2005年2月20日 大斎節第2主日 朝の礼拝
 
第1日課:創世記12:1−8
第2日課:ローマの信徒への手紙4:1−17
 
それでもなお信じる
 
  最近、いろいろと悲しい、やりきれない事件が起こります。数日前には寝屋川市の小学校で、鴨崎先生という男性の先生が卒業生に刺し殺されるという事件が起こりました。この卒業生と鴨崎先生は直接にはなんの関係もなく、犯人は教師なら誰でも良く、殺そうと思っていたと語っているそうです。鴨崎先生は同僚の先生方にも、また生徒たちにも愛された素晴らしい先生でした。なぜ、その鴨崎先生が殺されなければならなかったのでしょうか。本当にやりきれない、悲しい気持ちになります。また、インド洋津波によって20万人もの人々の命が奪われました。その多くが子どもたちであったと報道されています。津波の直前に波が引き、そのときに取り残された魚を子どもたちが無邪気に拾いに行って、戻ってきた津波に飲み込まれたという目撃も多数あります。この出来事も私たちを絶望させます。果たして神様はおられるのか、もしおられるのなら、どうしてこんな悲しい事件を起こるままにしておかれるのか、どうして悪がこの世にはびこるのか、そんな疑問を抱いてしまいます。
 そんな中で、先日、世界の聖公会の象徴的存在であるカンタベリー大主教のローワン・ウィリアムス大主教が「神の存在を疑う」という旨の発言をした、ということで物議を醸し出しています。聖公会新聞にも断片が紹介されていますので、お読みになった方もおられるかもしれません。イギリスの『サンデー・テレグラフ』という新聞に寄せた手記がもとになっています。それをCJCというキリスト教関係の通信社が報道したものを聖公会新聞が掲載したと思われます。外国では一般紙にも大々的に取り上げられました。では果たしてカンタベリー大主教は神様の存在を否定するような発言をなさったのでしょうか。とても信じられないことです。私は最近その原文を手に入れることができ、ウィリアムス大主教の苦悩と、そしてその信仰の素晴らしさを確かめることができました。断片的な報道は真実を伝えない、という見本のような出来事です。
 巨大な惨劇に直面して、ウィリアムス大主教はたしかに、こんな風に語っています。「だれにとは定めなく、突然襲ってくる死というものは、慰めごとや出来合いの答えで固められていた信仰を、ひっくり返してしまうものです。このたびのように、惨劇が計り知れないほどひどい場合には、私たちは心底、怒りと、同時に深い無力感に陥ります。どのようにすれば事態を好転させることができるのか、分からないのです。傷ついた心を抱えながら、事態に向かうしかないのです。」ここまでを読むと、確かにキリスト教信仰に懐疑的な発言をしておられうように聞こえます。しかし、ウィリアムス大主教は次のように続けます。「信仰は、そのような試練を繰り返しくぐり抜けてきました。信仰に基づいてなすべきことは、残された人々同士が熱情をもって堅く結び合うということです。知的な理解を求めるのではなく、事態を少しでも好転させる努力をもって応えるということです。被災者も救援者も一致して、二つのことに最も心を砕いています。前に進むための展望と、奉仕と愛をなすべきだという内なる要請です。こうしたことによって、神はまことにいますということをお示しくださいます。残された私たちがなすべきことは、良く聴くことです。そして骨を折ることです。できる限りのことをすることです。」
 ここには、絶望的な状況にあって、なお希望を持ち続け、与えられた奉仕の業に忠実であろうとする信仰者の姿が示されています。安易な答えではなく、苦しみの中で神が与えてくださる恵みに対する確かな信頼があります。イエス様が十字架上で唱えられた詩編として有名な詩編22編には、「わたしの神よ、わたしの神よ/なぜわたしをお見捨てになるのか。なぜわたしを遠く離れ、救おうとせず/呻きも言葉も聞いてくださらないのか。わたしの神よ/昼は、呼び求めても答えてくださらない。」と、はらわたをえぐるような嘆きの言葉が綴られています。しかし、それは絶望には終わらないのです。最後には、「主は貧しい人の苦しみを/決して侮らず、さげすまれません。御顔を隠すことなく/助けを求める叫びを聞いてくださいます。」という信頼の賛美に変わるのです。その他にも「嘆きの詩編」と言われているものは多くありますが、みな、率直にこの世の不条理、悲しみを神様にぶつけています。しかし、それは親に対して不平をぶつけるのに似ているかも知れません。その根底には、揺るがない信頼があります。ですから、最後には、その悲しみや苦悩にも関わらず神への信頼で詩編は閉じられるのです。
