2005年9月25日 聖霊降臨後第19主日(特定21)聖餐式
旧約聖書:エゼキエル書18:1-4,25-32
使徒書:フィリピの信徒への手紙2:1-13
福音書:マタイによる福音書21:28-32
徹底した自己奉献
諺は、時として人を非常に傷つけるものです。「親の因果が子にたたり」というのは、その最たるものでしょう。親を非難され、そして自分の境遇について運命を宣告される。言われる方にとってはとても酷い言葉ではないでしょうか。今日の旧約聖書でありますエゼキエル書には、「先祖が酢いぶどうを食べれば/子孫の歯が浮く」という、まさに同じ意味の諺が示されており、それに対して預言者エゼキエルは厳しく批判しているのです。エゼキエルという預言者は、いわゆるバビロン捕囚期に活動した預言者で、希望の預言者と呼ばれています。イスラエル民族は、紀元前6世紀にバビロニアという強大な帝国に国を滅ぼされ、指導者をはじめとする数千、数万の人々がバビロニア帝国の首都バビロンに連行され、そこに住まわされます。今でいえば、強制収容所で生活せざるをえなかったわけです。難民キャンプと言っても良いでしょうか。結局、その期間はおよそ50年に及びますが、その間にイスラエルの人々は大変貴重な時間を過ごすわけです。そのような過酷なイスラエル民族の運命に対して、それは先祖の罪のたたりだとして、宿命論的に受け止め、いわば諦めることによって運命に耐えようとする考え方が一般的でした。それは、この世的な原因・結果にもとづく、社会的な常識として人びとの考えを支配していました。エゼキエルはその常識をきっぱりと拒絶します。イエス様も、病気が本人あるいは両親の罪の結果だとするイエス様の時代の原因・結果論を厳しく批判し、「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。」(ヨハネ9:3)と言い切られます。それは言わば、この世的な価値観に対する裁きでもありました。預言者エゼキエルは、いや神ご自身は、「イスラエルの家よ。正しくないのはお前たちの道ではないのか」と問いかけ、挑戦します。そして、常識的な宿命論を打ち破って、神の前において一人ひとりの人間が真剣に応答すること、つまり悔い改めを呼びかけるます。悔い改めて、神に立ち帰った者は「生きる」、それに対して神から離れる者は「死ぬのだ」というのです。
先週の日曜日の午後、私は司祭按手前の準備の黙想会に箕面の修道院に行って参りました。当教会からは、柳原信さんもご一緒に行ってくださいました。黙想会というのは3回ほどに分けた講義といいますか問題提起があって、それについてそれぞれが1時間ほど黙想する、という繰り返しが行われます。今回は東京にあります聖公会神学院の関正勝校長による黙想指導が行われ、按手を受ける4人と、聖職養成委員、聖職試験委員が参加いたしました。関校長はその中で、聖職者だけでなく、すべてのキリスト者が、この世的な価値観と常識、とくにますます自己中心的になり、効率と結果だけを数量的に追い求めるようになっている現代社会の科学的といったも良い価値観に抗うことが求められている、と強調されました。現代社会では科学的な、因果関係にもとづく、結果だけを評価する価値観がはびこっています。ですから、お金や地位のある人、つまり何かを持っていたり何かができる人が大切にされます。そして、お金や地位の面で成功した人たちがもてはやされるのです。しかし、ここには大きな危険性があります。つまり、地位やお金を崇拝し、神以外のものを崇める危険性、そして自分たちの経験にもとづく知識、価値観を絶対視し、自分が神になっていく危険性があるのです。関先生が一例を挙げておられたのは、中学生たちがホームレスの人たちを襲撃する事件がよく起こるが、そこには現代の価値観が凝縮されて現れているということです。親たちは彼らに、「勉強しなさい。そうしなければ、あんな人になりますよ。」と言い聞かせています。つまり、努力しなければ、社会から脱落し、幸せになれない、ということを繰り返し、繰り返し子どもたちの頭の中に刷り込んでいるわけです。いくら努力しても、結局仕事を得られなかった、企業が倒産することもある、という悲しい人間社会の現実はそこにはなく、そこから発せられる振り絞るような思いも、その親や子どもたちの耳には届かないのです。今こそ、「わたしをおいてほかに神があってはならない。」という十戒の第一戒が重要になっているときはない。私たち人間は、自分たちが神の恵みによって存在しているということを忘れてはならない、ということを関先生は私たちに教えてくださいました。
さて、本日の使徒書は、有名な「キリスト賛歌」と呼ばれるフィリピの信徒への手紙の2章冒頭部分であります。神と等しい身分であった子なる神、つまりイエス・キリストが己を空しくして、人間になられた、とこの聖書の言葉は語っています。これは元々、初代教会の礼拝で歌われていた讃美歌の歌詞のようで、パウロがそれを当時の信仰告白として採り入れたものだと言われています。神さまは私たちに対する愛からこの人間の世の中と関わることを決断され、自らを私たちに与えてくださった。それが、御子イエス・キリストの誕生と十字架上の死という出来事が意味することだと言うのです。後の方に、「このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。」というように、神はキリストに報いられたということが書かれていますが、それは初めから目的に入っていたわけではありません。それは神の祝福による結果なのであって、イエス様はそのような結果を期待されていたわけではありません。何の約束もなく、ただ神に対する全面的な信頼から、徹底的にご自分を献げられたわけであります。私たちの現実をありのままに直視し、ありのままに愛し、徹底して私たちと共に歩まれ、人間を貶め、自ら神に取って代わろうとする人びとの傲慢という罪と対決されたゆえに、十字架にかけられてしまったのがイエス様でした。
