2005116日(顕現後第2主日・朝の礼拝)

第1日課:イザヤ書49:1-7

第2日課:ヨハネによる福音書1:29-41

 

聖なるものを礼拝する民

 

 今日、第1日課としてイザヤ書の49章を読んでいただきました。イザヤ書は時代を異にする3人の預言者の言葉から成り立っていますが、いずれの預言者も、「聖なるもの」ということをとても大切にしているという点で共通しています。今日、礼拝の中で交読いたしましたイザヤ第2の歌はイザヤ書第55章に基づいていますが、そこには「わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり/わたしの道はあなたたちの道と異なると/主は言われる。天が地を高く超えているように/わたしの道は、あなたたちの道を/わたしの思いは/あなたたちの思いを、高く超えている。」と記されています。人間の力、人間の思いをはるかに超えた方、それが神であると語っているのです。モーセは、燃える柴に現れた神と初めて出会ったとき、「ここに近づいてはならない。足から履物を脱ぎなさい。あなたの立っている場所は聖なる土地だから。」と命じられます。普段往来している所、生活の場所である所に突然「聖なるもの」が出現するわけです。モーセは驚いて履き物を脱ぎ、神を礼拝いたします。そして、イスラエルの民をエジプトから導き出すという重大な使命を神様からいただくわけです。

 「聖なるもの」とは、元のヘブライ語では「切る」「他と区別する」という意味からきており、世俗的なものから区別されたもの、触れてはならないものを示しています。聖なるものは、なにかしら神秘的な力、尊厳をそなえており、人間はそれと相対するとき畏怖を感じると共に、それに魅せられ、引きつけられます。そして聖なる神の出現に出会うと、自己の小ささ、ある意味では無限に小さな存在を自覚するのだと言われます。本日の第二日課として読んでいただきましたヨハネ福音書には、洗礼者ヨハネの二人の弟子がイエス様に出会う場面が記されています。彼らはヨハネと共にいて、歩いておられるイエスを見ます。するとヨハネが「見よ、神の子羊だ」と言うのです。もちろんヨハネはイエス様のことを知っていて、こう言うのですが、それは不思議な響きをもった言葉だとはお思いになりませんか。「神の子」「救い主」という称号はイエス様にピッタリですが、「神の子羊」とはどういうことでしょうか。私たちは毎週聖餐式で、聖餐に与る直前に「神の子羊頌」というのを歌ったり唱えたりします。ラテン語で「アニュス・デイ」といいます。「世の罪を除きたもう、神の子羊よ、憐れみをお与えください」と唱えるのです。「神の子羊」というイエス様に対する呼び名は、実はエレミヤ書やイザヤ書に出てくる預言がもとになっています。イザヤ書の53章にはこんな預言が記されています。「彼が担ったのはわたしたちの病/彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに/わたしたちは思っていた/神の手にかかり、打たれたから/彼は苦しんでいるのだ、と。彼が刺し貫かれたのは/わたしたちの背きのためであり/彼が打ち砕かれたのは/わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって/わたしたちに平和が与えられ/彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。わたしたちは羊の群れ/道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。そのわたしたちの罪をすべて/主は彼に負わせられた。苦役を課せられて、かがみ込み/彼は口を開かなかった。屠り場に引かれる小羊のように/毛を切る者の前に物を言わない羊のように/彼は口を開かなかった。捕らえられ、裁きを受けて、彼は命を取られた。」屠り場に黙々と引かれていく子羊。これは、まさにイエス・キリストの姿です。イエス様のご降誕の500年以上前に成立したイザヤ書に、他ならぬイエス様の姿が描かれているのは実に不思議なことです。そして「神の子羊」というのも、いかにも神秘に満ちた「聖なるもの」の表現ではないでしょうか。イエス様の姿をみかけたヨハネとその弟子は、その「神の小羊」に畏怖を感じると共に、それに魅せられ、引きつけらたのです。

 このような聖なるものとの出会いは、どのような形で起こるのでしょうか。二人の弟子とイエス様の出会いのように、幸運にも、突然、個人の生活に聖なるものとの出会いが起こることもあるでしょう。でも、もっとも大切なのは、共同体として神を礼拝するときではないでしょうか。共に礼拝を献げるとき、私たちは神様をごく身近に感じ、聖なる方との出会いを経験するのではないかと思うのです。ノアは洪水を生き延びて陸地に足をおろしたとき、まず祭壇を築いて神を賛美しました。アブラハムが神が約束されたカナンの地に到着したとき、最初に彼がしたことは、祭壇を築いて神に感謝する礼拝を献げることでした。モーセが神から召命を受けて、エジプトのファラオに要求したのは、「三日の道のりを荒れ野に行かせて、私たちの神、主に犠牲をささげさせてください。」(出エジプト3:18)ということでした。神によって創造され、神によって恵みを受けている人間にとって、神の恵みに感謝して礼拝を献げるということは、ごく自然なことであり、本質的な営みだということはできないでしょうか。

