三位一体主日・聖霊降臨後第1主日
第1日課:創世記1:1−2:3
第2日課:マタイによる福音書28:16−20
苦悩する神
今日は教会の暦では、「三位一体主日」という特別の日に当たります。父なる神(つまり万物を創造された神)と子なる神(イエス・キリスト)、聖霊なる神が実は一体である、一つであるという教えを記念するという主日です。そして聖霊降臨後第1主日でもあります。昨年の11月末に始まった降臨節、これはイエス様の降誕を待ち望むクリスマス前の期節ですが、ここからキリスト教の一年の暦は始まります。祭色は紫でした。そして、降誕節を迎え、顕現後の主日という緑の祭色を使う期節となり、大斎節(この祭色は紫です)、そしてイエス様の受難を記念する聖週を経て、復活節となります。そして復活節が終わると、聖霊降臨日、つまり聖霊が下り、この世における救いの新しい段階、教会の時代が始まる「教会の誕生日」がまいります。そして今日は三位一体主日という特別の日ですから白を使いますが、来主日からは、聖霊降臨後の節といって、次の降臨節までズーッとつづく長い長い緑の期節が始まるのです。この間は、祈祷書の「特定××」という特祷や日課を用います。クリスマスとイースターという2つの大きな中心をめぐって教会の暦は動いているのですが、その間の一般の主日で一番長く続くのがこの「聖霊降臨後の節」ということになります。
さて「三位一体」というと、最近では政府の方針やら、受験の参考書やらで、三つのものが一つのセットになっているという意味で、やたらとよく使われます。しかしこれはもともとキリスト教の教えを表現した言葉で、古代教会ではこの教えをめぐって教会や国家が分裂し、血まで流されたのです。しかしその後、教派を問わず、キリスト教はみなこの教えを大切なものとして守っています。逆に「異端」と呼ばれるグループ、たとえば「エホバの証人」などは、この教えを退けています。
では、父と子と聖霊が一体である、というのはどういうことでしょうか。今日の第一日課として読まれた創世記1章にありますように、すべてのものは神の言葉によって創造されました。そして、そのときにも「神の霊」、つまり聖霊は神と共におられました。もちろん、まだイエス様のことは書かれていませんが、有名なヨハネ福音書の最初の部分では、「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。」と書かれています。ここで「言」とはイエス・キリストのことですから、イエス様もやはりこの天地創造に立ち会っておられたのかも知れません。そして、私たち人間も、エデンの園において神さまと共にありました。すべてが神のもとで憩っていたのです。
しかし、私たち人間は罪を犯し、神から離れようとします。聖書によりますと、まずアダムとエバが神さまのように賢くなろうとして禁じられていた木の実を食べてしまうという罪を犯します。そしてそれはやがて、二人の子供カインとアベルの兄弟殺しという恐ろしい結果に発展します。創世記はこのように人間の罪を描いていますが、それは、こうした個々の行為、強盗や殺人にとどまらず、私たち人間が神から離れ、自分さえよければよいという自分中心主義、神をも人間をも畏れない利己主義に陥っている状態を示しています。その自分中心主義の延長線上には、人殺しを平気でする人間の姿、自分の国の利益や価値観のために平然と戦争をする国々の姿が見えます。今の世の中を見ますと、まさに、私たち人間が罪深い存在であることがはっきりと分かります。だれもが、自分のことにのみ心を奪われ、甚だしい場合には、他人を傷つけたり、他国を攻撃したりして平気な顔をしている。それが、私たち人間の姿です。わたしの姿です。