それは、ある意味では、この世の常識から外れた、それに抗う出来事だったのです。マリア様が受胎告知を受けたときの夫ヨセフの反応について、マタイによる福音書1章19節には「夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。」と記されています。ここでいう「正しさ」とは一体なんでしょうか。それはかなりのくせ者であります。私たちがこの世で慣れ親しんでいる「正しさ」と変わりはありません。この世的な常識であります。もしもこの常識が勝利していたら、クリスマスの出来事はなかったのです。イエス様もなく、キリスト教もなかったかもしれないのです。
私たちは、このイエス様の生き方、徹底的に神さまのみ旨に従い、神さまの価値観を生きたイエス様の生き方に従うことを呼びかけられています。よく「召命」という言葉が使われますが、神さまから召しを受けるということは、イエス様の生き方、この自己奉献に私たちも与るということではないかと思います。そして、それはいわゆる聖職者だけに求められているのではなく、すべてのキリスト者に対する呼びかけなのです。私たちはみな使徒職、つまりイエス様の弟子としての職務をもっています。一昨日、皆様のお祈りのもとで私は司祭に按手されました。この「按手」ということは、イエス様の弟子から、何世代にもわたる何人もの主教の手を経て、次々と継承されてきた使徒としての職務であるということを表しています。ですから、ある意味で聖職者は特別の責任を、皆様と、そして神に対して負っている訳ですが、みなさんもまた、教会という共同体の一員として、イエス様の弟子であることを呼びかけられている、教会とはそういう意味で「聖徒」の集まりであるということができるでしょう。新約聖書にあるコロサイの信徒への手紙第3章には、こんなことが記されています。「あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい。これらすべてに加えて、愛を身に着けなさい。愛は、すべてを完成させるきずなです。また、キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。この平和にあずからせるために、あなたがたは招かれて一つの体とされたのです。」これが、「聖なる者」つまり「聖徒」であるということの意味です。当時のギリシア世界でも、富める者と貧しい者、成功者と失敗者の著しい対照がありました。憐れみや柔和、寛容とは対立する競争の思想が世の中にはびこっていました。コロサイの信徒への手紙は、そのような世の中で、そこに埋没するのではなく、イエス・キリストに従って、愛と平和のうちに生きることを呼びかけているのです。今日でも、私たちは結果だけを見て人間を評価し、力ある者、富める者を崇めるこの世の中にあって、神さまの価値観、イエス様の自己奉献の生き方を示さなければならないのではないでしょうか。それは、決して難しいことではありません。私たち一人ひとりが神さまによって造られ、無限の価値を与えられていることを受け入れ、感謝するだけでよいのです。それは、子どものように無邪気で、素朴な心を持つということかもしれません。
しかし、それはある意味ではとても難しいことかも知れません。自分が着ているこの世の価値観を一枚一枚脱ぎ捨てることが必要だからです。そして、それは実際の生き方の中で行う他ないからです。今日の福音書でありますマタイ福音書21章28節以下には、ぶどう園の農場主の2人の息子たちの話が出ています。「ぶどう園に行きなさい」という父の言葉に、兄の方は初めは「いやです」と答えますが、やがて、思い返してぶどう園に行って働きます。弟の方は、「はい、承知しました」と口では言っておきながら、結局でかけなかった、という話です。イエス様は、初めは「いやです」と言っていたが、実際行動では父の言うことに従った兄の方を褒めておられるのです。もちろん、不言実行よりも、有言実行、つまり「はい」と言って、実際にもその通りするというのが一番偉いのでしょうが、そうなると、あまり正しすぎて、偉すぎて、かえって傲慢になるという別の問題が出てきそうな気がします。もちろんこれはたとえ話ですから、イエス様は弟の例によって、ファリサイ派やその他のユダヤ教指導者たちを指し、兄の方で徴税人やその他の罪人のことを示しておられます。つまり、「自分は正しい」と言っている人が、実際には、神の呼びかけに耳を塞ぎ、かえって自分の罪を自覚している人びとの方が、神さまの呼びかけに応えたわけです。ここでもイエス様は、人間社会での「正しさ」が実は問題であるということをよくご存じなのです。
私たちは、神さまの呼びかけに対して、どう答えるでしょうか。「はい、分かりました」と言って、実はこの世界の価値観に従う生き方にのめり込んでいくのでしょうか。それとも、ただ黙々と、神さまに感謝し、イエス様のみ跡に従う道を歩むのでしょうか。