2014年4月6日

「それぞれの成長・成熟」

ヨハネによる福音書11章17-44節

本日の福音書は、イエスが親しくされていたベタニアの姉妹マルタとマリアの兄弟・ラザロが病気で、姉妹は人をやってイエスを呼ぼうとしましたが、亡くなってしまった。イエスがそこに到着されたのは四日も経っていた。そのようなラザロを復活させられ奇跡物語です。

ご自身の十字架での死と復活以前に、こうして人を甦らせた、この方はどなたかに注目させる物語です。

マルタとマリアに関する話はルカ12章38節以下がよく知られています。そこでは、イエスがおいでになった時、先生をお迎えして、そのおもてなしのために甲斐甲斐しく動くマルタにとって、先生の傍に座って話に聞き入る妹マリアに不満を感じ、「・・何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください」と苦情を言ったところ、「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない」と言われた。そういう話が記されています。そんなことで、このマリアの態度こそ女性の鏡のように教会で説かれてきました。“しっかり者の姉と動かない妹” “マルタは世話焼きで、肝心なことが抜けている”そんなイメージが出来てしまっていたとも言えます。それがキリスト教会2千年のほとんどを男性指導者が説いてきたわけです。

昔、洗礼を受ける決心をなさった女性の洗礼名を一緒に考えていまして、マルタを勧めましたら、「嫌です」と一蹴されたことがありました。もっとも、少々太り気味の方だったので“語呂”がよけい嫌だったのかも知れません。

そのようなイメージを払拭してくれたのは、20世紀の後半になってから登場し出した女性の聖書学者たちの台頭でした。エリザベス・モルトマン・ヴェンデルという人が執筆した『聖書の中の女性たち』という本の中で、“自立した女性のモデル”をこのマルタに発見しているのです。ヨハネ11章27節では、「あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております」と言っている。従来、ペテロこそが「あなたは生ける神の子メシアです」、つまり信仰告白をした人物と見てきていましたが、それに負けず劣らず、今回の個所27節で女性がきちんと確信をついた信仰告白をしているのです。死後「もう四日も経っています」と冷静です。

以前私がチャプレンでおりましたM大学で、「僕は女子学生を教えるの嫌いや!ちょっと厳しく注意するとすぐ泣く」と言われる教員がおられました。その先生とは逆に、泣かない女性がいると「泣きもしない。(可愛げのない女)」という言い方をする男性もいる。マルタはその類ということになります。その点、マリアは“可愛い女性“ということになるのでしょうか。勝手なものです。

エリザベス・モルトマンは、マリアに関して、彼女はいつも姉の後ろで行動し、動けない女性だったのではないかと見ます。ところが、マリアは今回に続くヨハネ福音書12章1節以下で、イエス様の最期を感じ取り、大胆な行動に出ます。イエスがおられる食事の席へ入っていき、非常に高価なナルドの香油をイエスの足に塗り、自分の髪の毛で拭ったのでした。自らが選びとって行動する姿・成長がそこにあります。イエスと接して、人はそれぞれ自分なりの成長をする。エリザベス・モルトマンはそこに注目させてくれました。

イエスに出会う時、人はそれぞれ違う仕方で成長し、成熟してゆく。私たちもイエスに深く出あって、成長・成熟していきたいものです。