その私たちを救うために、神さまからこの地上に送られてきたのが御子イエス様でした。「救う」といってもそれは生やさしいことではありません。まず、イエス様ご自身が、最も低い身分の家に生まれ、この世のあらゆる苦労と苦しみを味わわれなければなりませんでした。ヘブライの信徒への手紙4;15にはイエス様が「わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。」と書かれていますが、まさに、ローマ帝国に支配されたユダヤ民族の貧しい働き手、大工として、この世の苦しみをなめ尽くしたからこそ、人間の苦しみと痛みに共感できる方、それがイエス様なのです。そして、この方は、最後には、私たち人間の罪のゆえに、歴史上最も残酷な刑罰と言われる十字架刑にかけられたのです。そして、十字架上で流されたその血によって、私たちの罪は赦された、私たちには希望が与えられた、というのが私たちの信仰です。
その十字架上でイエス様は、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですが」と叫ばれたと聖書には記されています。しかし、そのとき、父なる神は決してイエス様をお見捨てにはならず、かえってイエス様と一つになって、この痛みを耐えておられたのではないかと思うのです。自分の子を十字架上に送ったのであれば、どんな父親が(母親であればなおのこと)その苦しみを平然と見ておられるでしょうか。父なる神も子なる神も一体であります。神さまは、自分が創造した人間の手によって、自分がこの世に使わした一人子が殺されるというあまりにも残酷な現実を、苦しみの内にこらえておられたのではないかと思います。イエス様が病に苦しむ人を見て、「深く憐れまれた」と新約聖書に記されていますが、この「深く憐れむ」というのはもともと「はらわたがよじれる」という意味のギリシア語です。「内臓がよじれる、千切れる」ほど、相手に共感し、共苦する、ということでしょう。ところが、旧約聖書のエレミヤ書には神がイスラエル民族を憐れむというときに、全く同じ表現が使われていると言われます。「はらわたが痛む」という表現です。31章20節を見ますと「エフライムはわたしのかけがえのない息子/喜びを与えてくれる子ではないか。彼を退けるたびに/わたしは更に、彼を深く心に留める。彼のゆえに、胸は高鳴り/わたしは彼を憐れまずにはいられないと/主は言われる。」とありますが、現在の訳ではよく分からないのですが、文語訳では「ここをもてわがはらわた彼のために痛む」と訳されています。神さまは、イエス様と同様、はらわたがちぎれるほどの苦しみを受けらたということなのです。そしてその苦しみ、痛みによって人間の苦しみ痛みを癒してくださる。人間のどうしようもない罪を包み込み、赦してくださったのだと言わざるをえません。キリスト教の神は、高いところから超然と人間を見下ろしている冷たい神ではありません。人間とともに苦しみ、そしてその苦しみの中で人間を救ってくださる神です。三位一体という教えは、そのような神の深い愛を示していると私は思います。そして、そのような神さま、イエス様との出会いを可能にしてくれるのが聖霊の働きであろうと思います。
この聖霊に導かれて、私たちは、日々、神さまの苦しむ姿に出会うことができます。十字架を担いだイエス様に出会うことができます。インドのカルカッタ(現在はもとのインドの言葉に忠実にコルカタと言いますが)で、路上で死にそうになっている人を連れてきて、最期をみとるための施設「死を待つ人々の家」を開設したあのマザーテレサは、徹頭徹尾、貧しく見捨てられた人びとに奉仕された方ですが、こんな言葉を残しています。「貧しい人にふれる時、わたしたちは、実際にキリストの身体にふれているのです。わたしたちが、食べ物をあげるのは、着物を着せるのは、住まいをあげるのは、飢えて、裸の、そして家なしのキリストに、なのです。」と言っています。マザーテレサが、死に直面している貧しい人々、世の中から見捨てられた人々に手を差し伸べるのは、イエス様が、助けなさいと命じておられるから、その命令に従わなければならないから、ではありません。そうではなく、その苦しんでいる人がイエス様なのです。苦悩するイエス様のお姿を、相手の中に見出すからなのです。マタイ福音書の中で、イエス様ご自身が、「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」(25:40)と語っておられます。
