2005年12月4日 降臨節第2主日(B年)
旧約聖書:イザヤ書40:1-11
使徒書:ペトロU 3:8-15a,18
福音書:マルコ1:1-8
洗礼者ヨハネの役割
降臨節第2主日と第3主日には、福音書で洗礼者ヨハネのことが語られます。洗礼者ヨハネ(あるいはバプテスマのヨハネ)は、イエス様のいわば先駆者、相撲で言いますと露払いに当たる預言者ですから、イエス様のご降誕を心待ちにする降臨節(アドヴェント)にはふさわしいテーマだと思います。では、洗礼者ヨハネというのは、一体どんな人だったのでしょうか?ルカ福音書によりますと、ヨハネは、聖母マリヤの親類に当たるエリサベト(エリサベツ)と祭司ザカリアの間に生まれたということですから、肉においてはイエス様と遠縁に当たるようであります。本日の福音書でありますマルコ1:6節には、「らくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた。」と記されています。マタイ福音書の3章7節以下を見ると、ファリサイ派やサドカイ派を厳しく批判し、人々に激しく悔い改めを迫る説教を行ったと記されています。ですから、かなり厳しい禁欲生活を送った人で、世の中の不正や罪に対しては厳しい裁きの言葉を語ったことが分かります。
ティツィアーノという16世紀のイタリアの画家が、洗礼者ヨハネの絵を描いていますが、まさに荒れ野の中で苦行を貫く修業者の雰囲気を漂わせています。またカラバッジョという人が描いた絵を見ますと、俯き加減の寂しそうなヨハネが浮かび上がってきます。私はこの2人の絵を見て、厳しさ、審き、孤独という人間のあり方を強く感じましたが、そこに喜び、安らぎ、幸福がないということに気付きました。それは何故でしょうか?
イエス様がお生まれになる当時のイスラエルの状況を少し見てみましょう。当時のイスラエルは、ローマ帝国の属州とされ、ローマ帝国とユダヤの支配者から二重の支配を受けていました。ユダヤ教はサドカイ派やファリサイ派といった様々な分派に分かれていましたが、神とイスラエルの民の契約を守るという考え方では一致し、程度の違いはありましたが、様々な律法を守ることで救いが得られるという信仰を持っていました。同時のユダヤ教には口伝えにされたものを含めて実に613もの戒めがあったと言われています。こうした細々とした掟を完璧に守る人こそ、正しい人だとされていたのです。いわば、外的な掟で自らを縛ることによって、神様の命令に従おうとしたのです。
洗礼者ヨハネは、サドカイ派やファリサイ派の偽善と欺瞞を厳しく批判し、悔い改めを迫りましたが、苦行に頼り、水による洗礼以外には救いへの道を明らかにすることはできなかったようであります。ある意味ではヨハネは外的な律法を徹底しようとしたのかもしれません。そしてユダヤ教の教えを厳格に守ることによって、罪の赦しを求めたのでしょう。画家の信仰を通して描かれたものですが、ティツィアーノやカラバッジョの絵に見られる厳しさと寂しさというのは、そこから来ているのだろうと思います。
ではイエス様はどうでしょうか。イエス様は荒れ野での40日間の断食などの苦行もなされましたが、何よりもそのご生涯を通して、多くの人々に救いと癒しの喜びを与えられました。病人は癒され、罪人は赦され、貧しい人びとには祝福が与えられました。イエス様の周りには、きっと賑やかな、喜びに満ちた笑い声と話し声が絶えなかったのではないでしょうか。イエス様はその喜びをしばしば婚宴に譬えておられます。また、「大食漢で大酒のみ」と陰口を叩かれるほど、人々とよく食事を楽しまれました。イエス様の屈託のなさをよく表している福音書の記事があります。それは、マルコ福音書2:23以下のこんな場面です。「ある安息日に、イエスが麦畑を通って行かれると、弟子たちは歩きながら麦の穂を摘み始めた。ファリサイ派の人々がイエスに、「御覧なさい。なぜ、彼らは安息日にしてはならないことをするのか」と言った。イエスは言われた。「ダビデが、自分も供の者たちも、食べ物がなくて空腹だったときに何をしたか、一度も読んだことがないのか。アビアタルが大祭司であったとき、ダビデは神の家に入り、祭司のほかにはだれも食べてはならない供えのパンを食べ、一緒にいた者たちにも与えたではないか。」そして更に言われた。「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。」いかがでしょうか。麦の穂というのは当時イスラエルでは、旅人が空腹を紛らわすために、少々ならつみ取って食べても泥棒にはならない、と定められていました。ところがファリサイ派は、それは労働に当たるから安息日にしてはならないのだと言ってイエスさま一行を非難したのです。それに対してイエス様ははっきりと、人間の必要を満たす行為を肯定されたのです。律法主義を突き破る一瞬でした。
