本日は教会暦で「復活後第7主日/昇天後主日」と申します。先週29日(木)が昇天日でした。イエス様は十字架の死の後、三日目に復活され、以来40日に亘ってご自分を知る者(弟子)たちに姿を顕され、そして天に昇られた。それから10日の後、聖霊を降された。来週の日曜日が「聖霊降臨日」で、全世界の教会の創立記念日として祝われるわけです。
ヨハネ福音書には最後の晩餐で聖餐を定められた記述は記されておらず、その代わりに洗足(主イエスが弟子たちの足を洗われた)の記述があります(13章)。そして、14章、15章、16章にかけて弟子たちへの最後の説教が独白のようなかたちで記されています。そして今回の17章は「イエスの祈り」が記されます。この部分は「大祭司の祈り」とも称される個所です。大祭司、すなわち神様と人々の間に立ち、執りなす役割ですが、“今や人々の罪を負い、自らが十字架に犠牲になっていかれる、これこそ真の大祭司である”と伝えたい著者ヨハネの意図が出ています。
1節から「父よ、時が来ました。・・」から始まります。これと対になっている個所がヨハネ福音書2章での「カナの婚礼」の個所に出てきています。主イエス最初の奇跡として知られる話です。ガリラヤのカナで婚礼があり、イエスの母・マリアがそこにおり、主イエスと弟子たちも招かれていた。親戚の婚礼だったのでしょうか、マリアは裏方で手伝っていたのでしょう、めでたい婚礼だったのに、裏方では不測の事態が起きていた。ブドウ酒が足りなくなるという不名誉なことになっていた。マリアは息子・イエスなら何とかしてくれるだろうと、「ブドウ酒がなくなりました」と告げたのです。主イエスからの答えは「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだきていません。」というものでした。ひどくつれない返事です。それでも母マリアは「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください。」と持ち場に戻られています。圧倒的な信頼です。そして結果としては水をブドウ酒に変えられ、その結婚式を祝福する結果となったことが記されます。
主イエスは、しばしば奇跡を起こされた際、そのことが知れることを望まれませんでした。奇跡は神の深い憐みの実現として行われており、奇跡のみが主イエスを深く知る手段となることを決して望まれてはいなかったのです。そういう点から考えると、弟子たちと過ごされた3年間、後にそのことは弟子たちからすると凝縮した3年間となり、それぞれの生涯をかけて主イエスを証しするものとなっていきました。
福音書を読んでいきますと、主イエスにとっては深刻な事態の中で語り祈られている時、弟子たちはしばしば眠気に襲われています。その大切さがわからない。そういう意味合いからすると、ヨハネ福音書記者は、弟子たちが断片的に記憶していた主イエスの祈りや言葉を集めて、このようなかたちで「イエスの祈り」として17章に書き残した集大成と言えるでしょう。そして「イエスの祈り」は直弟子のみならず、後の弟子、そして今生きる私たちのための祈りともなっていると言えるでしょう。
「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。」とありますが、ご自分を深く知ってほしいとの主イエスの願いを、私たちはしっかりと受け止められるものになりたいと思います。
新約聖書のギリシャ語には“時”を表す言葉として“オーラ”(英語で言えばアワーとなるでしょう)“クロノス”(英語ではクロック)、そして“カイロス”の3つが使われています。カイロスは“神の時”などと訳されます。今回の個所では“オーラ”が使われていますが、主イエスは人間が理解できる時を超えて、神の時に変えていかれた。私たちは今、聖書を読むことを通してそれを知ります。私たちは聖書を通して、自分が生きる今の時を、神の時に変えていただこうとの思いをしっかり持ちたいと思います。
昇天という出来事は、主イエスを今までと同じ姿では見ることが出来なくなったということですが、弟子たちは「父の約束されたもの(聖霊)が送られる」ことを信じ、「大喜びでエルサレムに帰り、・・神をほめたたえていた。」(ルカ24:49)ように、私たちも神様を信じ、歩んでいきたいと思います。