カルカッタまで行かなくても、私たちは受難のイエス様、苦難の神さまに出会うことができます。失業し、社会の片隅に追いやられた人、差別され苦しんでいる人、病気や怪我で苦しんでいる人、さまざまな人々に私たちは日々出会います。そのようなときに、単に義務感からではなく、その相手の方の中に苦しむイエス様、神様のお姿を見るという感性、信仰の目が私たちには必要なのです。聖霊に満たされる、ということでもあります。
もちろん、十字架を担ぐイエス様に手を差し伸べるということは、生やさしいことではありません。日頃の生活から来る様々な制約のために、できることは限られてくるでしょう。場合によっては、殉教を覚悟で行動しなければならないこともあるでしょう。ですから、さあ、明日からみなさん、そうしましょう、とは私には言えません。私たちはあまりにも弱い者だからです。私も告白しなければならないことがたくさんあります。毎日の仕事に忙殺される中で、救いを求めている人に、手を差し伸べることができていない、そうした罪の意識がいつも私の心には突き刺さっています。先日も、浜寺昭和町にお住まいという私よりかなり年配の男性が教会の前に困ってたたずんでおられました。私は教会の仕事ででかけるところでしたが、とりあえず、お話だけ伺いましょう、ということで会館に入っていただきました。良く聞いてみると、その方はご子息と仲違いし、預金通帳も家の鍵もすべて取り上げられて、無一文、着の身着のままで放り出されたというのです。家に入ることもできず、前日は諏訪ノ森の駅のベンチで眠った。どうしよう、という相談でした。私はちょうど出かけるところだったということもあり、30分ほどお話を聞いた上で、その方に、市役所の西支所の福祉事務所か無料法律相談に行くように薦め、交通費をお渡ししました。でも、後になって、果たしてそれで良かったのか、その方は今晩どこで夜露を凌ぐのだろうか、ご一緒についていって問題の解決のお手伝いをすべきだったのではないか、などとさまざまな思いが頭をよぎりました。
それ以外にも、牧師館ではさまざまな出来事があります。一人暮らしの30歳代の男性で、鬱状態になり、何度も何度も電話をかけてこられる方、私もいく度かお祈りをいたしましたが、私の妻は30分の間電話でのお祈りを続けたそうです。金沢から就職のために出てきたが面接で断られ、帰るお金がないといって嵐の中を訪ねてこられた方もいます。そんなとき、どのようにすればよいのかわたしには、良い答えはありません。単に素直に相手の方を信じてその要求を聞いて差し上げればよいというものでもなさそうです。また、かえってその方のためにならないということもあるでしょう。しかし、少なくとも、その方たちの苦しみを神の苦しみとして受け止め、共に悩む、そして祈る、ということが、私たちキリスト者には求められているように思います。祈ってもすぐには問題は解決しない。それでも、私たちにはひたすら祈るしかない、ということも言えるかも知れません。
さらに、そうした訪問者だけではありません。私たちの教会自体が、さまざまな悩みや苦しみを抱えた人びとの共同体です。互いに、相手の瞳の中に、イエス様のお姿、苦しむ神さまのお姿を見ることができるでしょうか。単に、気の毒だから助け合う、というのではなく、互いに仕え合い、互いの苦しみを担い合い、互いに祈り合うということが、教会という共同体の基本的な性質ではないかと思うのです。それがまた、神さまに仕えるということに直接につながっていくのです。
<祈り>
いつも、私たちに豊かな恵みをお与えくださいます神さま。感謝いたします。あなたは一人のみ子イエス・キリストをこの世に送り、十字架上のみ子と共に苦しみを受けられました。そしてその苦しみを通じて私たちの罪を赦し、限りない愛の内に包み込んでくださいました。私たちはあなたの深い憐れみと愛に感謝します。どうか聖霊によって、私たちの間にあなたご自身がおられることを悟る目をお与えください。そして、思いを尽くし、力を尽くしてあなたを愛し、互いに愛し合い、仕え合うことができるように、私たちをお導きください。