 信じる、ギリシャ語では「ピステウオー」と言いますが、それは、科学的に1+1=2というような事実を信じるということでは、もちろんないでしょう。むしろ、人格的な存在、私たちを造られ、限りない愛を注いでくださる神に対するひたむきな信頼、という方が当てはまるのではないでしょうか。そのような意味で、カンタベリー大主教の言葉は、希望を持ち得ない状況の中で、なおも信じる、という信仰のあり方を私たちに教えているような気がいたします。
 今日の第1日課を見ますと、アブラハム(ここではまだアブラムと呼ばれています)が神様の約束を信じて、カナンの地へ旅立つところが出てまいります。ここで大切なことは、アブラハムはハランを出発したとき、「わたしが示す地に行きなさい」と言われているだけで、到着地を知らないまま旅立ったということです(ヘブライ書11:8)。「示す地」というのは大体あっちの方、という方角だけの指示であって、東京とか北海道とかいう示し方ではないのです。アブラハムはただ神の約束を信じて、南西の方角へ歩き、ついにカナン地方に到着し、モレの樫の木の所に来ます。アブラハムはそこで祭壇を築き、神から「あなたの子孫にこの土地を与える」という約束(アブラハム契約)をいただくわけです。そしてこの後も、アブラハムの旅は続きます。神に対するひたむきな信頼をもっていなければ、とてもこんなことはできないでしょう。きっと回りの人間には嘲笑され、家族からも苦情が出たかも知れません。
 さらにアブラハムは、長い間、跡継ぎの息子がなく(古代社会では、跡継ぎの男子がいないということは、一族にとって存亡をかけた重大事だったのです)すべての財産と権利を僕のエリエゼルに譲ろうと決心するのですが、神様は息子を授けると約束されます。そのとき、アブラハムはおよそ100歳、妻のサラは90歳ぐらいの高齢でした。しかし、アブラハムは神を信じました。創世記15章には「アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」と書かれています。不可能と思われるときにも、ひたむきに神を信じる。パウロはそれをローマの信徒への手紙の中で「彼は希望するすべもなかったときに、なおも望みを抱いて、信じ」た(4:18)と表現しています。
 ここで私たちが心に留めなければならないのは、神の約束は一方的、かつ絶対であるということです。約束には2つの種類があります。一つは一定の条件の下で、「〜すれば、…してやろう」というものですが、他方は全く無条件的な約束です。無条件的な恵みとしての約束です。パウロがここで用いている言葉は、もちろん後の方です。パウロはここで、割礼と律法遵守が救いの条件であるとするユダヤ人クリスチャン、まだ古い枠を抜け出していない人々に対して、イエス・キリストの福音を信じることだけが必要であるという立場を明確にしようとしています。神の約束は、割礼や律法に関係なく、また人の努力、業によってえられるものでもありません。それは神様が私たちに無条件で与えてくださる約束です。ローマの信徒への手紙では「不信心な者を義とされる方を信じる人は、働きがなくても、その信仰が義と認められます。」と書かれています。厳しい修行を積んで、あるいはとても守れそうもない窮屈な律法を必死になって守ることによってではなく、神の愛を信頼するということです。神は独り子イエス様を私たちのために十字架につけられたほど私たちを愛してくださっています。そして、私たちに救いを約束してくださっているのです。
 この世の中には、不条理と思えることが次々と起こります。絶望に陥ることもあります。しかし、ただひたむきに神と御子イエス・キリストを信じ、不条理に思えるときに、なおかつ神を信じることが、アブラハムの信仰であり、それに倣う私たちキリスト者の信仰である、ということをもう一度かみしめたいと思います。