 ところが、さまざまな仕組みが発達し、情報が満ちあふれ、忙しい生活を送っている現代の私たちには、「礼拝」というと、なにか余分なこと、非本質的なこと、してもしなくてもどちらでも良いことのように思われているのです。あるいはひょっとしたら、時代遅れで、馬鹿げたことと思われているかも知れません。しかし、余分なこと、不必要と思われていることの中に、大切なものが隠されているということはよくあることです。忙しい現代の中で失われ忘れ去られていること、例えば、自然の中で物思いにふける時間、友人との無駄話、コタツに入ってぼーっとしている時間。それらは、みな、私たちにとって大切なものです。そして、礼拝というのは、それらとは比べものにならないくらい大切なことです。日常的な生活の中でつい神様を忘れ、自分中心の、罪深い生き方をしている私たちにとって、極めて大切な事柄なのです。ところが、私たちは日頃の忙しさにかまけて、あれこれと口実を設けて、この大切なものから遠ざかろうとします。越川弘英さんという同志社大学キリスト教文化センターの先生が、『今礼拝を考える』という本の中で、こんな歌の歌詞を紹介しておられます。ハリー・チェイビンというシンガーソングライターが書いた「Cats in the Cradle ゆりかごの猫」という歌だそうです。

 「私の子供が生まれてきたのはついこのあいだ/ごくあたりまえにこの世に来たが、親の私は暮らしのために追われる毎日/この子が歩けるようになったときも私は留守で/留守の間に言葉も覚えた/成長するとよくこう言った/『ぼくはパパのようになるよ、きっと!/そうともパパのようになるんだ』/猫はゆりかご/銀のさじ/空には大きなお月さま/『パパ、いつ帰る?』/『さあ、わからない。帰ってきたら、一緒にあそぼう。そのとき楽しくやろうじゃないか、な。』

 それから息子は十歳になった。/『おみやげのボールありがとう。/一緒に遊ぼう。投げ方教えて。』/『きょうはだめだよ。忙しい。』/『そんならいいよ。』と息子は答え、笑顔を見せて立ち去ったときに/その目がこう語りかけた。/『そう、ぼくはきっとパパのようになるよ。』/猫はゆりかご/銀のさじ/空には大きなお月さま/『パパ、いつ帰る?』/『さあ、わからない。帰ってきたら、一緒にあそぼう。そのとき楽しくやろうじゃないか、な。』

 三番は省略して、四番です。

 私は定年、息子は独立、ある日、息子に電話をかけた。/『会いたいもんだね、都合はどうだい。』/会いたいけれども、その暇がないんだ、なにしろ、仕事が大変で、子供が流感なんだ。電話をくれてありがとう、父さん、それじゃ、また今度。』/電話を切って、つくづく思った。息子も今ではかつての私と同じだ。かつての私と/猫はゆりかご/銀のさじ/空には大きなお月さま、/『お前、いつ帰ってこられる?』/『さあ、わからない。でも帰ってきたらつきあうからさあ、そしたら、楽しくやろうじゃないか、ね。』

 なんとなく切なくなる歌ではありませんか。「猫はゆりかご/銀のさじ/空には大きなお月さま」というのは、変わらずに私たちの身の回りにあるものを表しているのでしょうか。そして、いつも、いつも、忙しさにかまけて、さまざまに口実を設けて子どもと遊ぶことさえしてこなかったお父さん。それは、まるで私たちのようではないかと思うのです。この歌と同じように、私たちは、繰り返し、繰り返し呼びかけられる神様の呼びかけに対しても、「さあ、わからない。忙しいから」と答えてきたのではないでしょうか。

 ここで、もう一度、礼拝の意味についてよく考えてみる必要がありそうです。

 第一に、礼拝とは、私たちに与えられている神の恵みへの感謝として、自然に行われる行為であるということです。私たちは、仕事、生活、人生の中で、さまざまな恵みを受けています。それに対する感謝の気持ちを忘れた人間は、傲慢になり、自分中心になり、神様から離れた生活を送ります。すべてのことに感謝する心。それこそが、礼拝の基本だと思います。

 第二に、礼拝とは神様との対話を通じて、最も大切なものを見つめる。そして自分自身を見つめる大切な時間であるということです。忙しい日常の中で、大切なものを忘れ去っている私たち。しかし、礼拝の中で、神様との関係、隣人との関係、家族との関係、そうしたものを見つめ、そして、自分自身の生き方、あり方を見つめることができます。それは、ある意味では恐ろしいことかも知れません。でも、それを逃れることとはできません。礼拝の中で行われる祈りと賛美を通じて、私たちはそうした大切なことを行っているのです。

 第三に、本当の意味で自由な人間だけが礼拝を献げることができる、ということです。モーセがファラオに要求したのは、食事の改善や労働条件の改善ではありませんでした。イスラエルの人々を自由にし、神に礼拝を献げる機会を与えることでした。奴隷は礼拝することができないからです。私たちもまた、毎日の忙しい生活の中で、仕事の奴隷、時間の奴隷、場合によってはお金の奴隷にさせられているかもしれません。神様は私たちをそうした奴隷の身分から解き放って、大切な礼拝へと招いて下さっているのです。

 第四に、教会とは何よりもまず、礼拝する神の民、礼拝共同体だということです。礼拝こそが教会生活の中心にならなければならないと思います。それを中心にして、さまざまな奉仕や交わり、宣教活動があるのです。

 私たちは、そんな大切な礼拝を毎日曜日に集まって、みんなでお献げしているのだということを、もう一度かみしめてみたいと思います。