イエス様の周りには子供たちも集まってきました。「天の国は子供たちのものだ」と教えておられます。もう一枚の絵を見てみましょう。これは皆様よくご存じの、教会の会館にかかっている絵です。フリッツ・フォン・ウーデというドイツの画家の「子どもたちをわがもとに来させよ」と題された絵を、当教会の信徒であった大田健一画伯が模写されたものです。家の様子や子どもたちとそれを取り巻く人々は19世紀ヨーロッパの格好をしています。しかし、子どもたちを見つめるイエス様の優しい眼差しが感じられる絵ではないでしょうか。洗礼者ヨハネの厳しさを突き抜けた静かな優しさと愛が発散されているように思います。
そして何よりもまず、イエス様は病気の人、悩む人、苦しむ人、そして律法を守るすべも知らない「地の民」と呼ばれる人々の友となり、解放の喜びを告げられました。本日のイザヤ書には、「苦役の時は今や満ち、彼女の咎は償われた。」と記されていますが、まさにイエス様の出現はイスラエルの人びとにとっては慰めの喜びであり、喜び踊る知らせなのですが、さらに大きく、広く、ユダヤ人だけでなく、すべての人々に告げられた福音(良い知らせ)であります。イエス様は人々を外からの規則によって縛ることはなさいませんでした。そうではなく、弱く何もできない人、規則によってがんじがらめになっていたユダヤ社会からはじき出された人々にも、律法によらない、心の中から生まれる信仰による救いを告げられたのです。
ある意味で、洗礼者ヨハネは、善を求め、正義を求める人間の側の最善の努力を表しているということができます。律法、つまり規則や、苦行、つまり人間の必死の努力は、私たちにとって必要なものです。人間は弱いものですから、規則がなければ社会は崩壊するかも知れません。しかし、規則はともすれば硬直し、人間を縛り抑圧する掟に変質します。また、私たちには努力だけではどうしようもないこともあります。人間の力の限界に直面するのです。あるいは、努力して正しさを得た場合には、それゆえに、他人を裁き、非難することにさえなるのです。その洗礼者ヨハネの限界を突き破り、まったく違ったところから、つまり神さまから送られてきた喜びの福音を携えてこられたのがイエス・キリストなのです。マタイ福音書11章11節には「およそ女から生まれた者のうち、洗礼者ヨハネより偉大な者は現れなかった。しかし、天の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である。」という言葉がありますけれども、イエス様の出現は、人間の知恵や努力を超えたところから来る全く新しい、思いもかけない神さまからの贈り物でした。ヨハネはイエス・キリストの露払いとして人々に悔い改めを迫り、洗礼を授けましたが、ヨハネからイエスへのバトンタッチは、律法から恵みの福音へ(イエス様はそれを別のところでは律法の完成と言っておられます)、束縛から自由へ、罪からの解放への根本的な転換だったのです。
宗教改革者のマルチン・ルターは、若いときには、非常に厳格な修道院生活を送っていました。沈黙を守り、両手は修道服の中に入れ、毎日を労働と祈りで過ごします。聖堂内部では厳しい監督と統制のもとで告悔が進められ、罪についての話し合いが行われました。修道士たちは床にひれ伏し、罪を認めるのでした。このような沈黙と苦行の中で、神に近づくことが可能になると教えられていたのです。ルターは激しい罪意識を抱くようになり、怒りに満ちた神、裁きの神を身近に感じるようになりました。しかし、ルターはやがて、突如光を受けたように新しい理解が与えられるという経験をするのです。それは、大学の学生寮の塔の中にあった図書室において彼に示された新しい光であって、「塔の体験」と呼ばれています。彼は、人間は苦行や努力による善行によってではなく、ただ信仰によってのみ救われること、人間を義とするのはすべて神の恵みであるという理解に達し、ようやく心の平安を得ることができたのです。まさに、厳格な洗礼者ヨハネの道から、イエス様の恵みの光にてらされて歩む新しい道へ、彼は導かれたということができます。この新しい「光」によって福音と聖書を読み直すことで、かつてあれほどルターを苦しめた神さまからいまや大きな慰めを得るようになったのであります。
今は、イエス様を待つ降臨節です。私たちも、しかめ面をやめ、大いに喜びに満たされようではありませんか。そして、私たちの心の中に、平和の君、赦しと慰めの主であるイエス様をお迎えすることができるように、胸を大きく膨らませようではありませんか。