し、その勧めを受けて当人たちから聞き取りをし、丁寧に記録していきました。しかし、理事会では私を支援してくださる理事が少数派で、抜本的な解決には至りませんでした。遂に大阪弁護士会に「人権侵害救済申立」を提出しました。当番弁護士は「こんなこと本当にあるのですか?」と信じてくれませんでした。そこで新聞記者に相談し、取り上げてくれることになり、「大きな事件がなければ明日掲載する」というところまでいきました。その前日、ヘリコプターが施設の上も何回も旋回しているのです。その理由を知っているのは新聞社と私だけ。もう心臓が飛び出そうな緊張感でした。しかし、何だったか思い出せないのですが、事件があって掲載は没となりました。

私はその後、いささか鬱(うつ)っぽい月日を過ごしました。どれくらい経った頃だったでしょうか、施設内で中学2年生数名が、小学校に入ったばかりの女児を殺すという「幼児リンチ死事件」が発生し、想像もしなかった出来事がきっかけになって、私が提出していた前述の「申立書」がやっと生かされ、弁護士会から改善勧告が出され、大阪市も動き、首脳陣が総入れ替えになり、大改革されました。私にはその幼児の死とイエス様の十字架が重なります。

今日の特祷「主よ、どうか主の民に世と肉と悪魔との誘惑に打ち勝つ恵みを与え、清い心と思いをもって、唯一の神に従うことができますように」と祈りつつ歩みたいと思います。